第84話 署名がいらない理由
その言葉でようやく、大翔は我に返ったようにコーヒーカップへ手を伸ばした。
一口含んだ瞬間、豊かな香りとほどよい苦みが口いっぱいに広がる。
大翔は思わずカップを見つめ、それから先ほどまでサイフォンを扱っていた男性へ視線を向けた。
「……おいしい」
素直に漏れた言葉に、橘が満足そうに笑う。
「でしょう?」
麻衣とはるなもアイスティーへ口をつける。
しっかりと冷えているにもかかわらず香りは豊かで、すっきりとした味わいが喉を通り抜けていった。
「これもおいしい……」
「本当に。すごく香りがいいですね」
二人が感心していると、応接室の扉が再び開いた。
今度は別のワゴンが運び込まれ、その上には色とりどりの洋菓子が美しく並べられている。
「え?」
麻衣が目を瞬かせた。
小さく切り分けられたケーキやタルト、焼き菓子などが次々とテーブルへ並べられていく。
一つ一つは食べやすい大きさに整えられているものの、種類は多く、見た目にも華やかだった。
「まだあるんですか?」
「もちろんよ」
橘は何を当たり前のことを聞いているのかと言わんばかりに笑う。
「お茶だけでは寂しいでしょう?」
「いや、十分すごかったですけど……」
はるなが苦笑しながら答える。
それでも目の前へ並んでいく洋菓子には興味を隠せず、麻衣も同じように一つ一つを眺めていた。
気付けばテーブルの上は、先ほどまで国家機密について話していた場所とは思えないほど華やかになっている。
本格的に淹れられたコーヒーや紅茶に、様々な洋菓子まで並んだ光景は、まるで英国式のアフタヌーンティータイムさながらだった。
「……ここ、総理官邸ですよね?」
「さっきも同じようなこと言ってなかった?」
「言いたくもなりますよ!」
麻衣がはるなへ視線を向けると、はるなは思わず声を上げた。
大翔も苦笑しながらコーヒーへ口をつけ、橘はそんな三人のやり取りを楽しそうに眺めながら、いつもの日本茶とともに洋菓子へ手を伸ばしている。
結局、国家機密の話はいったん完全に脇へ置かれた。
麻衣、大翔、はるな、そして橘の四人は、しばらくの間、用意された飲み物と洋菓子を存分に堪能することになった。
小休止を終えると、一行は応接室を出て官邸内を移動した。
楓に案内されながら静かな廊下を進み、やがて一つの会議室の前へ到着する。
官邸職員が扉を開け、その室内を目にした瞬間、麻衣の表情がわずかに曇った。
「……またここですか」
ほんの少しだけ嫌そうな声だった。
「?」
大翔とはるなが揃って麻衣を見る。
楓も室内へ視線を向けると、麻衣の反応に納得したように小さく頷いた。
「確かに、ここは麻衣さんにとって、あまり良い思い出のある場所ではないでしょうね」
「まあ……そうですね」
麻衣が苦笑する。
「…………」
「…………」
大翔とはるなの視線が、麻衣と楓の間を往復した。
「……また?」
「良い思い出がない……?」
二人がほとんど同時に呟く。
麻衣はその声に気付いて振り返った。
「ん?」
「いや……」
大翔は何かを聞こうとしたものの、次から次へと新しい話が出てくる現状を思い出したのか、途中で諦めたように首を横へ振った。
「……あとでいいです」
「そう?」
麻衣は不思議そうに首を傾げ、そのまま会議室へ入っていった。
はるなも何とも言えない表情で大翔と顔を見合わせると、そのあとへ続く。
全員が席へ着いたところで、楓が大翔へ視線を向けた。
「久我さん」
「はい?」
「先ほど中断してしまいましたので、ご質問にお答えしておきます」
「……ああ」
大翔もすぐに何のことか思い出した。
「秘密保持の書類が必要ないという話ですね」
「はい」
楓は静かに頷いた。
「もちろん、通常であれば国家機密情報を取り扱う以上、相応の手続きが必要となります」
そこで一度言葉を切り、大翔とはるなを順番に見る。
「ですが、今回に関しては少々事情が異なります」
「事情?」
はるなが首を傾げる。
楓はわずかに言葉を選ぶような間を置いたあと、淡々と続けた。
「率直に申し上げます」
その一言で、大翔とはるなが自然と姿勢を正した。
「仮にお二人から秘密保持に関する署名をいただいたとしても、お二人が今回知り得た情報を外部へ漏らした場合、我々政府機関には、その約束を強制できるだけの力がございません」
「…………」
「…………」
二人が黙る。
楓は表情を変えないまま続けた。
「より直接的に申し上げれば、我々にはお二人を強制的に拘束できるだけの実力がありません。そのような状況で署名をいただいたところで、それによってお二人の行動を担保できるとは考えておりません」
「…………」
あまりにも身も蓋もない理由だった。
「ですので、今回はお二人を信頼した上で情報を開示する、という判断になっております」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
はるなが慌てて声を上げた。
大翔も驚いたように麻衣へ顔を向ける。
「麻衣さん!」
「なに?」
突然二人から見られ、麻衣が目を瞬かせる。
「政府に俺たちのこと、どこまで話してるんですか?」
「え?」
大翔の問いに、麻衣は少し考えるように視線を上へ向けた。
「そんなに詳しくは話してないよ?」
「本当ですか?」
「うん」
麻衣は何でもないことのように頷く。
「《フィジカル・ブースト》と《クイック・アクセル》だけ使った私なら、久我くんとも結城さんとも、だいたい互角くらいだよって言っただけ」
「…………」
「…………」
大翔とはるなが揃って固まった。
「……それだけ?」
「それだけだよ?」
麻衣が不思議そうに首を傾げる。
二人は今度は楓へ顔を向けた。
楓は二人の視線を受けると、何でもないことのように頷いた。
「はい。それだけ伺えば十分でした」
「十分なんですか!?」
はるなの声が会議室へ響いた。
「はい。十分です」
楓は何でもないことのように答える。
「…………」
はるなは言葉を失い、大翔も信じられないものを見るような目を楓へ向けた。
麻衣が政府へ伝えたのは、《フィジカル・ブースト》と《クイック・アクセル》だけを使用した状態の自分と、二人がそれぞれ互角程度だという話だけらしい。
能力の詳細も、使える魔法も、戦闘経験についても説明していない。
それだけの情報で、政府は自分たちを強制的に拘束できない存在だと判断している。
「……それだけで、ですか?」
大翔が確認するように尋ねた。
「それだけで、我々をそこまで評価されたんですか?」
「はい」
楓は迷うことなく頷いた。
「…………」
大翔は眉間へ皺を寄せた。
はるなも納得できないような表情を浮かべていたが、やがて何かに気付いたように麻衣へ視線を向ける。
「……あ」
「どうした?」
「いえ……」
はるなは麻衣を見つめたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「私たちのことを詳しく知らないのに、そこまで判断できたということは……」
そこで一度言葉を切る。
「麻衣さんの実力については、判断できるだけの何かがあったってことですよね?」
「……ああ」
大翔もようやく気付いた。
二人の視線が同時に麻衣へ向かう。
「ん?」
麻衣はなぜ二人から見られているのか分からないようで、不思議そうに首を傾げていた。
「麻衣さん……」
「なに?」
「政府に何をしたんですか?」
「え? 別に何もしてないけど?」
麻衣は本気で心当たりがないような顔をする。
大翔とはるなが何とも言えない表情を浮かべたところで、楓が静かに口を開いた。
「正確には、麻衣さんが政府に何かをされたというわけではありません」
「では、どうして?」
はるなの問いに、楓は二人へ視線を戻した。
「以前、我々政府は、加山麻衣さんが日本国と敵対した場合を想定した戦闘シミュレーションを実施しております」
「…………」
「…………」
大翔とはるなが固まった。
「……戦闘シミュレーション?」
「はい」
楓は淡々と頷く。
「当時までに確認できていた麻衣さんの身体能力、反応速度、戦闘能力などを可能な限り数値化し、対処に必要となる戦力について試算いたしました」
「そんなことまでしてたんですか?」
はるなが驚いて麻衣を見る。
「うん。私も聞いた」
麻衣はあっさりと答えた。
「聞いたって……」
はるなはさらに何か言いたそうだったが、楓がそのまま説明を続ける。
「その結果、首都圏に展開可能な自衛隊戦力を総動員して対処した場合でも、我が国側の勝率は、高く見積もって二十パーセント程度という結果になりました」
「…………え?」
はるなが小さく声を漏らした。
大翔も一瞬、聞き間違えたのではないかという表情になる。
「二十……パーセント?」
「はい」
楓は変わらない口調で頷いた。
「しかも、これは当時我々が把握していた情報だけを基準にした試算です」
楓の視線が麻衣へ向かう。
「当然ながら、麻衣さんが保有している能力のすべてを我々が把握できているとは考えておりませんでした。実際、麻衣さんご本人からも、本気を出した状態ではないと伺っております」
「…………」
大翔とはるなの表情がさらに固くなる。
「そのため、未知の能力まで含め、麻衣さんが本気で我が国と敵対した場合には、勝率はさらに低下すると判断しています」
楓は一度だけ小さく息を吐いた。
「勝率は一桁まで低下する可能性が高い、というのが我々の見解です」
「…………」
「…………」
今度こそ、大翔とはるなは何も言えなくなった。
自分たちも麻衣が強いことは知っている。
それどころか、修学旅行のあとに異世界へ召喚され、そこで麻衣がどれほど常識外れの力を持っているのかを実際に目の当たりにしている。
だから、政府の分析が完全に的外れだとは思わない。
むしろ二人が驚いているのは、限られた情報しか持っていないはずの日本政府が、そこまでの結論を出していたことだった。
「そして」
楓が静かに続ける。
「その戦闘シミュレーションで想定していた麻衣さんと、お二人はそれぞれ互角程度であると、麻衣さんご本人から伺いました」
「…………」
大翔の頬がわずかに引きつる。
「一人を相手にするだけでも、首都圏の自衛隊戦力を総動員して勝率が二十パーセント程度。当時、我々が想定していた麻衣さんと同程度の戦闘能力を持つ方が、さらにお二人いらっしゃるわけです」
楓はそこで一度言葉を止めた。
そして、大翔、はるな、最後に麻衣へ順番に視線を向ける。
「ですから、仮にお三方が揃って日本国と敵対された場合――」
会議室が静まり返る。
「率直に申し上げれば、我が国に勝ち目はありません」
「…………」
「…………」
あまりにも淡々と告げられた言葉に、大翔とはるなは唖然とした。
楓はそんな二人の様子を見ながら、小さく息を吐く。
「我が国が正面からお三方を制圧しようとすれば、こちらが一方的に壊滅する以外の結果は、現時点では想定できませんからね……」
最後だけ、どこかしみじみとした口調だった。
「…………」
大翔とはるなは何も言えない。
やがて二人の視線が、ほとんど同時にゆっくりと麻衣へ向かった。
「ん?」
麻衣が首を傾げる。
「……そんなに?」
「「麻衣さん!?」」
二人の声が、再び会議室へ響き渡った。
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