第83話 なぜかティータイム
「……え?」
大翔が再び目を瞬かせた。
国家機密情報を見せてもらうというのに、秘密保持に関する書類すら必要ないと言われれば、驚くのも無理はない。
「それは、どういう――」
「あっ、そうですわ!」
大翔が理由を尋ねようとしたところで、橘が突然声を上げた。
何かを思い出したように両手を合わせると、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「私ったら、気が利かなくてごめんなさいね? 楓さん、例のものをお出しして」
「承知しました」
楓はすぐに応じると、近くに控えていた官邸職員へ連絡を入れた。
「…………」
大翔は質問しかけた姿勢のまま固まっていた。
てっきり秘密保持の書類が不要な理由を説明してくれるのだと思っていたが、どうやらまったく別の話らしい。
「……そっちですか」
「ん?」
橘が不思議そうに大翔を見る。
大翔は何でもないと首を横へ振り、諦めたように口を閉じた。
そんなやり取りを見ていた麻衣が、橘へ視線を向ける。
「橘さん、どうします? 見ながらにしますか?」
「いえいえ」
橘は笑顔で首を横へ振った。
「来て早々、そんなぶしつけなことをお願いするのもなんですから、まずは小休止としましょうよ! せっかく来てもらったんだもの。少しくらいゆっくりしてもらわないと」
「そうですか?」
「そうよ。麻衣ちゃんはもう見てるからいいでしょうけど、大翔くんとはるなちゃんは今日が初めてなんでしょう?」
「まあ、そうですけど」
麻衣は納得したように頷く。
大翔とはるなは、その会話を聞きながら何とも言えない表情を浮かべていた。
総理官邸へ連れてこられ、日本の総理大臣と対面し、国家機密情報を見せると言われた直後に小休止を勧められている。
今日ここへ到着してからというもの、二人の感覚が追いつかないことばかりだった。
そうこうしているうちに、応接室の扉が静かに開いた。
先ほど廊下で待機していた官邸職員が扉を開け、その向こうから数人の男女がワゴンを押しながら室内へ入ってくる。
「……?」
はるなが興味を引かれたようにそちらを見る。
ワゴンにはカップやグラスだけでなく、いくつもの器具や容器が整然と並べられていた。
入ってきた者たちの中には、一般的な官邸職員とはどこか雰囲気の異なる男女も混じっている。
立ち居振る舞いは洗練されており、職員というより、高級ホテルや格式あるレストランのサービススタッフと言われた方が納得できそうな雰囲気だった。
その中の一人が一礼し、麻衣たちへ穏やかな笑みを向ける。
「お待たせいたしました」
用意できる飲み物をいくつか説明すると、最後に丁寧な口調で尋ねた。
「冷たいお飲み物と温かいお飲み物、どちらがよろしいでしょうか?」
「えっと……」
はるなはワゴンへ視線を向けながら少し迷う。
大翔も並べられている器具を見ていたが、やがて口を開いた。
「じゃあ、温かいコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
その返事と同時に、担当していた男性が静かに動き始めた。
「……え?」
大翔が目を瞬かせる。
ワゴンから取り出されたのは、すでに淹れられたコーヒーの入ったポットではなかった。
男性は容器から必要な分だけコーヒー豆を取り出すと、小型のミルへ移して、その場で挽き始める。
間もなく、挽きたての豆から立ち上る香ばしい香りが周囲へ広がった。
「……そこからなんだ」
麻衣が思わず呟く。
はるなも興味深そうに身を乗り出し、大翔は自分が注文したものだということも忘れたように男性の手元を見つめていた。
豆を挽き終えるのとほとんど同時に、ガラス製の器具が手際よく組み上げられていく。
下部のフラスコへ水が注がれ、その上へロートが取り付けられると、挽きたてのコーヒー豆が丁寧に入れられた。
「サイフォン……?」
はるなが思わず呟く。
やがて熱せられた湯が上部へ上がり始め、担当する男性はその変化を見極めながら、流れるような手つきでコーヒーを撹拌していく。
同時にカップも温められ、次の工程へ移る頃には必要な準備がすべて整っていた。
慌ただしさを感じさせないまま、一つ一つの動作が滑らかにつながっている。
「……すご」
「なんか……ずっと見てられますね」
麻衣とはるなが揃って感心したように呟く。
「ああ……」
大翔も思わず頷いた。
いつの間にか三人とも、その手元へ完全に見入っていた。
その様子を確認していた別の担当者が、今度は麻衣とはるなへ視線を向ける。
「お二人は、いかがなさいますか?」
「あ、私はアイスティーで」
「私も同じものをお願いします」
「かしこまりました」
二人の注文を受けると、別の担当者が茶葉の入った容器を開き、その場で紅茶を淹れ始めた。
「……アイスティーも今から作るんだ」
「すごいですね……」
抽出したばかりの紅茶は、香りを損なわないよう手早く氷で冷やされていく。
コーヒーとは違う工程でありながら、こちらも動作に迷いはなく、気付けば大翔まで二人の担当者の手元へ交互に視線を向けていた。
ほんの数分前まで国家機密の話をしていたことなど、三人とも一時的に忘れているようだった。
「ふふっ」
そんな三人を見て、橘が楽しそうに笑う。
「すごいでしょう?」
「はい……」
麻衣は素直に頷いた。
「なんか、飲む前からすごいですね」
「そこ?」
橘が笑う。
「総理はいかがなさいますか?」
尋ねられた橘は、少しも迷うことなく答えた。
「私はいつもの日本茶をお願い」
「かしこまりました」
「いつもの……」
はるなが小さく呟く。
当然といえば当然なのだが、総理大臣にも「いつもの」が存在することが妙に新鮮だった。
ほどなくして、大翔の前へ淹れたてのコーヒーが静かに置かれた。
続いて麻衣とはるなの前には透き通った色合いのアイスティーが用意され、最後に橘の前へ香り立つ日本茶が置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
三人は揃って礼を言ったものの、すぐには飲もうとしなかった。
つい先ほどまで目の前で繰り広げられていた手際に圧倒され、出来上がった飲み物をまじまじと見つめている。
その様子を眺めながら、橘は日本茶の湯呑みへ手を伸ばした。
「さあ、冷めないうちにいただきましょう?」
その言葉でようやく、大翔は我に返ったようにコーヒーカップへ手を伸ばした。




