第82話 カフェ感覚の総理官邸
麻衣の隣に座っていたのは、日本の総理大臣だった。
「…………」
「…………」
大翔とはるなが完全に固まっていると、その女性――橘さくらは二人の顔を交互に見つめた。
次の瞬間、ぱっと表情を明るくすると、先ほどまでの落ち着いた雰囲気が嘘だったかのように身を乗り出す。
「あら! あなたたちが大翔くんにはるなちゃん?」
「え?」
「は、はい……」
二人が戸惑いながら返事をすると、橘の表情がさらに明るくなった。
「麻衣ちゃんから聞いているわ! もう、私、驚いてしまって!」
その声は、テレビで国会答弁をしている時の落ち着いた総理大臣とは到底思えないほど弾んでいた。
「まさか麻衣ちゃんだけじゃなくて、ほかにもいるなんて! 本当にびっくりしたのよ! それで今日会えるって聞いたから、私、すっごく楽しみにしてたの!」
「…………」
「…………」
大翔とはるなは何も返せなかった。
目の前にいる人物がテレビで何度も見た日本の総理大臣であることは間違いないのだが、どうしても普段の姿と結びつかない。
橘はそんな二人の困惑など気付いていないのか、楽しそうに二人を見比べている。
「大翔くんが――」
「総理……」
橘がさらに話を続けようとしたところで、楓が額へ手を当てた。
深いため息こそ吐かなかったものの、その表情には明らかに「また始まった」と書かれている。
「少々、落ち着いてください」
「あら、私、十分落ち着いてるわよ?」
「……左様でございますか」
楓が諦めたように答える。
そのやり取りを見ていた麻衣は、しばらく口元を押さえていたものの、とうとう堪えきれなくなった。
「ふふっ……あはははっ!」
「麻衣ちゃん、どうして笑うのよ?」
「だって……総理、全然落ち着いてないですって!」
「そうかしら?」
「そうですよ!」
麻衣は楽しそうに笑い続け、橘は不思議そうに首を傾げる。
楓は再び額へ手を当てていた。
しかし、大翔とはるなだけは、その空気についていけていなかった。
「…………」
「…………」
総理大臣が麻衣を「麻衣ちゃん」と呼んでいる。
麻衣も総理大臣を前にして普通に笑っている。
しかも、総理の側近らしい楓まで、完全に慣れた様子でその光景を受け流していた。
はるなは何度か麻衣と橘を見比べたあと、とうとう我慢できなくなったように口を開いた。
「ま、麻衣さん?」
「ん?」
麻衣が笑いを収めながら振り向く。
「これ……どういうことですか?」
はるなの声には困惑が滲んでいた。
大翔も同じことを聞きたかったらしく、黙ったまま麻衣へ視線を向ける。
麻衣はそんな二人を見て、少しだけいたずらっぽく笑った。
「いや、同族がいる以上、日本国には報告しとかないとまずいかなって思ってね?」
「同族……?」
はるなが目を瞬かせる。
大翔は一瞬だけ黙ったあと、眉間へ皺を寄せた。
「……誰が同族だ」
「え? 違うの?」
「違うだろ」
大翔が即座に否定する。
麻衣はわざとらしく首を傾げた。
「普通じゃない側って意味では、だいたい同じじゃない?」
「括りが雑すぎるだろ……」
大翔が呆れたようにため息を吐く。
はるなもようやく少しだけ緊張が解けたのか、困ったように苦笑した。
「でも、だからって普通、総理官邸に連れてきます?」
「だって、私のことも総理は知ってるし」
麻衣は何でもないことのように答える。
「修学旅行で久我くんと結城さんのことも分かったから、黙ってるより一応ちゃんと報告しておいた方がいいかなって。それで総理に話したら、二人にも会いたいって」
「そうなの!」
待っていましたと言わんばかりに橘が会話へ入ってきた。
「麻衣ちゃんから話を聞いた時、本当に驚いたのよ! それで、どうしても二人に直接会ってみたくなっちゃって!」
「総理」
楓が静かに呼び掛ける。
「あら、何?」
「またお話が長くなりそうです」
「まだ全然話してないじゃない」
少し不満そうに頬を膨らませる橘を見て、大翔とはるなは再び言葉を失った。
テレビで見る日本の総理大臣。
国会で厳しい質問を受けても落ち着いて答弁し、記者会見でも冷静に言葉を選んでいる人物。
その人物が今、目の前で楓に注意されて頬を膨らませている。
「…………」
はるなが何とも言えない表情で麻衣を見る。
その視線の意味を察したのか、麻衣は小さく笑った。
「うん。私も最初に会った時、同じこと思った」
「やっぱりですか……」
はるながようやく絞り出した言葉に、麻衣は楽しそうに頷いた。
その隣では、大翔がすっかり諦めたような表情で、麻衣と橘を交互に見比べていた。
「まあ、今日会おうって言ったのは、本当に久しぶりに二人に会いたかったからなんだけどね」
麻衣はそう言って、何でもないことのように笑った。
「それとは別に、実はちょっと見てもらいたいものがあったんで、場所をここにしたの」
「…………」
はるなは一瞬、何も言えなかった。
総理官邸の応接室で総理大臣を隣に座らせながら、麻衣の口調だけはあまりにも普段どおりだったからだ。
「麻衣さん……」
「ん?」
はるなは何とも言えない表情で麻衣を見る。
「そんな、カフェで待ち合わせしたみたいなノリで言うことじゃないですよ?」
「そう?」
麻衣が不思議そうに首を傾げる。
はるなは思わず額へ手を当てた。
「ここ、総理官邸ですよ……?」
「うん。知ってるよ?」
「そういう意味じゃないです……」
はるなが力なく返す。
大翔も隣で同意するように小さく頷いていた。
「それでね」
そんな二人の反応を気にする様子もなく、麻衣はそのまま話を続けた。
「ちょっと問題があって、見てもらって意見を聞きたいんだけど……見てもらうものが国家機密情報扱いなんだって」
「「え?」」
大翔とはるなの声が綺麗に重なった。
先ほどまでとは明らかに違う種類の驚きが二人の顔に浮かび、はるなは麻衣を見つめたまま固まり、大翔も聞き間違いではないかと確認するように眉を寄せる。
「……国家機密?」
「うん」
大翔の問いに、麻衣はあっさりと頷いた。
「それを俺たちに見せるのか?」
「そう。だから、ここに来てもらったの」
「…………」
大翔が黙り込み、はるなも先ほど以上に困惑した表情を浮かべる。
その様子を見ていた楓が、とうとう小さく息を吐いた。
「麻衣さん?」
「はい?」
楓は麻衣へ真っ直ぐ視線を向けた。
「いいですか。あのお二方の反応が正常ですからね?」
「え?」
今度は麻衣が目を瞬かせる。
「国家機密情報を見せて意見を聞きたいという話を、これほど軽く説明されたら、普通は驚きます」
「そうなの?」
「そうです」
楓は即答すると、麻衣の隣にいる橘へちらりと視線を向けた。
「総理や麻衣さんと同じ感覚を、お二人に求めないでください。さすがにかわいそうですから」
「あら、ちょっと楓!」
橘がすぐに反応した。
「どういう意味よ、それ。どうして私まで麻衣ちゃんと一緒なの?」
「ご説明が必要でしょうか?」
「必要よ!」
橘が少し不満そうに頬を膨らませる。
楓はそんな橘を見ながら、何とも言えない表情を浮かべた。
「……先ほどのご自身を思い返していただければ、十分かと」
「それとこれとは別でしょう?」
「そうでしょうか?」
「そうよ!」
総理大臣とその側近が目の前でそんなやり取りを始める中、大翔とはるなは完全に取り残されていた。
「…………」
大翔はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
ようやく気持ちを切り替えたのか、改めて麻衣へ視線を向けた。
「麻衣さん」
「ん?」
「麻衣さんは、それをもう見たのか?」
「うん」
麻衣はすぐに頷いた。
「私はもう見たよ。だから、久我くんと結城さんにも見てもらって、私と同じ意見になるかどうか知りたいの」
その言葉を聞き、大翔の表情から困惑が少しずつ消えていく。
麻衣がわざわざ自分たちをここへ呼んだ理由を、大翔はようやく理解した。
「……分かりました」
大翔は一度だけ深く息を吸うと、覚悟を決めたように頷いた。
「それなら見ます」
そして少し考えてから、楓へ視線を向ける。
「こういう場合って、何かサインとか必要でしょうか? 秘密保持の書類とか……」
はるなも、その言葉で気付いたように楓を見る。
国家機密情報を見るというのであれば、何らかの手続きが必要だと考える方が自然だった。
しかし、楓は二人の予想に反して、すぐに首を横へ振った。
「いいえ。不要です」
「……え?」
大翔が再び目を瞬かせた。
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