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第8話 総理の試験

 応接室の重厚な扉が勢いよく開いた。


「麻衣ちゃんはどこ!?」


 元気な声とともに、一人の女性が飛び込むように部屋へ入ってくる。

 その勢いのまま麻衣の前まで一直線に歩み寄ると、その右手を両手でぎゅっと握り締めた。


「あなたが麻衣ちゃん!?」


 ぶんぶんと勢いよく手を振られ、麻衣は突然の出来事に目を丸くする。


「え、えっと……」


 楓と二人のSPが慌てて近付き、総理をそっと引き離そうとする。


「総理、お気持ちは十分伝わっておりますが……」

「麻衣さんが少々驚いておられます」


 その言葉に総理は「あらやだ」と口元へ手を当て、慌てて麻衣の手を離した。


「ごめんなさいねぇ~。私、生まれて初めて英雄《ヒーロー》に会えたものだから、ついはしゃいじゃって」


 照れくさそうに笑う。


「英雄なんて歴史の教科書の中だけだと思っていたのよ。それが目の前にいるんだもの。嬉しくなっちゃうじゃない」


 麻衣と美咲は、ただぽかんと総理を見つめていた。

 テレビで見ていた、いつも落ち着いて国会答弁をしている人物。

 その面影は確かにある。

 だが今、目の前にいるのは、近所で久しぶりに会った親戚の子へ飛び付く、おばちゃんのような人だった。


 ようやく麻衣が口を開く。


「……あの、総理?」

「なぁに?」


 総理は満面の笑みで首を傾げた。

 麻衣は困ったように苦笑する。


「テレビで見た印象と、ちょっと違いました」


 一瞬だけ応接室が静まり返る。

 次の瞬間、総理はお腹を抱えるように笑い出した。


「あはははっ! よく言われるのよ、それ!」


 その笑い声につられ、美咲も思わず吹き出す。


「た、確かに全然違います……」


 楓は苦笑しながら小さく頭を下げた。


「公式の場ではご覧のとおりですが、気を許した相手には昔からこのようなお人柄なのです」

「楓までそんな言い方をしなくてもいいじゃない」


 総理が少し頬を膨らませる。

 楓は穏やかに微笑んだ。


「ですが、本日はまだ落ち着いておられる方ですよ」

「えっ?」


 麻衣と美咲が同時に声を上げる。

 総理は「あっ」という顔で楓を見る。


「楓、それ以上は内緒よ?」

「承知しております」


 そう答えながらも、楓は少しだけ笑みを浮かべた。


「以前も、このようなことがございまして……」

「あーっ! 楓さん!」


 総理が慌てて声を上げる。

 楓は総理を見て、小さく肩をすくめた。


「それ以上は申し上げません」


 総理はほっと胸を撫で下ろす。

 美咲は興味津々といった様子で尋ねた。


「もしかして……以前も同じことを?」


 総理は照れ笑いを浮かべながら肩をすくめる。


「……何回か、ね」

「何回かなんですか?」


 麻衣まで思わず聞き返す。

 総理は少し照れくさそうに笑った。


「だって、頑張ってきた人に実際に会えるなんて滅多にないじゃない。テレビや本の中の人が目の前にいると、つい嬉しくなっちゃうのよ」


 楓が静かに付け加える。


「総理は昔から、分野を問わず努力を重ねてこられた方を、とても尊敬しておられるのです」

「だから麻衣ちゃんの話を聞いた瞬間、もう居ても立ってもいられなくて」


 その様子を見て、美咲は思わず笑みをこぼす。


「なんだか、すごく親しみやすい総理なんですね」

「そうかしら?」


 総理は少し照れたように笑う。


「少しテンションが上がり過ぎるところは、許してちょうだい」


 麻衣は小さく微笑んだ。


「……本当に、そういう方なんですね」

「ええ。だから今日は、あなたに会えるのを楽しみにしていたの」


 先ほどまで笑いに包まれていた応接室が、少しだけ静かになる。

 総理は一歩前へ出ると、麻衣と美咲へ穏やかな笑みを向けた。


「改めまして。内閣総理大臣の橘さくらです。本日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます。そして、お会いできて本当に嬉しく思います」


 先ほどまでとは打って変わった落ち着いた口調だった。

 その一言だけで、部屋の空気が自然と引き締まる。


 麻衣は立ち上がり、深く一礼した。


「加山麻衣です。本日はこのような機会をいただき、ありがとうございます」


 続いて美咲も慌てて立ち上がり、一礼する。


「佐藤美咲です。本日はよろしくお願いいたします」


 総理は二人へ穏やかに頷いた。


「こちらこそ、よろしくお願いします。どうぞ、お掛けください」


 三人は再びソファへ腰を下ろす。

 楓と二人のSPも一歩下がり、それぞれの位置へ控えた。

 先ほどまで応接室を包んでいた笑い声は静かに収まり、代わりに穏やかな空気が流れ始める。

 しかし、その穏やかさの奥には、日本の総理大臣と向き合うという独特の緊張感も確かに漂っていた。


 総理は改めて麻衣へ視線を向け、優しく微笑む。


「さて」


 橘は二人を見渡す。


「ここからは、総理大臣としてお話しします」


 橘は麻衣から視線を外し、今度は美咲へ向き直った。

 先ほどまでの柔らかな笑みは残っている。

 だが、その声だけは少し低くなっていた。


「佐藤さん」

「はい」

「先に申し上げておきます。これから話す内容には、国家機密に当たる情報が含まれています」


 美咲の表情がわずかに強張る。


「あなたは博物館にいました。実際に見て、聞いて、事件に巻き込まれた当事者の一人であることは間違いありません」


 橘はそこで一度言葉を切る。


「ですが、ここから先は、事件を目撃したというだけでお話しできる内容ではありません」


 その言葉に、美咲は息を呑んだ。

 応接室の空気が、静かに冷える。


「今なら、博物館で起きたことを見聞きした当事者という立場にとどまれます。ここで席を外したとしても、あなたが麻衣さんの友人であることは変わりませんし、誰もあなたを責めません」


 美咲の指先へ自然と力が入る。

 麻衣は何も言わない。

 今は美咲自身が決めることだと分かっていた。


 橘は静かに微笑む。

 けれど、その笑みは美咲を安心させるためのものではなかった。


「ここから先を聞けば、知った秘密を守る責任が生じます。ご家族にも、ご友人にも話せません。たとえ麻衣さんを守るためであっても、自分の判断で秘密を明かすことは許されません」


 橘は美咲から視線を外さない。


「今後、博物館で起きたことについて、改めて事情を伺ったり、安全確認へ協力していただいたりする可能性もあります。また、麻衣さんの事情を知る人物として、外部から接触を受ける可能性も完全には否定できません」


 その一言に、麻衣が思わず口を開く。


「総理、それは――」


 橘は麻衣を見ることなく、静かに言った。


「加山さん、今は口を挟まないでください。これは佐藤さん自身が決めなければならないことです」


 麻衣は何かを言いかけたまま口を閉ざし、膝の上でそっと指先を握った。

 反論したかった。

 だが、美咲の代わりに答えることだけはできなかった。


 楓が心配そうに二人を見つめる。

 応接室は水を打ったように静まり返った。


「ただし、私たちも、あなたの希望だけで国家機密を開示するわけではありません」


 橘の言葉に、美咲は顔を上げる。


「あなたが事件の当事者であり、加山さんがもっとも信頼する人物の一人であることは、こちらでも確認しています。そのため、必要な範囲に限って同席を認める用意はあります」


 橘は真っ直ぐ美咲を見つめた。


「ですが、あなた自身に、その責任を引き受ける意思がなければ認めることはできません」


 柔らかな声だった。

 だからこそ、これは逃げ道を示しているのではなく、美咲自身の覚悟を問うているのだと分かった。


「佐藤さん。すべてを理解したうえで、それでもここから先を聞きますか?」


 美咲は一瞬だけ麻衣を見た。

 麻衣は視線を返したが、何も言わなかった。

 代わりに選ぶことはできない。

 そう言われている気がした。


 美咲は膝の上で両手を握り締め、しばらく俯いていた。

 誰も答えを急かさず、美咲が自分の意思を言葉にするのを待った。


 やがて美咲はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐ橘を見つめ返した。


「……聞かせてください」


 わずかに震えていた声が、少しずつ力を取り戻していく。


「麻衣の友達だから、というのも理由の一つです。でも、それだけではありません」


 美咲は一度息を整える。


「私は博物館で、麻衣が何をしたのかも、何を隠そうとしていたのかも見ました。今さら知らないふりをして、何もなかったように戻る方が、たぶん無理です」


 橘は何も答えず、美咲を見つめ続けた。


「私が知りたいと言った以上、知ったことには責任を持ちます。誰にも話しません。麻衣のためだと思っても、勝手なことはしません」


 美咲は隣に座る麻衣を見なかった。

 麻衣のために答えるのではなく、自分の意思として答えなければならないと分かっていた。


「外部から接触を受けるかもしれないと言われて、怖くないわけではありません。でも、何も知らないまま麻衣を一人にする方が、私は嫌です」


 美咲は真っ直ぐ橘を見る。


「日本国が『ここまでです』と言うなら従います。でも、私に選ぶことを許してもらえるなら、ここに残らせてください」


 誰も口を開かず、時間だけが静かに過ぎていく。

 橘は美咲を見つめ続けた。


 やがて、ふっと表情を和らげる。


「……分かりました。あなたの覚悟は、十分に伝わりました」


 美咲が張り詰めていた息を小さく吐く。


「国家機密は、好奇心や友情だけで知っていいものではありません。知ることで生じる責任まで、自分の意思で引き受けられるかを確かめる必要がありました」


 楓は安堵したように小さく息を吐く。


「総理……最初から、そのおつもりだったのですね」

「ええ」


 橘は静かに頷く。


「では、佐藤美咲さん。必要な範囲に限り、あなたの同席を認めます」

「……ありがとうございます」


 美咲は張り詰めていた緊張がほどけ、小さく頭を下げた。

 隣では麻衣も安堵したように肩の力を抜く。


「……美咲らしいね」

「麻衣にだけは言われたくない」


 二人のやり取りに、応接室の空気がようやく和らいだ。

 橘は穏やかに微笑み、楓へ視線を向ける。


「それでは、始めましょう」


 楓は静かに一礼した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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