第77話 帰ってきた日常と小さな魔法
八坂神社を出た八人は、しばらく同じ道を歩いていた。
修学旅行中の生徒や観光客で賑わう通りを進み、やがてそれぞれの宿泊先へ向かう道が分かれる場所まで来ると、自然と足を止める。
麻衣、美咲、奈緒、優香の四人はこれまで連泊しているホテルへ、大翔、はるな、朝倉、早苗の四人は別の旅館へ戻ることになっていた。
「じゃあ、ここで別れる感じかな」
麻衣が言うと、大翔が小さく頷く。
「ああ。俺たちはこっちだ」
「それじゃ、またね」
美咲が軽く手を振り、朝倉と早苗も笑顔で手を振り返す。
奈緒と優香も二人へ別れの挨拶をする中、麻衣はふと思い出したように大翔とはるなへ視線を向けた。
「久我くん、結城さん」
「ん?」
「はい?」
「東京に戻ったら、どっかで会おうよ。いろいろ話したいこともあるし」
麻衣がいつもの調子で誘うと、大翔とはるなは一瞬だけ顔を見合わせた。
ほんの少し前まで同じ異世界で戦っていた三人には、改めて話したいこともいくらでもあった。
「ああ。俺もそのつもりだ」
「はい。ぜひ」
二人の返事を聞き、麻衣は満足そうに笑った。
「じゃあ、また東京で」
「ああ、また」
「また会いましょう」
互いに軽く手を振り、八人はそこで二手に分かれた。
大翔たち四人が旅館へ向かって歩いていくのを見送ると、麻衣たちも連泊しているホテルへ向かって歩き始める。
その途中、奈緒と優香から何度も「あとで絶対に説明してもらうからね」と言わんばかりの視線を向けられたが、麻衣は気付かないふりをして歩き続けた。
ホテルへ戻った四人は、少し部屋で休んだあと、予定どおり夕食へ向かった。
食事中も奈緒と優香から何度か説明を求めるような視線を向けられたが、周囲には同じ学校の生徒たちが大勢いる。
麻衣と美咲はそのたびに視線を逸らし、詳しい話はあとで、と無言で訴え続けることになった。
そして夕食後。
四人は着替えを持ってホテルの大浴場へ向かった。
身体を洗い終えて広い湯船へ入り、温かい湯へ肩まで浸かった瞬間、麻衣と美咲の口からほとんど同時に声が漏れる。
「「生き返る〜……」」
二人は揃って湯船の縁へ身体を預けた。
温かい湯が全身を包み込み、張り詰めていたものが一気に抜けていくような感覚に、麻衣は気持ちよさそうに目を閉じる。
美咲も隣で深く息を吐き、完全に力を抜いていた。
「……ちょっと待って」
向かい側にいた優香が、怪訝そうな顔をする。
「二人とも、生き返るようなことしてきたの?」
「…………」
麻衣と美咲が揃って黙った。
奈緒も二人をじっと見つめ、優香はますます疑わしそうに目を細める。
「五秒だよね?」
「五秒だったね」
奈緒まで淡々と付け加える。
麻衣は視線を逸らしながら、逃げるように肩まで湯へ沈んだ。
「……まあ、いろいろあったんだよ」
「その『いろいろ』を聞きたいんだけど!」
優香が身を乗り出す。
湯船の水面が大きく揺れ、その波が美咲のところまで届いた。
「もう……ちょっと静かにして」
「え?」
優香の動きが止まる。
美咲は湯船の縁へ頭を預けたまま目を閉じ、小さく息を吐いた。
「今だけは、ちょっと感慨にふけらせて。私だって珍しくそういう気分なんだから」
「…………」
数秒の沈黙が落ちた。
麻衣がゆっくりと美咲を見る。
奈緒も目を丸くし、優香も驚いたように瞬きを繰り返した。
「……美咲が怒った」
優香がぽつりと呟く。
「怒ったね」
奈緒が真顔で頷いた。
「うん。美咲が怒った」
麻衣までしみじみと頷く。
「ちょっと! 麻衣までそっちに行かないでよ!」
美咲が勢いよく身体を起こした。
その瞬間、麻衣たち三人の顔に笑みが浮かぶ。
「やっぱり怒った!」
「怒ってる」
「珍しいね、美咲」
「もう! 三人ともうるさい!」
美咲の声が浴場に響き、麻衣たちは堪えきれずに笑い出す。
美咲も最初こそ頬を膨らませていたものの、やがて諦めたように息を吐き、最後にはつられるように笑っていた。
大浴場から戻った四人は、部屋着姿のままそれぞれ思い思いの場所へ腰を下ろした。
つい先ほどまで浴場では笑い合っていたはずなのに、部屋にはどこか妙な緊張感が漂っている。
その原因は、麻衣の正面に陣取った奈緒と優香だった。
「さて……」
奈緒が静かに口を開く。
その隣では、優香がにこにこと笑っていた。
「そろそろお時間です!」
「さあさあ、お話を聞きましょうか? 麻衣さん?」
二人の視線が同時に麻衣へ突き刺さる。
笑顔なのに逃がす気がまったく感じられず、麻衣は思わず身体をわずかに後ろへ引いた。
「えっと……」
「五秒だったね」
「五秒だったよね」
「……はい」
逃げ道を塞ぐように念を押され、麻衣は完全にたじろいでいた。
「じゃあ、あの五秒の間に何があったのか――」
「ちょっと待って!」
奈緒が本題へ入ろうとした瞬間、美咲が勢いよく片手を上げた。
三人の視線が一斉に美咲へ向く。
「先に私から!」
「なになに?」
「どうしたの?」
優香と奈緒の興味が、一瞬にして麻衣から美咲へ移った。
先ほどまで自分へ集中していた圧が嘘のように消え、麻衣は肩から力を抜いて大きく息を吐く。
「……マーキュリーの時より緊張した……」
「何それ?」
奈緒が怪訝そうな顔をしたが、美咲は気にすることなく楽しそうに笑った。
「ではでは!」
そう言いながら、美咲はテーブルの上へ手を伸ばす。
その手に握られていたのは、夕食の時に持ち帰っていた一本の爪楊枝だった。
「何するの?」
「見てて」
美咲は左手を自分の前へ出すと、人差し指へ爪楊枝の先端を当てた。
そして三人が見守る中、迷うことなく指先へ押し込む。
ぷすり。
「えっ!?」
「ちょっ!」
「美咲!?」
三人の声がほとんど同時に上がった。
特に麻衣は勢いよく身を乗り出し、美咲の左手を凝視する。
「ど、どうしたの!? なんでいきなり刺したの!?」
「い、いた~い……」
自分で刺したにもかかわらず、美咲の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
爪楊枝を抜くと、刺した場所から赤い血がぷくりと膨らみ、小さな玉となって指先に浮かぶ。
麻衣は今にも《ヒール》を使いそうな勢いで身を乗り出したが、美咲はそれを制するように右手を上げた。
「大丈夫。ここからだから」
「いや、大丈夫じゃ――」
「では!」
美咲は麻衣の言葉を遮ると、傷ついた左手の人差し指を三人へ見せるように掲げた。
そして、少し得意そうな笑みを浮かべる。
「《ヒール》!」
「……え?」
淡い碧色の光が、美咲の指先を包み込んだ。
柔らかな光が傷口へ染み込むように集まり、爪楊枝で傷つけた場所がゆっくりと塞がっていく。
やがて光が消えた時には、そこに傷があったことすら分からなくなっていた。
「…………」
麻衣が固まる。
奈緒と優香も目を大きく見開いたまま、美咲の指先を凝視していた。
「え……」
麻衣がようやく声を漏らす。
「美咲……魔法、使えるようになったの?」
「ふっふっふっ」
美咲は得意そうに笑った。
だが、まだ終わりではないらしく、傷が消えた指先には小さな血の玉だけが残っている。
「さらに――《クリーン》!」
再び淡い碧色の光が指先を包む。
次の瞬間、残っていた血が跡形もなく消え、指先は何事もなかったかのようにきれいになった。
「…………」
三人は揃って言葉を失った。
美咲は傷一つ残っていない人差し指を三人へ見せながら、満足そうな笑みを浮かべている。
「どう?」
「いや……どうって……」
奈緒が呆然と呟く。
優香は美咲の指と顔を何度も見比べ、麻衣に至ってはまだ状況を飲み込めていないのか、何度も瞬きを繰り返していた。
「……ちょっと待って」
ようやく麻衣が口を開く。
先ほど奈緒と優香から追及されていたことなど、完全に頭から消えていた。
「美咲、いつの間に魔法覚えたの!?」
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