第74話 目覚めと知らない天井
麻衣は大きく欠伸をした。
「ふぁぁ……」
思わず目尻に涙が滲む。
「今日は魔力を使い過ぎたなぁ……。ものすごく眠たい……」
心地よい疲労が全身を包み込み、瞼は今にも閉じそうになっていた。
そんな麻衣の様子を見た騎士団長は、小さく苦笑しながら頷く。
「麻衣殿。以前お使いになられていた指揮官用天幕をご用意しております。どうぞ、ゆっくりお休みください」
「ありがとうございます……」
眠気に負けそうになりながら礼を言うと、麻衣は案内された天幕へ入っていく。
ベッドへ腰を下ろした次の瞬間、そのまま倒れ込むように横になった。
「……おやすみ」
その一言を最後に、規則正しい寝息が聞こえ始める。
美咲は眠る麻衣を心配そうに見つめ、小さく息をついた。
「本当に大丈夫かな……」
はるなは優しく微笑む。
「かなり無理をしていましたからね。今はゆっくり休ませてあげましょう」
「うん……」
美咲は少し心配そうな表情を残したまま、それでも静かに頷いた。
二人は音を立てないよう、天幕を後にする。
最後に残っていた大翔は、一度だけ眠る麻衣を振り返った。
「……ありがとう、麻衣さん」
感謝の言葉を残し、大翔もまた天幕を後にした。
――ゆっくりと意識が浮かび上がる。
柔らかな寝具が身体を優しく包み込み、深い眠りの余韻が残っていた。
重かった瞼をゆっくりと開く。
ぼんやりと視界に映った天井を見つめ、麻衣は力の抜けた声で呟いた。
「……知らない天井だ」
一拍置き、小さく首をかしげる。
「……本当に知らない天井だった」
確か、自分は王国軍本陣の指揮官用天幕で眠ったはずだった。
それなのに目の前にあるのは天幕の布ではなく、見覚えのない白い天井だった。
「……はて?」
ゆっくりと上半身を起こし、部屋を見回す。
豪華な調度品が並び、大きな窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。
自分が寝かされているのも簡易寝台ではなく、豪華なベッドだった。
部屋の隅には、美咲と一人の侍女がいた。
そして麻衣が身体を起こしたことに気付いた瞬間、美咲の目が大きく見開かれる。
「麻衣!?」
美咲は椅子から勢いよく立ち上がると、そのままベッドのそばまで駆け寄ってきた。
「あ、美咲。おはよう」
「おはようじゃないよ! 大丈夫!? どこか痛くない!? 気持ち悪くない!? 苦しくない!?」
「え? う、うん。たぶん大丈夫だけど……」
突然矢継ぎ早に聞かれ、麻衣は何度か瞬きを繰り返す。
美咲はそれでも安心できないのか、麻衣の顔色を確認しながら、肩や腕にも視線を向けていた。
「本当に? どこも痛くない?」
「痛くはないよ」
「怪我も?」
「ないと思うけど……」
麻衣が自分の身体を軽く確認している間も、美咲はすぐそばから離れようとしない。
どうやら麻衣が目を覚ますまで、ずっとここにいてくれたらしい。
「何でこんなところに……」
記憶をたどっても、天幕で眠ったところまでしか思い出せない。
「とりあえず……」
麻衣はベッドから降りようと足を床へ下ろす。
「ちょっと、麻衣!? まだ起きちゃ――」
その瞬間だった。
「えっ?」
身体が思うように動かない。
立ち上がろうとした重心が大きく崩れ、そのまま後ろへ倒れ込む。
「麻衣!」
美咲が慌てて身体を支えようと手を伸ばしたが、間に合わない。
「わっ!」
どさり、と鈍い音を立て、麻衣は再びベッドへ背中から倒れ込んだ。
「いったぁ……」
「麻衣! 大丈夫!? どこ打った!?」
「背中だけ……。ベッドの上だから平気」
「本当に!?」
「ほんとほんと」
美咲は今にも麻衣の身体を隅々まで確認しそうな勢いだった。
麻衣は苦笑しながら片手を上げ、大丈夫だと示す。
そのまま呆然と天井を見上げながら、思った以上に身体へ力が入らないことに気づく。
自分の身体なのに、感覚だけが少し遅れてついてくるような奇妙な違和感があった。
「……何だったんだろ、今の」
「だから無理に立たないでってば」
「はーい……」
美咲に窘められ、麻衣は素直に返事をする。
そのまま白い天井を見つめていると、不意に一つの記憶が脳裏をよぎった。
「……そういえば」
麻衣の記憶の中でも、目を覚ましたあの少女が同じことを呟いていた。
『……知らない、天井だ……』
病室の天井をぼんやりと見上げ、小さく零したあの一言。
その時の少女の表情まで、昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「ふふっ……」
思わず小さく吹き出した。
「まさか、自分まで同じことを言うなんて」
「……麻衣?」
突然笑い出した麻衣に、美咲が心配そうな顔を向ける。
「大丈夫。ちょっと思い出しただけ」
麻衣は小さく肩を震わせながら笑った。
その笑みには、どこか懐かしさと愛おしさが滲んでいた。
もっとも、その時の麻衣は、そんなことよりも自分の身体の違和感の方が気になって仕方がなかった。
もう一度ゆっくりと身体を起こす。
今度は美咲がすぐ横から支え、無理に立ち上がらず、ベッドの端へ腰掛けるだけにした。
「これなら大丈夫?」
「うん。でも、立つのは禁止」
「厳しいなぁ」
「誰のせいだと思ってるの?」
「私ですね」
「分かってるならいい」
美咲にじっと睨まれ、麻衣は苦笑する。
そこで改めて部屋を見回し、ふと首をかしげた。
「あれ? 二人は?」
美咲はすぐに誰のことか理解して答えた。
「久我くんと結城さんなら、騎士団長さんと一緒に現魔王との会談に行ってるよ」
「会談?」
「うん。国王陛下の護衛」
「そっか」
麻衣は納得したように頷く。
そこで、ふと気になっていたことを思い出した。
「そういえば美咲」
「なに?」
「私……どのくらい寝てた?」
その問いを聞いた瞬間、美咲の表情が変わった。
先ほどまで麻衣が目覚めたことへの安堵が浮かんでいた顔から、笑みが消える。
「……五日間」
麻衣は目をぱちぱちと瞬かせた。
「……え?」
「丸五日。ずっと起きなかったんだよ」
美咲の声が、ほんの少しだけ震えた。
「五日?」
「うん。呼んでも全然起きないし、怪我があるわけでもないし、治療魔法をかけても何も変わらないし……ずっと眠ったままで……」
言葉を続けるうち、美咲は少しだけ唇を結んだ。
「本当に心配したんだから」
「……ごめん」
麻衣は素直に謝る。
美咲はそんな麻衣をしばらく見つめたあと、小さく息を吐いた。
「起きたから、もういいけど……」
「うん」
「でも、まだ無理しちゃ駄目だからね」
「はい」
麻衣は今度こそ素直に頷いた。
その直後だった。
ぐぅぅぅぅぅぅ~~~~っ。
部屋中へ響き渡るほど盛大に、お腹が鳴った。
「…………」
「…………」
麻衣はぴたりと動きを止める。
美咲も侍女も、その音の主を見つめた。
一瞬の沈黙が流れる。
やがて麻衣は照れくさそうに頭をかき、小さく苦笑した。
「……そりゃ、五日も寝てたらお腹も空くよね」
その一言に、美咲は目を瞬かせた。
そして張り詰めていたものが一気に抜けたように、とうとう吹き出す。
「ふふっ……」
笑いを堪え切れず、そのまま声を上げた。
「あははははっ!」
「そんなに笑わなくても……」
麻衣が恥ずかしそうに頬を掻く。
侍女も美咲につられるように、口元へ手を添えて小さく笑った。
五日間ずっと麻衣の目覚めを待っていた美咲の表情から、ようやく不安が消える。
張り詰めていた部屋の空気も、それと一緒にほどけていった。
食事を終えてしばらくすると、部屋の外から複数の足音が聞こえてきた。
やがて扉が軽く叩かれ、侍女が応じるより先に、聞き慣れた声が廊下から響いてくる。
「麻衣さんが目を覚ましたって、本当か?」
その声に麻衣が振り向くと、扉が開き、大翔とはるなが部屋へ入ってきた。
「あ、久我くん。結城さんも」
二人はベッドの上にいる麻衣の姿を確認すると、揃って安堵したように表情を緩めた。
「麻衣さん、もう大丈夫なのか?」
「うん。まだちょっと身体に違和感はあるけど、それ以外は大丈夫。さっきご飯も食べたし」
はるなも安堵したように息を吐く。
「よかった……。五日も眠ったままだったんですから、本当に心配したんですよ。あまり無理はしないでくださいね」
「分かってるって」
はるなの言葉に麻衣が苦笑すると、その隣にいた美咲がじっと麻衣を見る。
「本当に?」
「……分かってます」
先ほど立ち上がろうとして即座に倒れたこともあり、麻衣は素直に言い直した。
大翔とはるなが椅子へ腰を下ろすと、麻衣は二人の姿を交互に見る。
「そういえば、二人とも現魔王との会談に行ってたんだよね?」
「ああ。国王陛下の護衛という名目だったんだが、途中からほとんど和平交渉の仲介役になってた」
「やっぱり」
予想していたのか、麻衣は納得したように頷いた。
「それで、どうなったの?」
「あくまで正式な和平交渉に入る前の第一条件だが、いくつか合意できた。まず、停戦位置は現在の旧王都第一防衛線を境にすることで双方が合意した」
大翔はそこで一度言葉を区切り、会談で決まった内容を思い返しながら続ける。
「それと、魔国の占領地域で行われている人族への迫害や不当な扱いは即時停止。占領地域から王都へ移りたい者がいる場合は、本人の意思で占領地域から出ることを認める。魔国にいる王国軍の捕虜についても、全員を即時解放することで同意を得た」
「へえ……」
麻衣は少し驚いたように目を瞬かせた。
第一防衛線までの撤退については、麻衣自身がライザと話をつけていたため、そこまで意外ではない。
だが、占領地域に残された人々の扱いや捕虜の解放まで、最初の会談ですでに話がまとまったとなれば別だった。
眠っていた五日の間に、想像していた以上に話は進んでいたらしい。
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