第73話 帰還、そして停戦
防壁門を抜けた瞬間だった。
「麻衣っ!」
美咲が勢いよく駆け寄ってくる。
その後ろからは、はるなも少し安心したような表情で歩いてきた。
麻衣は苦笑しながら小さく手を振る。
「ただいま」
次の瞬間、美咲は麻衣の肩を掴み、全身をまじまじと見回した。
「どこかケガしてない? 無茶してない? 痛いところは? ちゃんとご飯食べた? 眠れてる?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、麻衣は苦笑しながら答えていく。
「大丈夫。もう治ってるよ。ご飯も食べたし、ちゃんと寝た……たぶん」
「……もう?」
美咲の動きが止まった。
「え?」
「今、もう治ってるって言った?」
「あ……」
麻衣は視線を逸らした。
「麻衣?」
美咲の声が一段低くなる。
「……左の鎖骨を、ちょっと」
「ちょっとだけで鎖骨は折れない!」
即座に怒鳴られ、麻衣は思わず肩をすくめた。
「でも《ヒール》で完全に治したから、今はもう何ともないよ?」
「治ってるかどうかの話じゃない! また骨折するような無茶したことを怒ってるの!」
「……はい」
麻衣は素直に俯いた。
だが、美咲のお説教はそれだけでは終わらない。
「それに、昨日の深夜から今日まで無断外泊ってどういうことなの! 心配したんだからね!」
「ご、ごめんなさい……」
「ちゃんと寝たのも『たぶん』って何!?」
「寝たとは思うんだけど……」
「思うじゃない!」
その勢いは、まるで娘を叱る母親そのものだった。
怪我、睡眠、食事、無断外泊と次々に話題が移り、お説教という名の心配攻撃はその後も三十分ほど続いた。
一方、その様子を見ていたはるなは、大翔の前まで歩み寄る。
「久我くん」
「はい」
はるなは穏やかに微笑んだ。
「無事でよかったです」
「ありがとう、な」
「それだけ確認できれば十分です」
そう言って、小さく微笑む。
あまりにも対照的な二人の対応に、大翔は思わず苦笑した。
それからしばらく経ち、美咲のお説教という名の心配攻撃からようやく解放された麻衣は、大きく息を吐く。
「うえー……やっと解放された……」
そのまま隣へ立つ大翔を見上げ、少しだけ恨めしそうな視線を向けた。
「いいなぁ~。優しく迎えられたあなたは!」
少しだけ嫌味の混じった声だった。
大翔は思わず苦笑する。
「いや、比べる相手が悪いだけじゃないか?」
麻衣は頬を膨らませた。
「絶対そうじゃない!」
即座に返ってきたその一言に、大翔は肩をすくめながら笑う。
「まあまあ。あれだけ心配してくれる幼馴染がいるってことだよ」
麻衣は少し照れくさそうに視線を逸らし、小さくため息をついた。
「……それは分かってるけどさ」
その呟きには、美咲への感謝と照れ隠しが入り混じっていた。
それからしばらくすると、本陣の奥から騎士団長が足早に姿を現した。
「麻衣殿、久我様!」
騎士団長は二人の前で足を止める。
「昨日からお姿が見えず、皆が心配しておりました。一体、何があったのです?」
周囲には参謀や将校たちも集まり始める。
はるなと美咲も麻衣の隣へ並び、その答えを待っていた。
麻衣は騎士団長を見つめ、口を開く。
「昨日からいなくなっていた理由ですが……」
一拍置く。
「私と久我くんで、魔国軍へ夜襲をかけていました」
その場の空気が止まる。
騎士団長は目を瞬かせた。
「……夜襲、ですか?」
「はい」
麻衣はそのまま続ける。
「その中で、四大将軍マーキュリー率いる精鋭魔族部隊と交戦し、撃破しました」
誰も言葉を発しなかった。
将校たちは互いの顔を見合わせ、騎士団長も口を開いたまま固まっている。
しかし、麻衣の報告はまだ終わっていなかった。
「その後、現魔王ライザと停戦交渉を行いました」
「…………」
静寂だけが広がる。
「その結果、魔国軍は旧王都第一防衛線まで撤退することになりました」
麻衣は最後に言葉を続ける。
「現在、王国軍との戦闘は一時停止されています」
その瞬間、本陣は完全な沈黙に包まれた。
騎士団長は何度か口を開きかけるものの、言葉にならない。
「…………」
やがて、ようやく声を絞り出した。
「い、今のお話を……整理させていただいても、よろしいでしょうか……?」
「はい」
あまりにも落ち着いた返答に、かえって周囲の驚きが大きくなる。
はるなも美咲も、そして集まっていた主要幹部たちも、ただ呆然と麻衣を見つめていた。
重苦しい沈黙が本陣を包む。
誰一人として口を開けない。
あまりにも現実離れした報告に、誰も思考が追いついていなかった。
やがて騎士団長は何度か深呼吸を繰り返し、ようやく気持ちを落ち着かせる。
「麻衣殿……確認させてください」
慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「つまり、四大将軍マーキュリー率いる精鋭部隊は撃破された。そして、魔国軍は第一防衛線まで撤退し、現在は一時停戦状態である、と」
麻衣は小さく頷く。
「はい。その認識で間違いありません」
騎士団長は額へ手を当てた。
「……信じられません」
その一言は、その場にいた全員の本音だった。
参謀の一人が恐る恐る口を開く。
「ま、魔国の四大将軍が率いる精鋭部隊を……たったお二人で……」
「はい」
一拍置き、麻衣は続ける。
「マーキュリーを含む精鋭魔族部隊は、私たちが撃破しました」
再び場が静まり返る。
将校たちは互いの顔を見合わせることしかできない。
「え……?」
思わず漏れた声は、誰のものだったのかさえ分からなかった。
騎士団長は戸惑いを隠せないまま問い掛ける。
「では……現在の魔国軍は、どうなっているのですか」
「前線の精鋭魔族部隊には大きな損害が出ています」
麻衣は一度言葉を区切る。
「ですが、魔国軍そのものが戦えなくなったわけではありません」
騎士団長が目を見開いた。
「まだ……戦力が残っているのですか?」
「はい。残存戦力だけでも、こちらの王都防衛軍を上回っています」
その言葉に、周囲の空気が再び緊張する。
「では、なぜ……撤退を?」
騎士団長の問いに、麻衣はまっすぐ答えた。
「魔王ライザが、戦闘を止めることを選んだからです」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「魔国軍はまだ戦えます。ですが、第一防衛線まで後退し、王国軍との戦闘を一時停止すると、魔王ライザ自身が決めました」
騎士団長は息をのむ。
「……では」
その先を口にすることをためらう。
麻衣は小さく頷いた。
「はい。少なくとも、王都をめぐる戦闘は止まりました」
一拍置く。
「正式に戦争が終わったわけではありません。今は、あくまで一時停戦です」
誰も声を上げなかった。
昨日まで、この地にいた誰もが王都陥落を覚悟していた。
それが、わずか一日で状況そのものが変わった。
魔国軍はまだ戦える。
王国軍を上回る戦力も残している。
それでも、その軍は第一防衛線まで退き、戦闘を止めた。
「……助かった」
誰が呟いたのかは分からなかった。
その一言をきっかけに、張り詰めていた空気が少しずつほどけていく。
肩の力が抜け、その場へ座り込む者。
安堵の息を漏らす者。
目頭を押さえながら空を見上げる者。
誰も歓声は上げなかった。
戦争が終わったわけではない。
それでも、少なくとも今日、明日にも王都が陥落するという危機は去った。
騎士団長も目を閉じ、一度だけ深く息を吐く。
そして、ゆっくりと麻衣と大翔へ向き直った。
「……麻衣殿、久我様」
その声には、先ほどまでの戸惑いはなく、深い敬意だけが込められていた。
「お二人には、何とお礼を申し上げればよいのか……」
騎士団長の言葉に続くように、副官や参謀、将校たちも一斉に頭を下げる。
誰一人として言葉を発しない。
ただ、深い感謝と敬意だけが、その場を包んでいた。
麻衣は困ったように苦笑すると、小さく首を横へ振る。
「頭を上げてください」
穏やかな声だった。
「私にできることをしただけです」
騎士団長はゆっくりと顔を上げる。
「しかし、その結果、王都は救われました」
麻衣は首を横へ振った。
「救われたのは、王国だけではありません」
一瞬だけ間を置く。
「魔国もです」
その一言に、その場にいた誰もが息をのんだ。
騎士団長は驚きを隠せないまま問い返す。
「魔国も……ですか?」
「はい」
麻衣は一瞬だけ視線を落とした。
この戦争で見てきた光景が、脳裏をよぎる。
人族も、亜人種も、魔族も、それぞれが傷つき、多くのものを失ってきた。
麻衣は小さく息をつくと、騎士団長をまっすぐ見つめ返した。
「これ以上戦いを続けても、お互いに失うものが増えるだけでした」
穏やかな声が本陣へ響く。
「だから、まず止めました」
再び静寂が訪れる。
今度の沈黙は、先ほどまでとは違っていた。
戦争はまだ終わっていない。
それでも、終わらせるための最初の一歩だけは、確かに踏み出されていた。
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