第70話 真実を、その目で
ライザたちへ別れを告げた麻衣と大翔は、そのまま王都防衛軍が待つ戦場へ向かって歩き始めた。
戦場には、まだ戦いの爪痕が至る所へ残されている。
大きく抉れた大地。
折れた木々。
そして、主を失った無数の武器や鎧だけが散乱していた。
しばらく無言のまま歩いていた麻衣が、小さくため息を吐く。
「……昨日の夜から、こっちにいるし。無断外泊までしちゃったし。怪我までしたし。これは美咲にめちゃくちゃ怒られるなぁ」
肩を落としてぼやく麻衣に、大翔は思わず苦笑した。
「それは……怒られると思う」
麻衣も苦笑しながら肩をすくめる。
「絶対、『無茶しないでって言ったよね!?』って怒られる」
その言葉に、大翔も小さく笑った。
「うん。それは何となく想像できる」
「でしょ?」
少しだけ重苦しかった空気が和らぐ。
二人はそのまま並んで歩き続けた。
大翔は何度か麻衣へ視線を向けては、何かを言いかけて口を閉ざす。
そんな様子を横目で見ていた麻衣は、小さく笑った。
「いろいろ聞きたいんでしょ?」
大翔は苦笑しながら頭をかく。
「あ、ああ。個人情報に触れそうで嫌なんだけど、さっきの会話がどうしても気になって……」
麻衣は小さくため息を吐く。
「はぁ~……」
一度だけ空を見上げ、それから苦笑した。
「そりゃそうだよね。たしかに」
そう言って肩をすくめると、麻衣は大翔へ向き直った。
「そうだね~。で、どこから聞きたい?」
麻衣はしばらく考えるように視線を落としたあと、小さく息を吐いた。
「まぁ、話すより見てもらった方が早いかな?」
「……?」
怪訝そうに眉を寄せる大翔へ、麻衣は何も説明しないまま肩へ手を置いた。
「転移」
次の瞬間、二人の姿はその場から掻き消える。
一瞬だけ視界が白く染まり、身体がふわりと浮き上がるような感覚が全身を包み込んだが、それもほんの一瞬だった。
景色が戻ると、そこは先ほどまでいた戦場とはまるで違う場所だった。
草木は一本も生えておらず、紫がかった岩々が無数に転がる谷には、生き物の気配すら感じられない。
乾いた風だけが、切り立つ岩壁の間を吹き抜けていた。
「ここは……?」
周囲を見渡しながら、大翔が問い掛ける。
麻衣も辺りを見回し、小さく頷いた。
「死の谷と呼ばれている場所かな?」
「ああ……」
その名には聞き覚えがあった。
魔物すら寄り付かず、生きて帰った者はほとんどいない、この世界でも有数の危険地帯。
麻衣は大翔の肩から手を離すと、一歩、また一歩とゆっくり距離を取り、やがて二人の間には十分な間合いが生まれた。
立ち止まった麻衣は、小さく微笑む。
「じゃあ、やるから。耐えてね」
「……何を?」
意味が分からないまま身構える大翔へ、麻衣は何も答えない。
目を閉じ、小さく息を吐く。
谷を吹き抜けていた風が不意に止まり、辺りを包んでいた音も、まるで世界そのものが息を潜めたかのように消えていく。
その静寂の中で、麻衣だけが微動だにせず立っていた。
右手を胸元へ添えた瞬間、その身から純粋な魔力が溢れ出す。
溢れ出した魔力は白ではない。
澄み切った輝きを宿す、白銀の魔力だった。
舞い上がった白銀の粒子は音もなく広がり、一枚の幕となって麻衣の全身を包み込んでいく。
「っ……!」
大翔は思わず息をのんだ。
谷の空気そのものが一変し、押し寄せる魔力は戦場で感じたものとは比べものにならない。
立っているだけで身体は軋み、呼吸さえ重くなる。
それでも、その魔力から禍々しさは一切感じられず、ただ存在そのものへ畏怖を抱かせるような神聖さだけが谷を満たしていた。
白銀の幕の中で、麻衣の黒髪がふわりと浮かび上がる。
一本、また一本と白銀の魔力が髪へ溶け込むように浸透し、根元から毛先まで染め上げていく。
夜空のようだった長い黒髪は、やがて月光を紡いだような白銀の長髪へ変わり、風のない空間で揺れた。
閉じられていた瞳がゆっくりと開かれる。
黒かった双眸は深い蒼へ変わり、その蒼はさらに澄み渡り、やがて白銀の輝きを宿した蒼銀へ染まっていく。
白銀のロングコートもまた応えるように淡く輝き始め、その光は胸元から裾へ向かってゆっくりと広がった。
まるで永い眠りから目覚めるように、その姿は白銀の輝きを纏っていく。
やがて谷を包んでいた白銀の魔力は音もなく麻衣の身体へ収束し、再び風が吹き始めた。
白銀の長髪が揺れ、ロングコートの裾が風を受けてなびく。
大翔は思わず目を見開いた。
目の前に立っていたのは、戦場で見た白銀の麻衣だった。
あの時は圧倒的な戦いに目を奪われ、その姿を落ち着いて見る余裕などなかった。
しかし今は違う。
目の前に立っているのは確かに加山麻衣――それでも、その身に宿る存在感は、第十六代勇者セリア・グラハート以外の何ものでもなかった。
押し寄せる白銀の魔力へ耐えながら、大翔は知らず知らずのうちに息を止め、目を逸らすことも、呼吸をすることさえ忘れて、その姿だけを見つめ続ける。
そんな大翔の様子を見つめた麻衣は、小さく頷いた。
「じゃあ、いくよ。よく見てて」
麻衣は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
その瞬間だった。
白銀の魔力が一気に膨れ上がる。
轟音はない。
爆発もない。
それでも谷全体が震え、大気そのものが白銀の魔力へ塗り替えられていく。
吹き始めていた風も、膨れ上がった白銀の魔力に押し退けられるように再び止まった。
「っ……!」
大翔は思わず歯を食いしばった。
先ほどまでとは比較にならない。
押し寄せる魔力はさらに密度を増し、肩へ山でも乗せられたかのような重圧が全身へ圧し掛かる。
足元の岩肌が軋み、小石がゆっくりと宙へ浮かび上がる。
それでも大翔は踏みとどまり、一歩たりとも退かなかった。
白銀の魔力はなおも膨れ上がる。
その中心で、麻衣の白銀の長髪がふわりと浮かび上がった。
風は吹いていない。
それでも髪は天へ導かれるようにゆっくりと流れ始め、無数の白銀の粒子がその周囲を幻想的に舞い踊る。
蒼銀の瞳もまた輝きを増していく。
澄み切った蒼銀の奥底から白銀の光が滲み、その輝きはさらに深みを増していった。
その瞬間。
麻衣の背中から白銀の魔力が溢れ出す。
溢れた魔力は左右へ広がり、舞い散る光粒子が互いを引き寄せ合うように集まり始めた。
光は幾重にも重なり、ゆっくりと輪郭を描いていく。
やがて、その背中へ二対の巨大な翼が姿を現した。
それは肉体ではない。
純粋な魔力だけで構成された、白銀の翼。
一枚一枚の羽根は無数の光粒子だけで形作られ、淡い輝きを放ちながら揺らめいている。
二対の翼がゆっくりと左右へ広がった。
その瞬間、谷を覆っていた白銀の魔力がさらに脈動した。
白銀の粒子は一斉に舞い上がり、岩壁を、地面を、空を白銀へ染め上げていく。
死の谷は、眩い白銀の世界へ変わっていた。
押し寄せる重圧はなおも増していく。
大翔は歯を食いしばり、その場へ立ち続けた。
目を逸らすことだけは、どうしてもできなかった。
そして――。
二対の白銀の翼が完全な形を成した、その瞬間だった。
谷を満たしていた膨大な白銀の魔力が、ゆっくりと収まり始める。
「……!」
大翔は目を見開いた。
次の瞬間、谷へ溢れていた白銀の魔力が、一筋、また一筋と麻衣へ還っていく。
空を漂っていた粒子も、大気を満たしていた魔力も、谷へ溢れ出していた余剰の魔力も、穏やかな流れとなって本来あるべき場所へ帰っていった。
激しさはない。
轟きもない。
ただ、静かな時だけが流れていた。
二対の白銀の翼は微動だにしない。
羽根の一枚一枚は淡い光を宿したまま広がり、その姿は少しも揺らぐことがなかった。
最後の白銀の粒子が麻衣へ溶け込む。
その瞬間、谷を満たしていた重圧は跡形もなく消え去った。
止まっていた風が再び吹き始める。
身体を包んでいた圧迫感は消え、乾いた風だけが二人の間を通り抜けていった。
白銀の長髪が風に揺れる。
二対の白銀の翼は、その背中で淡い輝きを湛えたまま大きく広がっていた。
蒼銀の瞳が、大翔を映している。
大翔は何も言えなかった。
ただ、その姿を見つめ続けていた。
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