第67話 完全魔神化
黒い血が地面へ滴り落ちる。
マーキュリーは左手で切断された肩口を押さえたまま、無言で麻衣を睨みつけていた。
悲鳴は上げない。
苦悶の声すら漏らさない。
その姿を静かに見つめ、麻衣は小さく呟く。
「……腕を落とされても、痛くないんだね」
その一言に、マーキュリーの瞳がわずかに揺れた。
麻衣はそれ以上、何も言わない。
ただ静かに、その反応を見つめていた。
(違う……。こんなはずではない……)
百五十年前。
勇者セリア・グラハートとの戦いは、最後には相打ちへ持ち込めた。
だからこそ確信していた。
この肉体を得た今なら、あの時を超えられると。
(押されている……)
一太刀交えるたび、その差だけが広がっていく。
(まさか……)
脳裏を、一つの考えがよぎる。
(思念体だった、あの頃の方が……。違う。違う……!)
マーキュリーは首を横へ振った。
(認めるものか。そんなはずはない)
白銀の少女は、ただ静かにそこへ立っていた。
蒼銀の瞳は、一瞬たりともマーキュリーから逸れない。
マーキュリーは一歩だけ後ずさった。
その様子を見つめながら、大翔は小さく息を吐く。
黒い瞳は、静かに白銀の少女を映していた。
(これが……本気の麻衣さん、か)
これまで何度も、その規格外の強さを目の当たりにしてきた。
それでも――。
(ここまでとは……)
一瞬だけ苦笑が漏れる。
(敵じゃなくて、本当に良かった)
それが、大翔の率直な実感だった。
「これが……勇者の力……」
ライザが呆然と呟く。
シュナイダーも息を呑み、白銀の少女から目を離せない。
「これほどまでとは……」
兵士たちも言葉を失い、ただその姿を見つめていた。
マーキュリーは白銀の少女を睨み据えたまま、憎悪に満ちた声を張り上げる。
「お前たちっ!!」
その怒声が広場へ轟いた。
次の瞬間、周囲にいた一部の魔族たちが一斉に顔を上げる。
その視線は、誰一人としてライザではなく、マーキュリーだけへ向けられていた。
「あいつを殺せぇぇぇっ!!」
命令と同時に、その魔族たちが一斉に地を蹴る。
一直線に麻衣へ向かって殺到した。
大翔はその光景を見た瞬間、黒い瞳を鋭く細める。
「ライザ!」
ライザはすぐに表情を引き締めた。
「全軍! マーキュリーに従う者を制圧しなさい! 勇者殿へ近づけてはなりません!」
「はっ!」
シュナイダーは即座に剣を高く掲げる。
「陛下の御命令だ! 反逆者を制圧せよ! 勇者殿を守れ!」
「「「応っ!!」」」
ライザへ忠誠を誓う古参魔族と亜人種たちが、一斉に前へ躍り出た。
迎え撃つ者。
突破しようとする者。
互いの剣が激しくぶつかり合い、轟音が広場へ響き渡る。
魔法が飛び交い、怒号と咆哮が交錯した。
古参魔族が同族へ刃を振るい、亜人種たちも反乱した魔族へ躊躇なく斬りかかる。
反乱した魔族もまた容赦なく応戦し、広場は瞬く間に混戦へと変わっていった。
大翔も静かに剣を抜く。
一瞬だけ麻衣へ視線を向け、小さく頷いた。
「麻衣さん。こちらは任せてください」
その言葉を残し、大翔は反乱した魔族たちの中へ真っ直ぐ駆け出した。
マーキュリーは周囲の戦況を一瞥した。
反乱した魔族たちは、ライザへ忠誠を誓う古参魔族と亜人種たちによって足止めされている。
大翔も剣を振るい、反乱した魔族たちを次々と押し返していた。
(駄目だ……。突破できない)
マーキュリーは静かに歯を食いしばる。
次の瞬間、その身から膨大な魔力が溢れ出した。
切断された右肩へ黒紫色の魔力が集中していく。
渦を巻く魔力は腕の形を成し、筋肉、皮膚、血管、指先まで瞬く間に形成していく。
やがて、新たな右腕が完全に再生した。
「……え?」
麻衣が小さく目を丸くする。
「腕って……生えるんだ」
純粋に感心したような声だった。
マーキュリーは答えない。
そのまま、さらに魔力を解放する。
黒紫色の魔力が爆発的に膨れ上がり、その身体を飲み込んでいった。
「ぐっ……!」
苦悶の声が漏れる。
全身の筋肉が軋み、皮膚には無数の亀裂が走る。
背中の翼はさらに巨大化し、禍々しい角もなお伸び続けた。
膨れ上がる魔力に耐え切れず、肉体そのものが崩れ始めている。
麻衣は静かにその様子を見つめ、小さく息をつく。
「その肉体じゃ、もう限界じゃない?」
マーキュリーは睨み返す。
だが、荒い呼吸を繰り返すだけで、言葉を返す余裕はなかった。
麻衣は静かに呟く。
「せっかく自然な生命体になれたのに……」
一拍置く。
「……勿体ない」
半魔神化を終えたマーキュリーは、大きく息を吐いた。
全身から溢れ出す黒紫色の魔力は、先ほどまでとは比べものにならない。
その双眸は麻衣だけを見据えていた。
麻衣もまた、静かに白銀の日本刀を構える。
二人は無言のまま、ゆっくりと間合いを詰めた。
次の瞬間、地面が爆ぜると同時に二人の姿が掻き消える。
轟音とともに白銀の日本刀と黒き魔剣が真正面から激突した。
激しい火花が散り、白銀と黒紫の魔力が渦を巻きながら爆発するように周囲へ解き放たれる。
衝撃波は大地を駆け抜け、地面は蜘蛛の巣状に砕けた。
無数の亀裂が四方八方へ走り、舞い上がった岩石は粉々に砕け散る。
周囲の木々も激しく揺さぶられ、何本かが根元から薙ぎ倒された。
「ぐあっ!」
「うわぁぁっ!」
反乱した魔族も、ライザへ忠誠を誓う古参魔族も、亜人種たちも、その衝撃波へ巻き込まれて一斉に吹き飛ばされた。
敵も味方も関係ない。
二人の剣が交わるたび、白銀と黒紫の魔力は爆風となって荒れ狂う。
その余波だけで、周囲の戦闘は完全に止まっていた。
再び両者の剣が激突した瞬間、轟音とともに魔力が爆発する。
大地が大きく抉れ、巨大な岩塊は一瞬で粉々に砕け散った。
その余波だけで兵士たちは立っていられない。
誰も近づくことも、割って入ることもできなかった。
大翔は吹き荒れる衝撃波へ耐えながら、剣を地面へ深く突き立てる。
強風が黒髪を激しくなびかせていた。
黒い瞳は、白銀と黒紫の閃光が激突する戦場だけを映している。
「押し返した……?」
思わず息を呑む。
先ほどまで圧倒されるだけだったマーキュリーが、今は麻衣の斬撃を真正面から受け止め、押し返していた。
「半魔神化で、ここまで変わるのか……」
ライザも吹き荒れる衝撃波へ耐えながら、その戦いを見つめていた。
「これが……勇者と魔神の戦い……」
シュナイダーも剣を地面へ突き立て、衝撃波へ耐えながら息を呑む。
「もう……我々の戦場ではない……」
誰一人として剣を振るうことはできなかった。
戦場に残された全員の視線は、ただ白銀と黒紫の閃光が激突する、その一点へ注がれていた。
二人の激突は、なおも終わる気配を見せない。
剣と剣が激突するたび、凄まじい衝撃波が周囲を薙ぎ払う。
大地へ新たな亀裂が刻まれ、戦場そのものが激しく揺れ続けていた。
その最中、マーキュリーの身体へ小さな亀裂が走る。
肩から胸へ。
腕から指先へ。
黒い皮膚の表面へ浮かんだ亀裂は、一つ、また一つと静かに増えていった。
麻衣は剣を交えながら、その変化を見逃さない。
(やっぱり……)
「もう限界だよ?」
マーキュリーの表情が怒りに染まる。
「黙れぇぇぇっ!!」
咆哮とともに、さらに魔力を解放した。
黒紫の魔力が爆発的に膨れ上がり、その身を完全に包み込む。
「ああああああぁぁぁっ!!」
全身へ走る亀裂はさらに広がり、肉体そのものが崩壊寸前まで追い込まれていく。
それでもマーキュリーは止まらない。
禍々しい魔力はさらに膨れ上がり、やがて黒紫の光が一気に弾け飛んだ。
そこへ立っていたのは、完全なる魔神の姿となったマーキュリーだった。
その身から放たれる魔力は、半魔神化の時をも凌駕している。
空間そのものが震え、大気が軋む。
周囲へ漂う魔力だけで、地面が音を立てて崩れ始めた。
血走った瞳が、麻衣だけを捉える。
「お前だけはぁぁぁぁぁっ!!」
地面を爆砕しながら、マーキュリーが一瞬で間合いを詰める。
半魔神化をさらに上回る速度だった。
麻衣は即座に白銀の日本刀を合わせる。
轟音。
剣と剣が激突した瞬間、今まで受け止められていた一撃が、そのまま麻衣の身体ごと押し込んだ。
「っ……!」
足元の地面が砕け、靴が地面を削りながら後方へ滑る。
麻衣が初めて力負けした。
その一瞬の均衡が崩れる。
マーキュリーは身体を捻ると、首を狙って魔剣を横薙ぎに振り抜いた。
麻衣は咄嗟に上体を反らし、致命の一撃を紙一重でかわす。
しかし、避けきれなかった魔剣が左肩へ叩き込まれた。
白銀のロングコートに織り込まれた術式が瞬時に輝く。
物理衝撃と魔力を検知し、《プロテス》と《シェル》が同時に展開された。
魔剣の刃は防壁に阻まれ、麻衣の身体へ届かない。
しかし――。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃だけは完全に殺し切れず、左肩を貫いた。
鈍く嫌な感触とともに、左鎖骨へ激痛が走る。
骨が折れる音が、身体の奥で響いた。
麻衣の身体は数十メートル先まで吹き飛ばされる。
地面を大きく削りながら滑り、ようやくその勢いが止まった。
土煙がゆっくりと晴れていく。
左肩を押さえたまま、麻衣は静かに息を吐いた。
(……鎖骨、折れたか)
痛みは確かにある。
それでも蒼銀の瞳から戦意が揺らぐことはなかった。
麻衣はゆっくりと立ち上がる。
白銀の日本刀を静かに構え直すと、再び完全魔神化したマーキュリーを真っ直ぐ見据えた。
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