第66話 魔人と白銀
マーキュリーの身体から、突如として膨大な魔力が噴き上がった。
黒紫色の魔力が渦を巻き、広場全体を覆い尽くすように荒れ狂う。
その圧倒的な魔力に大地が低く唸り、空気そのものが激しく震え始めた。
「セリア・グラハートォォォッ!!」
絶叫にも似た叫びが広場へ轟く。
それは怒りか、憎しみか、それとも百五十年という歳月を超えた執念か、誰にも判別できなかった。
次の瞬間、マーキュリーの全身を包む魔力が爆発的に膨れ上がる。
皮膚には黒い紋様が浮かび、背中から漆黒の翼が大きく広がった。
額には禍々しい二本の角が突き出し、その瞳は黄金色から深紅へと染まっていく。
膨大な魔力はなおも増幅を続け、人の姿を保っていたマーキュリーは、やがて異形の魔人へと変貌した。
「なっ……!」
ライザが息を呑む。
シュナイダーも目を見開き、その場へ釘付けになった。
「こ、この魔力は……!」
将校たちの顔から血の気が引き、兵士たちは立っていることさえ困難なほどの重圧に襲われる。
広場全体が、暴風のように吹き荒れる魔力へ翻弄されていた。
そんな中でも、麻衣だけは静かに立っていた。
吹き荒れる魔力が髪を激しく揺らしても、その表情は微動だにしない。
麻衣は小さく息をつくと、大翔へ視線を向けた。
「久我くん」
穏やかな声だった。
「これから見ることは、全部内緒でね」
その一言に、大翔はわずかに目を見開く。
麻衣の眼差しを見つめたあと、小さく笑みを浮かべて静かに頷いた。
「ああ。楽しみにしている」
麻衣は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
右手を胸元へ添えた瞬間、その身から純粋な魔力が静かに溢れ出す。
それは白ではない。
澄み切った輝きを宿す、白銀の魔力だった。
舞い上がった白銀の粒子は音もなく広がり、一枚の幕となって麻衣の全身を静かに包み込む。
吹き荒れていた黒紫の魔力は、その白銀へ触れた端から淡い霧となって消えていった。
「そんな……」
ライザが思わず息を呑む。
周囲の兵士たちも、目の前で起きている光景に息を詰めた。
白銀の幕の中で、麻衣の黒髪がふわりと浮かび上がる。
白銀の魔力が一本一本の髪へ溶け込むように浸透し、根元から毛先まで静かに染め上げていく。
夜空のようだった長い黒髪は、やがて月光を紡いだような白銀の長髪へ変わり、風を受けて静かに揺れた。
「まさか……」
シュナイダーが呆然と呟く。
目を見開いたまま、その変化を見つめていた。
閉じられていた麻衣の瞳が、ゆっくりと開かれる。
黒かった双眸は深い蒼へ変わり、その蒼はさらに澄み渡って、やがて白銀の輝きを宿した蒼銀へ染まっていった。
その蒼銀の瞳がマーキュリーへ向けられる。
マーキュリーは一歩後ずさった。
「あり得ない……」
震える声が漏れる。
戦装束もまた、白銀の魔力に呼応するように淡く輝き始めた。
ロングコートへ流れ込んだ光は胸元から裾へ向かって広がり、その姿全体を静かな白銀の輝きで包み込んでいく。
その輝きが最高潮へ達した瞬間、麻衣の右手へ一振りの剣が静かに現れた。
見慣れたロングソードへ白銀の魔力が流れ込むと、澄み切った金属音が広場へ響く。
柄が変わる。
鍔が変わり、刀身には美しい反りが生まれていく。
やがて剣は、一振りの白銀の日本刀へと姿を変えた。
誰一人、声を発することができなかった。
広場を包んでいた白銀の魔力が、音もなく麻衣の身体へ収束していく。
風だけが静かに吹き抜けた。
そこに立っていたのは、白銀の長髪を風になびかせる一人の少女だった。
蒼銀の瞳は、静かにマーキュリーだけを見据えている。
ライザも、シュナイダーも、兵士たちも、ただ息を呑んでその姿を見つめていた。
マーキュリーだけが唇を震わせ、小さく呟く。
「……セリア」
麻衣は何も答えない。
白銀の日本刀を静かに携えたまま、蒼銀の瞳でマーキュリーを見据えた。
「……参る」
その姿が、ふっと掻き消えた。
次の瞬間には、麻衣はすでにマーキュリーの正面へ踏み込んでいた。
「――っ!」
マーキュリーは反射的に剣を構える。
白銀の日本刀が横一閃に薙ぎ払われた。
甲高い金属音が広場へ轟く。
間一髪。
マーキュリーは己の剣でその一撃を受け止めた。
だが、受け止めただけだった。
「ぐぁっ!」
凄まじい衝撃が全身を貫き、その身体は砲弾のような勢いで横へ吹き飛ぶ。
地面を削りながら数十メートル先まで弾き飛ばされ、そのまま側面の崖へ激突した。
轟音とともに岩肌が砕け、土煙が舞い上がる。
兵士たちは呆然と目を見開き、その場へ立ち尽くしていた。
麻衣が踏み込んだ瞬間を捉えられた者すら、ほとんどいない。
ライザもシュナイダーも、呆然と正面を見つめていた。
ただ一人、大翔だけが目を細める。
一直線に走った白銀の残像を追うように、その視線だけが僅かに動いていた。
土煙の向こうを見据えたまま、麻衣は静かに呟く。
「やっぱり、高位魔族の身体でも本来の力は出せないか……」
一拍置く。
「……しょせんは、分体因子風情」
その一言が、静まり返った広場へ落ちる。
崖へめり込んでいたマーキュリーの瞳が、大きく見開かれた。
顔が激しく歪み、黒紫の魔力が再び噴き上がる。
「貴様ぁぁぁぁぁっ!!」
砕けた岩壁を爆散させながら、マーキュリーが飛び出した。
黒紫の魔力を纏い、一直線に麻衣へ襲い掛かる。
凄まじい勢いで振るわれる一撃を、麻衣は表情一つ変えずに白銀の日本刀で受け流した。
続けざまに二撃目、三撃目、四撃目が襲い掛かる。
それでも麻衣は最小限の動きだけで、すべての斬撃をいなし続ける。
激しく火花が散り、剣戟の音だけが広場へ絶え間なく響き渡った。
黒紫の剣閃が幾重にも重なり、麻衣へ容赦なく襲い掛かる。
麻衣は半歩、さらに半歩と僅かに身体をずらし、紙一重の間合いで斬撃をかわし続けていた。
その蒼銀の瞳は、静かにマーキュリーだけを見据えている。
攻め続けているのはマーキュリーだったが、麻衣は一度も態勢を崩さない。
次の瞬間、マーキュリーの剣筋がほんの僅かに乱れた。
「――そこ」
白銀の日本刀が一閃する。
音すら置き去りにした斬撃が、マーキュリーの右腕を肩口から切り落とした。
「なっ――!」
剣を握ったままの右腕が、くるくると回転しながら地面へ落ちる。
マーキュリーは大きく後方へ飛び退き、左手で切断された肩口を押さえた。
通常の魔族であれば、切断された部位はすぐに黒い霧となって消える。
しかし――。
地面へ落ちた右腕は消えなかった。
黒い霧へ変わる気配すらなく、剣を握ったままそこへ転がっている。
マーキュリーの肩口からは黒い血が溢れ、指の隙間から地面へ滴り落ちていた。
「……消えない?」
ライザが震える声で呟く。
「そんな馬鹿な……」
シュナイダーも目を見開いたまま、その場から動けない。
兵士たちの間にも大きなどよめきが広がった。
「どういうことだ……」
「魔族じゃ、ないのか……?」
誰も答えられない。
その異様な光景を前に、広場は重苦しい静寂へ包まれていた。
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