第65話 暴かれた異界の影
大翔は小さく息をつくと、慌てる様子もなくマーキュリーを見据えた。
「……ほう」
その声音には怒りも驚きもない。
何かを確かめるような、静かな響きだった。
「彼女が勇者セリア・グラハートだと言うのか」
マーキュリーの肩がわずかに震える。
「かの勇者は人族だったはずだ。そして、百五十年前の人物でもある」
一度だけ言葉を切る。
「百五十年前の人間が、今なお生きているわけがあるまい」
大翔は静かに目を細めた。
「……それとも、かつての私のように不老不死の存在だったとでも言うのか?」
その瞬間、マーキュリーの表情がわずかに強張る。
大翔は、その一瞬の変化を見逃さなかった。
「マーキュリーといったな」
静かな声だった。
しかし、その一言だけで広場の空気がさらに張り詰める。
「二十年前、貴様の顔は見た記憶がない」
マーキュリーの瞳がわずかに揺れる。
「当時、魔国軍内の魔族はおよそ五千。魔王だった私は、その程度の将兵の顔ならすべて把握していた」
一歩、ゆっくりと前へ踏み出す。
「少なくとも、貴様ほどの実力者がいれば忘れるはずがない」
さらに一歩。
「それに、二十年前に私が知っていた魔族の中に、今の貴様ほどの力を持つ者はいなかった」
そう言って視線を横へ向ける。
そこではライザが必死に立ってはいるものの、両膝は小刻みに震えていた。
「お、お父様……さすがに少し、お手柔らかにお願いいたします……」
ライザは困ったように笑みを浮かべながら、小さく肩をすくめた。
大翔は娘へ一瞬だけ視線を向けると、すぐにマーキュリーへ向き直る。
その瞳には、先ほどまでの穏やかさは欠片もない。
魔王として数多の強者を見極めてきた者だけが持つ、底知れぬ冷たさが宿っていた。
「さて、マーキュリーとやら。……貴様――何者だ?」
マーキュリーは唇を固く結んだまま、一言も返さずにいた。
大翔の追及によって、広場の視線は完全に彼女へ集まっている。
その沈黙を破ったのは、麻衣だった。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
穏やかな声だった。
だが、その瞳だけは鋭くマーキュリーを見据えている。
「これは、仮に私が勇者セリア・グラハート本人だった場合のお話です」
一度だけ言葉を区切る。
「なぜ、あなたは私をセリアだと断定したのですか」
マーキュリーの肩がぴくりと震えた。
「どこを見て、何を感じ取り、そのように判断されたのでしょうか」
静かな問いだった。
マーキュリーは口を開きかけたが、そのまま言葉を呑み込む。
視線を僅かに彷徨わせたあと、やがて麻衣へ向けた。
「その白銀の装束……その魔力……そして、その佇まい……」
「……見間違えるはずがない」
言い終えた瞬間、マーキュリーの表情が強張った。
唇が固く閉ざされる。
麻衣は静かに頷いた。
「……なるほど」
小さく息をつき、マーキュリーをまっすぐ見つめる。
「装束だけではありませんね。魔力も、佇まいも知っている。つまり、あなたは勇者セリア本人を見たことがある、のでしょうか?」
マーキュリーの瞳が大きく揺れた。
麻衣はその反応を見つめたまま、さらに続ける。
「百五十年前を知る長命な方が、この世界にいること自体は不思議ではありません」
一拍の沈黙が落ちる。
「ですが、名乗ってもいない私を見ただけで、装束だけでなく魔力や佇まいまで百五十年前のセリアと一致すると判断した」
麻衣は静かに目を細めた。
「それほど詳しく知っているのは、少し不自然ではありませんか?」
マーキュリーの喉が小さく動く。
麻衣はなおも静かに言葉を続けた。
「この世界の出来事だけでは、あなたの知識を説明できない可能性があります。外部から、この世界へ何者かが介入したと考えれば、これまでの異常にも説明がつく」
一度だけ息をつく。
「この二十年で、魔族が不自然なほど増えたことも含めて」
ゆっくりと目を開き、マーキュリーを正面から見据える。
「……第七異界、ムーラム」
その言葉が広場へ落ちる。
マーキュリーの目が大きく見開かれ、一歩、無意識に後ずさる。
「な、なぜ貴様がムーラムの名を知っている!?」
叫び声が広場へ響いた。
その瞬間、周囲の空気が凍り付く。
マーキュリー自身も、口を開いたまま動きを止めた。
大翔が静かに眉をひそめる。
「……ムーラム?」
ライザも戸惑いを隠せない。
「お父様、そのような世界があるのですか?」
大翔は静かに首を横へ振った。
「……いや。少なくとも聞いたことがない」
シュナイダーも険しい表情のまま口を開く。
「私も存じ上げません」
三人の反応は同じだった。
その場で「第七異界ムーラム」という言葉に明確な反応を示したのは、麻衣とマーキュリーだけだった。
マーキュリーは目を見開いたまま、その場へ立ち尽くしている。
青ざめた顔からは、先ほどまでの余裕が完全に消え失せていた。
麻衣はそんな彼女を静かに見つめ、小さく息をつく。
「……第七異界ムーラムをご存じとは」
一拍置く。
穏やかな表情は崩さない。
視線だけが、まっすぐマーキュリーを射抜いていた。
「なかなかの博識ですね」
マーキュリーの肩がぴくりと震える。
その反応を見届けるように、麻衣はわずかに間を置いた。
そして、ごく自然に続ける。
「……さすが、セリューナさん」
その瞬間だった。
マーキュリーの瞳が大きく見開かれる。
喉がひくりと震え、表情から一気に血の気が引いていった。
「っ――!」
唇が何かを言おうと動く。
だが、声にはならない。
麻衣は何も言わず、その反応だけを静かに見つめ続ける。
一つの名を口にしただけで、それ以上の説明は必要なかった。
ゆっくりと大翔へ視線を向ける。
二人の視線が一瞬だけ交わった。
大翔は表情を変えず、小さく一度だけ頷く。
麻衣はその頷きを見ると、静かにマーキュリーへ向き直った。
その瞳には、揺るぎない静かな確信が宿っていた。
麻衣は静かに一歩前へ出た。
動揺するマーキュリーを見つめ、穏やかな微笑を浮かべる。
「では、改めて」
一度だけ小さく息をつく。
「百五十年ぶりですね」
その静かな一言に、マーキュリーの肩が大きく震えた。
麻衣はわずかに首を傾げる。
「女神セリューナ……」
一拍置く。
「……いえ」
「魔神セリューナ」
その名が広場へ静かに響く。
マーキュリーの瞳が限界まで見開かれた。
唇が震え、息を呑む音だけが漏れる。
麻衣は優雅に両手を重ね、静かにカーテシーを披露した。
「姿も変わっておりますので、お気付きにはならないものと思っていたのですが」
ゆっくりと顔を上げる。
「どうやら、甘かったようですね」
穏やかな微笑は崩れない。
「申し遅れました。今は、加山麻衣と申します」
マーキュリーは呆然とその姿を見つめていた。
麻衣は静かに続ける。
「かつては――」
一拍置く。
「セリア・グラハートと呼ばれておりました」
その瞬間だった。
「あ……」
マーキュリーの口から、かすれた声が漏れる。
口を開いたまま、それ以上の言葉は続かなかった。
広場全体が静まり返った。
ライザは目を見開き、信じられないものを見るように麻衣を見つめる。
シュナイダーも息を呑み、言葉を失っていた。
将校たちの間にも大きなどよめきが広がる。
平然としているのは、大翔だけだった。
何も口を挟まず、静かに麻衣とマーキュリーを見つめている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった」と思っていただけましたら、ブックマーク・★評価・リアクション・一言感想のどれか一つでもいただけると、とても励みになります。
ありがとうございました!




