第64話 帰還という罠
しばらく考え込んでいた大翔は、やがて静かに顔を上げた。
その視線はまっすぐ前を向き、わずかな迷いも見せない。
「……危険な賭けになるが」
その言葉に、ライザとシュナイダーが大翔へ視線を向ける。
「ライザ。明日、俺が帰還したことを発表してくれないか」
ライザは一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに表情を輝かせ、勢いよく身を乗り出す。
「ぜひ!」
声を弾ませながら、大翔の手を両手で包み込んだ。
その仕草には、隠しきれない喜びが滲んでいる。
「ああ……また、お父様の治世が始まるのですね!」
喜びを隠しきれないライザを前に、大翔はわずかに苦笑する。
「ライザ。すまないが、それはない」
ライザの笑顔が止まった。
「……え?」
「俺は今、こことは異なる世界で生活している。だから、この世界へ戻り、再び王として生きることはできない」
ライザは大きく目を見開いた。
言葉を失い、わずかに唇が震える。
「そ、そんな……!」
しばらく言葉を失っていたが、やがて麻衣へ視線を向ける。
「……新しいお母様のためですか? 私はいい子にいたします。継母でも、まったく問題ございません!」
「いや、違うんだが……」
大翔は困り果てたように額へ手を当てた。
その様子を見た麻衣は、小さく息をつく。
わずかに肩を落とし、静かに口を開いた。
「陛下。そういうことではありません」
ライザは不思議そうに麻衣を見つめた。
大翔がそのまま言葉を引き継ぐ。
声の調子が、わずかに低くなる。
「俺が帰還したことを公表すれば、その事実だけで困る者が必ず現れる」
天幕の空気が静かに張り詰める。
先ほどまでの和やかな空気が、一瞬で消えた。
「二十年前に死んだはずの前魔王が生きて戻ってきた。しかも、今の魔国で起きていることを調べ始めたとなれば、裏で糸を引いている者は放っておけないはずだ」
一度だけライザを見据える。
その視線には、明確な意志が宿っていた。
「そいつは、必ず何らかの行動を起こす」
麻衣は静かに頷いた。
「そして、その人物こそが、一連の出来事の元凶である可能性が最も高いと、私たちは考えています」
ライザはようやく父の真意を理解し、息をのんだ。
表情から、戸惑いが消えていく。
「では、お父様の帰還を発表するのは……」
大翔は静かに頷く。
「ああ。黒幕を炙り出すためだ」
天幕の空気が、一段と張り詰めた。
翌朝。
魔国軍の本陣前には、出陣を控えた兵士たちが整然と並んでいた。
広場を埋め尽くすほどの大軍が静かにライザの言葉を待ち、四大将軍をはじめとする上級将校たちも壇上の脇へ控えている。
やがてライザが壇上へ姿を現すと、兵士たちは一斉に姿勢を正した。
その少し後ろにはシュナイダーが立ち、さらに離れた場所には大翔と麻衣の姿もある。
ライザは集まった全軍を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「出陣を前に、皆へ伝えなければならないことがあります」
張りのある声が、静まり返った広場へ響き渡る。
兵士たちは身じろぎ一つせず、その言葉へ耳を傾けていた。
「昨夜、我が軍の陣中へ、一人の御方が戻られました」
兵士たちの間へ、わずかなどよめきが広がる。
ライザはそれが収まるのを待ち、静かに言葉を続けた。
「二十年前にお亡くなりになったと伝えられていた、我が父――先代魔王ハルト陛下です」
その瞬間、広場全体が大きくざわめいた。
兵士たちは互いの顔を見合わせ、将校たちの間にも隠しきれない動揺が走る。
ライザは背後へ振り返った。
その視線を受け、大翔は麻衣とともにゆっくりと前へ歩み出る。
少年の姿は、かつてのハルトよりわずかに幼い。
一歩踏み出すたび、その場の空気が静かに張り詰めていく。
壇上の中央へ立つと、騒めく軍勢を静かに見渡した。
四大将軍の一人として控えていたマーキュリーは、壇上へ現れた少年を目にした瞬間、わずかに目を見開いた。
だが、すぐに表情を引き締めると、一歩前へ進み出る。
「お待ちください、陛下」
凛とした声が広場を貫く。
ライザが静かにマーキュリーへ視線を向ける。
「何でしょう、マーキュリー」
マーキュリーは大翔を警戒するように見据えたまま、強い口調で訴えた。
「突然、その少年が亡きハルト陛下御自身であると告げられても、にわかには信用できません」
周囲の将校たちが緊張した面持ちで成り行きを見守る。
マーキュリーは一歩も退かず、さらに続けた。
「容姿も、私どもが記録で知るハルト陛下とは異なっております。何より、御本人であることを示す確かな証拠がございません」
「マーキュリー」
ライザの声が低くなる。
しかし、マーキュリーは止まらなかった。
「ましてや、そのような正体も定かではない者へ王位までお返しになるというのであれば、到底看過できる話ではございません!」
ライザの眉がわずかにつり上がる。
「控えなさい!」
ライザの叱責が広場へ響く。
「お父様に対し、あまりにも無礼です」
だが、マーキュリーは引かなかった。
「陛下の御身と魔国の行く末を案じて申し上げております!」
その時だった。
空気が、わずかに沈む。
「……うるさいぞ」
静かな声が壇上へ落ちる。
マーキュリーが大翔へ視線を向けた。
大翔は冷え切った瞳で、真正面から彼女を見据えている。
「小娘が」
次の瞬間、大翔の全身から膨大な魔力が解き放たれた。
空気そのものが重く沈み込み、見えない巨大な力が広場全体へ降り注ぐ。
大地が低く震え、周囲に張られていた天幕が激しく揺れた。
兵士たちの表情から一斉に血の気が引く。
立っているだけで全身を押し潰されるような圧力に襲われ、次々と膝をついていった。
「ぐっ……!」
「な、何だ……これは……!」
将校たちも歯を食いしばり、必死にその場へ踏みとどまる。
耐え切れなかった兵士たちは、糸が切れたように次々と意識を失い、その場へ崩れ落ちていった。
ライザは息を詰めながらも、父から放たれる魔力に耐えている。
シュナイダーも片膝をつきそうになる身体を支え、歯を食いしばりながらその圧力へ必死に抗っていた。
そのすぐ後ろで、麻衣だけは何事もないかのように静かに立っていた。
吹き荒れる魔力の奔流を真正面から受けながらも、その表情はどこまでも涼しい。
髪と衣服を激しく揺らす魔力の風にも微動だにせず、大翔とマーキュリーを静かに見つめている。
その姿に気付いた周囲の将校たちは、驚愕に目を見開いた。
「ま、まさか……」
「あの圧力を受けて、平然としている……?」
将校たちは伝承として語り継がれてきた魔王の威圧を、今まさにその身で味わっていた。
だが、マーキュリーもまた、他の者たちとは違っていた。
全身へ叩きつけられる圧力に表情を歪めながらも、両足を地面へ踏み締めたまま倒れない。
額へ汗を浮かべ、歯を食いしばりながらも、大翔から一度も視線を逸らさなかった。
大翔はその様子を見て、わずかに目を細める。
「ほう……」
周囲の者たちが次々と膝をつき、あるいは意識を失っていく。
その中で、麻衣だけが涼しい表情のまま立ち続け、マーキュリーだけが真正面から魔力の圧力を受け止めていた。
麻衣もまた、マーキュリーの異常さに気付いたように静かに目を細める。
やがて大翔は魔力を収めた。
重圧から解放された兵士たちは一斉に息を吐き、倒れずに残った者たちも肩で荒い呼吸を繰り返している。
広場へ残ったのは、畏怖に満ちた静寂だけだった。
大翔はマーキュリーを見据えたまま、冷たく告げる。
「これでも、まだ証拠が足りないか?」
マーキュリーは返事をしなかった。
荒い呼吸を整えながら、目の前の少年を鋭く睨み続けている。
やがてその視線が、ゆっくりと大翔の後ろへ移った。
そこに立っていた麻衣の姿を捉える。
百五十年前と寸分違わぬ白銀の勇者装束。
その身からは、澄み切った魔力が静かに漂っている。
大翔の魔力を真正面から受けても、その佇まいは一歩たりとも揺るがない。
マーキュリーの表情が変わった。
先ほどまで大翔の魔力の圧力へ耐えていた顔から血の気が引き、瞳が大きく見開かれる。
そこにいるはずのない存在を目にしたように、唇が震えた。
「……なぜ」
かすれた声が漏れる。
麻衣は何も言わず、静かにマーキュリーを見つめ返していた。
マーキュリーは一歩だけ後ずさる。
その視線は麻衣の衣装と顔、そして身に宿る魔力を何度も確かめるように動いた。
「な、なぜ……この場に……」
声が大きく震える。
「勇者セリアがいる!」
その名が響いた瞬間、今度はライザとシュナイダーが驚愕した。
ライザが目を見開き、麻衣へ視線を向ける。
シュナイダーも信じられないというように、マーキュリーと麻衣を交互に見つめた。
「セリア? セリア・グラハート……ですと?」
それは、百五十年前に存在した第十六代勇者の名だった。
人族であった彼女が、今も生きているはずはない。
ましてや、名乗ってもいない麻衣を一目見ただけで、百五十年前の勇者本人だと言い当てた。
それ自体が、明らかに異常だった。
広場へ再び静寂が落ちる。
大翔は何も言わず、マーキュリーを鋭く見据えていた。
麻衣もまた、その名を口にした彼女から、一瞬たりとも視線を逸らさなかった。
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