第45話 麻衣は麻衣
応接室に再び静けさが戻る。
大翔の話を聞き終えた美咲とはるなは、すぐには言葉を口にしなかった。
麻衣はゆっくりと息を吸い、小さく吐き出す。
「次は、私の話をするね」
そう言って、美咲へ視線を向けた。
美咲は何も言わず、小さく頷く。
その頷きだけで十分だった。
麻衣は少しだけ肩の力を抜き、静かに話し始める。
「私は、生まれた頃から前世の記憶があった。前世の私はこの世界に生まれて、この世界で生きて、この世界で死んだ人間なの。だから魔法も使えるし、剣術も扱える」
美咲とはるなが同時に息を呑む。
大翔は黙ったまま、静かに麻衣の言葉を聞いていた。
美咲は目を見開いていたが、視線を逸らすことなく麻衣だけを見つめ続けている。
はるなは膝の上で両手を握り締め、小さく呟いた。
「だから、あれほど強かったんですね……」
誰も口を挟まない。
窓の外から吹き込む夜風だけが、静かに部屋を通り抜けていく。
麻衣は自分の両手へ一度だけ視線を落とした。
「身体が覚えているんじゃない。全部、私自身が覚えていたことだから」
美咲は僅かに唇を結び、それでも麻衣から視線を逸らさなかった。
その表情を見た麻衣は一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げる。
「私の前世の名前は――セリア・グラハート。第十六代勇者」
その名が応接室へ響いた瞬間、誰も動かなかった。
大翔が目を見開き、はるなの肩が小さく震える。
美咲も息を呑んだまま、麻衣を見つめていた。
重苦しい沈黙が応接室を包む。
最初に口を開いたのは、はるなだった。
「セリア……様……」
震える声だった。
「教会の勇者養成機関で……何度も聞いた名前です……。歴代最強の、第十六代勇者……」
はるなの瞳には、驚きと畏敬の色が浮かんでいた。
美咲は何も言わず、ただ麻衣だけを見つめている。
麻衣はそんな三人を静かに見渡し、一度だけ言葉を切った。
「そして、この王国ではない。今はもう滅んでしまった王国の第一王女だった」
はるなが小さく首を振る。
「第一王女……そんな……」
美咲はようやく小さく息を吐いた。
「……麻衣」
驚きはその表情に残っていた。
それでも、美咲の視線はずっと麻衣だけへ向けられている。
麻衣はその声に、小さく微笑んだ。
大翔は目を見開いたまま麻衣を見つめていたが、やがて何かに気付いたように小さく息を吐いた。
「……だから、あのとき『久しぶりね』って言ったのか」
その呟きが応接室へ落ちても、誰もすぐには言葉を返さなかった。
大翔もはるなも美咲も、それぞれ麻衣を見つめたまま黙っている。
麻衣も急かすことなく、三人の反応を待った。
その沈黙を破ったのは、美咲だった。
「だから治療の魔法とか、服を直す魔法が使えたんだね!」
唐突に顔を上げた美咲は、先ほどまでの重苦しい空気が嘘だったかのように目を輝かせていた。
「え?」
麻衣が思わず間の抜けた声を漏らす。
勇者でも王女でもなく、美咲が最初に食いついたのは治療と服の修復だった。
あまりにも予想外の反応に、麻衣は目を瞬かせる。
その直後、大翔も勢いよく身を乗り出した。
「突然だけど、服を直せる魔法が使えるのか!」
はるなが額へ手を当てる。
「久我くん……そこですか?」
「重要だ。前にも服だけはどうにもならなくて困ったことがあったじゃないか!」
はるながため息をついた。
「だからって今反応するところじゃありません」
美咲は大翔へ何度も頷く。
「分かる。破れたり汚れたりしても元に戻せるんだよ。すごくない?」
「やっぱりそうだよな」
「二人とも、本当に空気読んでください」
三者三様の反応を前に、麻衣はしばらく言葉を失った。
驚かれることも、怖がられることも覚悟していた。
もしかすれば、これまでと同じようには接してもらえなくなるかもしれないと考えていた。
それなのに、美咲は生活魔法へ目を輝かせ、大翔まで同じところへ食いつき、はるなは二人へ注意している。
想像していた反応とは、あまりにも違っていた。
「なんで、そんな反応なの……?」
麻衣の口から、思わず本音が漏れる。
美咲が不思議そうに首を傾げた。
「そんな反応って?」
「もっと、驚いたり、怖がったりすると思ってた」
「驚いてるよ?」
美咲はあっさりと答える。
「麻衣が勇者で、王女だったなんて、すごく驚いてる。でも、麻衣は麻衣でしょ?」
あまりにも迷いのない言葉に、麻衣は返事ができなかった。
胸の奥へ押し込めていたものが、不意に揺れる。
「今まで黙っていて、ごめん。だますつもりはなかったの」
絞り出すように告げると、美咲はますます分からないという顔になった。
「だましていたの?」
「だって、私は加山麻衣だけど、セリア・グラハートでもあるし……」
麻衣は自分でもうまく説明できず、言葉を濁した。
生まれたときから前世の記憶を持ち、セリアとして生きた人生も、麻衣として生きてきた十七年間も、どちらも自分の中にある。
そのことを黙っていた以上、美咲たちをだましていたことになるのではないかと、ずっと考えていた。
美咲は少しだけ眉を寄せ、確かめるように口を開く。
「私が麻衣と出会ったときから、麻衣は、その……セリア・グラハートさんでもあったんでしょ?」
「うん」
「だったら、麻衣は最初から麻衣のままじゃないの?」
麻衣は言葉を失った。
美咲は本当に分からないという顔をしたまま、さらに続ける。
「何が違うの? 何をだましていたの?」
「それは……魔法が使えることとか、剣術ができることとか……」
「今の日本でそれ必要?」
「え?」
「必須?」
美咲は真顔だった。
「魔法が使えるとか、剣が使えるとか、わざわざ話す必要があることなの? 今まで使う必要がなかったなら、言わなくてもいいことだよね?」
「でも……」
「話したくなかったなら、話さなくてもよかったんじゃない?」
美咲の声には責める響きがなく、本当に当たり前のことを確認しているだけだった。
「それに、麻衣はずっと麻衣だったよ」
その言葉に、麻衣の胸の奥が強く締め付けられる。
美咲は勇者だった自分を知らなかった。
王女だった自分も、魔法や剣術を扱える自分も知らなかった。
それでも、出会ったときからずっと、前世の記憶を抱えた加山麻衣と一緒に過ごしてきた。
「だから、何も変わらないよ」
美咲はそう言って、いつものように笑った。
麻衣はその笑顔を見つめたまま、しばらく声を出すことができなかった。
返事をしようとしても、胸の奥で張り詰めていた何かが静かにほどけていき、言葉が出てこない。
博物館で異変が起きたあの日、麻衣は正体を知られれば、今まで積み重ねてきた日常がすべて壊れると思っていた。
美咲たちとも、もう以前のようには笑えなくなると信じていたからこそ、知られないように振る舞い、普通の女子高校生として生きようとしてきた。
学校へ通い、友達と笑い、他愛もない話をしながら一緒に帰る。
そんな当たり前の日常の中心には、いつだって美咲たちがいたからこそ、麻衣はそれを失うことが何より怖かった。
けれど、その日常を失うと思っていた相手が、今も何一つ変わらない顔で自分を見ている。
勇者でも王女でも、セリア・グラハートでもなく、ただ加山麻衣として、あの日からずっと変わらずに見てくれていた。
(……私、何をそんなに怖がっていたんだろう)
胸の奥で長い間抱え続けてきた恐怖が、静かに崩れていく。
守ろうとしていた日常は壊れてなどおらず、美咲も最初から何も変わっていなかった。
麻衣の口元が、小さく緩む。
その瞬間、頬に何か温かいものが伝った。
(……あれ?)
違和感を覚え、そっと頬へ手を当てる。
指先へ触れたのは、一筋の涙だった。
「……え?」
自分でも信じられなかった。
泣くつもりなどなかったし、悲しいわけでもない。
それなのに、一滴だったはずの雫は次から次へと溢れ、頬を伝って落ちていく。
「ど、どうして……」
声が震える。
拭っても拭っても、新しい涙が零れてくる。
十七年間押し込めてきた感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
その様子を見た美咲は何も言わず、静かに立ち上がる。
そして麻衣の隣まで歩み寄ると、そっとその身体を抱きしめた。
突然の温もりに、麻衣の肩が小さく震える。
「み……み、みさき……」
その名前を呼んだ瞬間、胸の奥で最後まで張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「っ……うっ……」
嗚咽が漏れる。
堪えようとしても堪えられず、涙は止まらない。
震える麻衣の身体を、美咲は何も言わず静かに抱きしめ続けていた。
慰めの言葉を重ねることもなく、ただそこにいるという温もりだけを伝えるように、その腕を離さなかった。
麻衣は美咲の肩へ顔を埋め、その温もりに縋るようにして、声を上げて泣き続けた。




