第4話 怪我してない?
異空間が完全に崩壊すると、閉鎖状態に固定されていた防火シャッターも動きを取り戻し、機械音を響かせながらゆっくりと上がり始めた。
閉ざされていた通路が姿を現し、その向こうから職員や警備員、救急隊員たちが慌ただしく展示フロアへ駆け込んでくる。
展示室は酷い有様だった。
展示ケースは砕け、床には無数の傷が走り、倒れた展示台や散乱した破片があちこちに転がっている。だが原因となったはずの存在はどこにも見当たらず、異様な静けさだけが残されていた。
警備員の一人が周囲を確認したあと、麻衣たちのもとへ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「はい」
反射的に返事をしたのは美咲だった。
「怪我人はいませんか?」
「たぶん大丈夫です」
「何があったんですか?」
警備員の質問に、麻衣は一瞬だけ言葉を失う。
説明できるわけがない。
そう思った瞬間だった。
「展示物が倒れてきたんです」
先に口を開いたのは美咲だった。
警備員が眉をひそめる。
「展示物が?」
「はい。急に停電して、そのあとシャッターが閉まって」
奈緒が自然に話を引き継ぐ。
「逃げようとしたんですけど、途中で展示ケースが倒れてきて」
「かなり混乱してたんです」
優香も続けた。
「正直、細かいところまでは覚えてません」
三人とも落ち着いた顔をしていた。
誰も視線を合わせないし、事前に打ち合わせをしたわけでもない。
それでも説明は不思議なくらい自然に繋がり、警備員もそれ以上は深く追及しなかった。
「分かりました。とにかく皆さんは安全な場所へ移動してください」
そう言われ、麻衣たちは救護スペースへ案内される。
その途中、美咲がちらりと麻衣を見る。
だが何も聞かない。
奈緒も優香も同じだった。
麻衣は小さく息を吐く。
その後は慌ただしかった。
救急隊による応急確認が行われ、展示フロアは立入禁止となる。
ほどなくして警察も到着し、規制線が張られた。
鑑識員らしき人物が壊れた展示室を撮影し、現場検証が始まる。
展示フロアにいた来館者全員が氏名や連絡先を確認され、一人ずつ事情を聞かれることになった。
少し離れた場所では、美咲たちもそれぞれ別の警察官から話を聞かれていた。
美咲は「突然警報が鳴り、展示ケースが倒れてきた」と説明した。
奈緒も「停電して何が起きたのか分からず、逃げるので精一杯だった」と話す。
優香も「混乱していて詳しいことは覚えていない」と証言した。
麻衣もほぼ同じ内容を伝えた。
四人とも口裏を合わせたわけではない。
それでも、不思議なくらい証言は一致していた。
警察官は黙ってメモを取りながら頷く。
「混乱していたとのことですが、何か変わったものは見ませんでしたか? ほかの方からは、巨大な人影や、剣を持った少女を見たという話も出ています」
「覚えていません」
麻衣は短く答えた。
警察官は一瞬だけ麻衣の服装へ視線を向ける。
少し離れた場所にいる美咲の服には埃が付き、膝には擦り傷の手当てが施されていた。
奈緒や優香の服にも、避難した際についた汚れが残っている。
それに対し、麻衣の服だけは不自然なほど綺麗だった。
「……何か気になることでも?」
麻衣が静かに尋ねる。
「いえ。失礼しました」
警察官はそれ以上は何も言わず、手帳を閉じた。
「現時点では事故原因を調査中です。後日、追加でお話を伺う可能性があります。その際はご協力をお願いします」
「分かりました」
事情聴取を終えたあと、学校とそれぞれの保護者にも連絡が入り、了承を得たうえで四人は念のため病院へ搬送されることになった。
検査の結果、美咲は転倒した際にできた軽い打撲と擦り傷だけで済んでいた。
奈緒と優香にも目立った異常はなく、処置を受けたあと待合室へ戻ってくる。
一方、麻衣も全身の検査を受けたが、打撲や骨折はもちろん、内出血らしい痕跡すら見つからなかった。
医師は検査結果とカルテを何度も見比べたあと、困ったような顔で首を傾げる。
「展示ケースの近くにいたと聞いていますが、本当にお怪我はないんですね?」
「たぶん」
「たぶんって……」
麻衣も曖昧に笑う。
説明する方が面倒だった。
結局、目立った異常は見つからず、その日のうちに全員へ帰宅許可が出た。
四人が戻ってきたのは、朝に待ち合わせをした駅前だった。
空はすっかり夕焼け色に染まり、人通りは多く、車の音も絶えず聞こえてくる。
目の前にはいつもと変わらない日常が広がっている。
麻衣とは帰る方向が違う三人は、そこで足を止めた。
「で、説明は?」
美咲が麻衣を見る。
「月曜でよくない?」
「逃げる気だ」
奈緒が即座に言う。
「逃げるな! 全部聞くから」
美咲もすぐに念を押した。
「人権は?」
「「「ない!」」」
「今日二回目なんだけど」
つい数時間前まで命の危険があったとは思えない会話だった。
だが、そのやり取りが妙にいつも通りで、麻衣は少しだけ肩の力が抜ける。
「月曜、絶対来なよ」
美咲が念を押す。
「休む理由ができた気がする」
「却下」
奈緒が即答する。
「却下を却下」
優香まで楽しそうに乗っかってきた。
「それも却下」
美咲がとどめを刺す。
三人が笑いながら手を振る。
麻衣も軽く手を上げて応え、その背中をしばらく見送っていた。
すると、少し先まで歩いていた美咲が不意に振り返る。
「麻衣」
「ん?」
「怪我、本当に大丈夫なんだよね?」
最後まで気にしていたのは魔法でも正体でもなかった。
あの時、自分の目の前で吹き飛ばされた幼馴染のことだった。
麻衣は少しだけ笑う。
「大丈夫」
「……無理してない?」
「してない」
「そっか。ならいい」
少しだけ迷ったように視線を逸らしてから、美咲が小さく笑う。
「魔法とかは月曜に聞くから」
「……先そっちじゃないの?」
「今は怪我の方が先」
「……何それ」
「幼馴染だから?」
美咲は少しだけ照れたように笑うと、今度こそ奈緒たちを追いかけていった。
その姿が見えなくなるまで見送ってから、麻衣も帰路につく。
その日の夜。
麻衣が自室のベッドへ腰を下ろした頃、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見ると、最初に届いていたのは、美咲からだった。
『帰宅した?』
続けて、奈緒からも通知が入る。
『月曜逃げるなよ。ちゃんと学校来なよ』
『……善処する』
麻衣が返すと、すぐに奈緒から返信が来た。
『予想通りの返事だな。あと説明資料作っとけ』
『却下』
今度は優香が割り込んでくる。
『却下を却下』
さらに美咲からも続いた。
『今日は夜更かし禁止』
『命令?』
『命令』
『横暴だ』
グループチャットにはいつも通りのやり取りが並んでいた。
麻衣は画面を見つめたまま小さく息を吐き、そのまま口元を緩める。
少しして、またスマホが震えた。
個人チャットだった。
『起きてる?』
『起きてる』
少し間が空く。
『さっきは大丈夫って言ってたけど、無理してないよね?』
麻衣の指が止まる。
『大丈夫』
『そっか』
さらに少し間が空く。
『あと』
『何』
『勝手に死にそうになるな』
画面を見つめたまま、麻衣は小さく息を吐く。
『……善処する』
『麻衣だから無理そうだけど』
『……かもしれない』
短いやり取りだった。
それ以上、魔法のことも、あの化け物のことも聞かれなかった。
聞かれたのは怪我のことだけだった。
麻衣はスマホを見つめたまま、小さく笑う。
『ありがとう』
『今さら』
返信を見た瞬間、思わず笑みが漏れた。
そして、あの時のことを思い出した。
――月曜日、全部聞くから。
たぶん、逃げられない。
今日一日で色々なものを見られた。
魔法も戦う姿も、ずっと隠してきたことを全部。
それでもチャットに並んでいるのは追及より先に、いつもと変わらない言葉ばかりだった。
窓の外へ視線を向ける。
夜の街は静かで、遠くには駅前の灯りが見えている。
「……案外、変わらないのかも」
呟いた声は誰にも聞かれないまま夜の部屋へ溶けていった。
その表情は、朝より少しだけ穏やかだった。
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