第3話 普通なら、ここで終わっていた
「……使い……たく……なかった……のに……」
掠れた声と共に掌の下から淡い碧色の光が滲むように広がった。
《ヒール》
折れた肋骨を中心に広がった淡い光が身体を包み込み、流れていた血を止め、裂けた皮膚を塞いでいく。
だが次の瞬間、身体の奥を走った嫌な感覚に麻衣は思わず服の袖で口元を押さえた。
「っ……」
胃の奥がひっくり返りそうになる。
折れた肋骨や左腕の骨が、内側から無理やり押し戻されるように元の位置へ収まっていく。
その骨が戻る瞬間が一番痛いし、何度経験しても慣れない。
吐き気を押し殺しながら数秒耐えていると、胸を締め付けていた痛みは少しずつ薄れ、乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻していった。
麻衣は何度か呼吸を整えてから小さく息を吐く。
「……ほんと、最悪」
血に濡れた服だけが、ついさっきまで重傷だったことを物語っていた。
美咲たちは言葉を失ったまま麻衣を見つめている。
さっきまで血だらけだったはずの身体が、何事もなかったかのように戻っている。
理解が追いつかないまま、誰も動けない。
美咲たちを見れば、もう元には戻れない気がした。
だから、視線を外したまま、サイクロプス亜種へ意識を向ける。
展示室の中央ではサイクロプス亜種が低い唸り声を響かせながら周囲を見回しており、逃げ遅れた来館者たちは物陰や展示ケースの陰へ身を寄せたまま動けずにいた。
「本当に使いたくないんだよね」
小さく愚痴を零しながら麻衣は肩を落とす。
魔法を使うのも戦うのも目立つのも嫌だった。
だが、ここで攻撃魔法は使えない。
展示室が狭すぎるし、逃げ遅れた人間もいる。
加減なんてできない。
一撃で全部吹き飛ぶ。
放っておけば誰かが死ぬ。
それだけは見過ごせなかった。
麻衣は一度だけ深く息を吸うと、サイクロプス亜種から視線を外さないまま周囲を見渡した。
その視界の端に映ったのは、少し前まで四人で見ていた剣と鎧の展示区画だった。
サイクロプス亜種の暴れた衝撃で展示ケースは砕け、その傍らにはさっき話題にしていた儀礼用の剣が転がっている。
「フィジカル・ブースト、クイック・アクセル」
身体強化の魔力が全身へ広がり、重かった身体が一気に軽くなる。
さらに加速魔法が視界を引き延ばし、迫るサイクロプス亜種の動きさえ緩やかに見えた。
麻衣は床を蹴った。
サイクロプス亜種も動く。
一つ目が麻衣を捉え、巨大な身体が唸り声と共に突進してくる。
だが、その一歩早く麻衣の手は儀礼用の剣の柄を掴んでいた。
立ち上がりながら軽く振り、手首を返して重心を確かめる。
「やっぱり、前重心は嫌い」
見たときと同じ言葉だったが、今度は誰も笑わない。
「ハードニング、エーテルソード」
本来なら戦闘に耐えられない儀礼用の剣を魔力が補強し、その刀身へ淡い光が宿る。
鈍い輝きを纏った刀身は静かに震え、即席の武器とは思えない存在感を放っていた。
麻衣はそのまま剣を構える。
サイクロプス亜種は咆哮と共に腕を振り上げ、その巨大な拳を叩き付けるように振り下ろした。
そんな攻撃は空を切り、拳が床を砕く頃には麻衣の姿はすでに横へ流れるように回り込んでいた。
だが間合いに入った瞬間、空気が変わる。
サイクロプス亜種の腕が、これまでとは明らかに違う速度で振り抜かれ、回避が間に合わないと直感する。
普通なら、ここで終わっていた。
それでも麻衣の身体は、思考より早く動いた。
常識から外れた反応速度で、その一撃を紙一重に外す。
サイクロプス亜種は巨大な腕を振り回しながら追撃を続け、展示物を次々と破壊していく。
砕けた破片が飛び散り、床には深い傷跡が刻まれていくが、そのすべてが麻衣の身体を掠めることなく紙一重で外れていった。
最小限の動きでその猛攻をいなしながら、麻衣は確実に間合いを詰めていく。
無駄のない足運びで懐へ入り込み、大きく腕が流れた一瞬の隙を逃さず、その内側へ滑り込むように踏み込んだ。
振るわれた剣は一度だけだった。
「……ほんと、面倒」
懐へ潜り込んだまま、流れるような動きでその胴を横一線に斬り抜ける。
刃に纏わせた魔力が、その軌道をなぞるように走る。
手応えは軽い。
だが、その一撃で十分だった。
サイクロプス亜種は数歩進んだところで動きを止める。
一瞬の静寂。
次の瞬間、横一線に走った斬撃の軌跡に沿って上半身がゆっくりと横へずれた。
遅れて下半身も傾き、巨体は二つに分かれて崩れ落ちる。
さらに切断面から無数の亀裂が全身へ広がり、二つに分かれた身体は黒い靄となって崩壊を始めた。
やがて巨体は空気へ溶けるように消えていった。
展示室を満たしていた圧迫感も同時に消え、歪んでいた景色が揺らぎながら元の姿を取り戻していく。
防火シャッターの向こう側も輪郭を取り戻し、閉ざされていた異空間は静かに崩壊を始めていた。
物陰へ逃げ込んでいた来館者たちは、声を上げることも忘れ、剣を手に立つ麻衣を呆然と見つめていた。
麻衣は刀身から魔力を消すと、儀礼用の剣を静かに床へ置いた。
魔法も、戦う姿も、全部見られた。
今さら隠し通せるとは思っていないが、それでも面倒なことになったという気持ちは消えない。
そう思った瞬間、美咲が駆け寄ってきた。
「痛いの?」
麻衣は固まる。
「……え?」
「怪我してない!? 大丈夫なの!?」
「いや、そこ?」
「そこだよ!」
泣きそうな顔だった。
「血だらけじゃん!」
「もう治ったから」
「そういう問題じゃない!」
そこへ奈緒が割り込む。
「いや待って。治ったって何?」
「……」
「骨、折れてたよね?」
「たぶん」
「たぶんじゃない!」
優香も腕を組む。
「あと、あの光」
「どの光?」
「とぼけるな!」
「無理がある」
美咲がはっとした顔をする。
「あ」
「今さら?」
「そういえば魔法だった」
「そういえばじゃない」
三人が一斉に詰め寄る。
「説明しろ!」
「全部聞く」
「逃げるなよ!」
「却下」
「却下を却下!!」
「人権は?」
「「「ない!」」」
「酷くない?」
三人が同時に返した。
「いや、こっちの台詞だから」
麻衣は目を瞬かせる。
美咲はまだ腕を掴んだままだし、奈緒も優香も離れる気配がない。
「……何それ」
小さく息を吐いた麻衣は自分の服へ視線を落とした。
服はあちこち破れ、乾き始めた血が残ったままだった。
重傷そのものは治っていても、この格好で駅へ出れば別の意味で騒ぎになる。
「あ、やば」
「何が?」
「帰れない」
三人も麻衣の服へ視線を向ける。
「ああ……」
「確かに」
「職質される」
「だよね」
麻衣は額を押さえたまま数秒考え込み、諦めたように小さく肩を落とした。
「……もういいか」
「何が?」
「今さらだし」
そう言うと麻衣は右手を軽く上げる。
「リペア・クロス」
淡い光が服を包み込む。
裂けていた布地がゆっくりと繋がり、破れていた箇所が何事もなかったかのように元へ戻っていく。
胸元の裂け目も、袖の破れも、引き裂かれていた裾も次々と修復され、数秒後には最初から傷一つなかったかのような状態になっていた。
「え」
美咲の口から間の抜けた声が漏れる。
麻衣は構わず指を軽く鳴らした。
「クリーン」
今度は柔らかな光が全身を撫でるように広がり、服や髪についた血や埃が跡形もなく消えていく。
さっきまで血塗れだった姿は完全に消え、博物館へ来た時と変わらない状態へ戻っていた。
麻衣は袖を引っ張り、肩を回しながら状態を確認する。
「うん。大丈夫」
三人は何も言わない。
ただ呆然と麻衣を見ている。
数秒の沈黙が流れたあと、優香がぽつりと呟いた。
「それ便利でいいな」
「そこ?」
「いや、だって洗濯いらないじゃん」
優香が当然のように言う。
「発想が主婦」
「まだ高校生なんだけど」
奈緒が額を押さえる。
「いや、そこじゃないだろ」
「そこも大事でしょ」
美咲は麻衣を指差した。
「今、服直したよね?」
「直したね」
「血も消えたよね?」
「消えたね」
「傷もなくなってるよね?」
「……うん」
「魔法だよね?」
「……魔法……だね」
三人は互いに顔を見合わせる。
次の瞬間。
「「「説明しろ!」」」
「やっぱりそこに戻るの?」
三人は同時に頷いた。
どうやら逃げ道はなさそうだった。
「……やっぱり、面倒なことになった」




