第2話 異変と大けが
「……出よう」
麻衣の表情が固まり、それまでの余裕が消えた。
「え?」
「今すぐ」
「何で?」
「いいから!!」
いつもと違う声だった。
美咲の表情から笑みが消える。
一瞬、言葉が出なかった。
奈緒と優香も顔を見合わせ、戸惑ったように動きを止める。
だが麻衣は説明しない。
ただ黒い結晶から目を離さない。
「どういうこと?」
奈緒が眉をひそめる。
「いいから行くよ!」
麻衣は振り返らずに言った。
自分でも驚くほど強い口調だった。
奈緒と優香は困惑している。
「行こう」
最初に動いたのは美咲だった。
「え?」
「理由は分からないけど」
美咲は一度だけ黒い結晶へ視線を向け、それから麻衣を見る。
「麻衣がそんな顔するのを初めて見た」
少しだけ不安そうに眉を寄せる。
「いつもなら冗談で流すのに……。今は違う」
小さく息を吐く。
「なんか嫌な予感するけど、こういう時だけは絶対冗談言わないから。だから、行こう」
美咲の言葉に奈緒と優香も頷き、四人は黒い結晶から離れるように出口へ向かって歩き出した。
その時だった。
展示室に乾いた音が響いた。
麻衣が反射的に音のした方へ目を向けると、黒い結晶の表面に細い亀裂が走っていた。
内側から軋むような音とともに、その亀裂はゆっくりと広がっていく。
「嘘でしょ……」
麻衣の顔色が変わる。
「……麻衣?」
美咲が戸惑ったように声を漏らした。
次の瞬間、館内に警報が鳴り響いた。
異常を検知したのか、非常灯が点灯し、防火シャッターが降り始める。
防火扉も次々と閉鎖され、特別展示フロアは強制的に区画ごとに分断されていく。
来館者たちは足を止め、閉じていくシャッターと防火扉を戸惑ったように見上げる。
何が起きているのか分からないまま、ざわめきが広がり、近くの出口へ向かおうとする者が少しずつ動き出した。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
さらに亀裂を広げた黒い結晶は大きく震え、次の瞬間、砕け散った。
溢れ出した黒い靄が展示室を覆い、空間そのものが揺らいだ。
視界が歪み、周囲との繋がりが断ち切られていく感覚が走る。
防火シャッターの向こう側が霞み、館内のざわめきが遠ざかっていく。
まるで展示室だけが世界から切り離されたかのようだった。
「最悪……」
麻衣が小さく舌打ちする。
「麻衣、何が起きてるの?」
「空間が……閉じた!」
「は?」
「説明してる暇ない!」
黒い靄が展示室の中央へ集まり始める。
何かが来る気配とともに、渦を巻くように収束し、その密度が異様な速度で高まっていく。
空気が重くなり、息苦しさと同時に、何かが“そこにいる”という圧迫感が広がった。
やがて靄の中心が膨れ上がり、内側から何かが押し出されるように歪む。
軋む音と、ひび割れるような音。
そして次の瞬間、靄が弾けた。
現れたのは、身長三メートルほどもある巨大な魔物だった。
一つしかない巨大な眼球がゆっくりと開き、周囲を舐めるように見回す。
遅れて、異様に発達した両腕が持ち上がった。
その全身を覆う歪な筋肉は人間とはかけ離れており、現代日本の博物館に存在していていいものではなかった。
普通なら、絶対に勝てない相手だった。
その姿を見た瞬間、麻衣の脳裏に忘れたはずの光景がよぎる。
石造りの遺跡を進んでいた時のことだった。
崩れた通路の先には砕け散った封印核が転がっており、その周囲には同じような魔物が現れていた。
『逃げろ!』
誰の声だったのかは思い出せない。
それでも、その言葉だけは今も耳に残っていた。
「逃げよう!!」
奈緒の声だった。
いつもの軽い調子じゃなく、本気で焦っているのが分かる声だった。
奈緒の声に重なるように、展示室のあちこちで悲鳴が上がる。
人の流れが一斉に出口へ向かう。
「麻衣、こっち!」
美咲がこちらに手を伸ばす。
普通なら、迷わず逃げるはずだった。
だが人の流れは制御を失い、我先にと出口へ殺到する。
その波に押され、美咲が床へ倒れた。
立ち上がろうとするが、人の波に阻まれて動けない。
サイクロプス亜種がゆっくりと顔を向ける。
人の流れから取り残され、床へ倒れた美咲の姿が、一つ目に映る。
そして獲物を見つけたかのように、その巨大な腕を振り上げた。
麻衣の足は床へ張り付いたように動かなかった。
ここで動けば終わる。
隠し続けてきたものが、全部知られてしまう。
友人たちとの何気ない日常も、こうして馬鹿な話をしながら笑い合える時間も。
きっと、もう今までと同じではいられない。
だから、隠してきた。
普通でいたかった。
学校へ通い、進路に悩み、休日には友人と遊ぶ。
朝の待ち合わせも、放課後の寄り道も、馬鹿みたいなやり取りも。
そんな当たり前の日常を、失いたくなかった。
見なかったことにすれば、まだ間に合うかもしれない。
何も知らないまま終われば、今まで通りでいられるかもしれない。
――でも。
その「今まで通り」の中に、美咲がいないのなら。
それは本当に守りたかった日常なのだろうか。
美咲まであと数歩。
サイクロプス亜種の腕は、すでに振り下ろされようとしていた。
迷えたのは、ほんの刹那だけだった。
脳裏をよぎったのは、最後に挑んだ遺跡の光景だった。
崩れ落ちる封印区画の中で砕け散った封印核を見上げながら必死に走り、瓦礫の向こうへ消えていく仲間へ向かって手を伸ばした。
だが、その手は最後まで届かなかった。
麻衣は走る。
もう迷っている時間はなかった。
気付けば床を蹴っていた。
美咲の腕を掴み、そのまま全力で横へ突き飛ばす。
「えっ――」
驚きの声が聞こえた直後、振り下ろされたサイクロプス亜種の巨腕が麻衣を正面から捉えた。
轟音と共に身体が吹き飛び、展示ケースへ叩き込まれた衝撃で強化ガラスが砕け散る。
そのまま展示ケースの反対側まで転がり、背中から激しく叩き付けられた瞬間、全身を凄まじい衝撃が貫いた。
サイクロプス亜種はゆっくりと腕を引き戻す。
一つ目が、倒れた麻衣を捉えていた。
肺の中の空気は一気に押し出され、上手く呼吸ができない。
無理に息を吸おうとした瞬間、喉の奥から鉄の味が込み上げた。
腕にも脚にも力が入らず、身体を動かそうとするだけで鋭い痛みが走る。
左腕が動かないし、胸が痛い。
……折れた。
息を吸うたび、胸の奥で何かが軋んだ。
服は裂け、床へ流れた血が砕けたガラス片の間をゆっくりと広がっていった。
視界は揺れ、耳鳴りも酷い。
展示室に響いているはずの悲鳴や怒号もどこか遠く聞こえ、このまま意識が沈んでいきそうになる。
「麻衣っ!!」
聞き慣れた声が耳に届く。
麻衣は重い瞼を無理やり持ち上げた。
霞む視界の中、それでも首をわずかに動かして壊れた展示ケースの向こうを見る。
美咲がいた。
床へ手をつきながら立ち上がろうとしている。
顔は青ざめていたが、あの一撃は届いていない。
それを確認した瞬間、喉の奥から安堵の息が漏れた。
――よかった。
美咲が、無事でよかった。
そう思った直後、全身へ押し寄せてきた激痛に思わず顔が歪む。
胸の奥は焼けるように痛み、身体をわずかに動かしただけで骨の軋む感触が伝わってきた。
普通の人間なら、そのまま動けなくなっていてもおかしくない傷だった。
――でも、終われない。
サイクロプス亜種はまだそこにいる。
展示室の中には逃げ遅れた人たちもいる。
耳鳴りの向こうから聞こえる悲鳴が、その事実を嫌でも思い出させた。
霞む視界の中で、麻衣は震える右手を持ち上げる。
指先が思うように動かない。
血に濡れた手を折れた肋骨のあたりへ押し当てる。
浅く息を吸おうとするが、胸の痛みで呼吸が続かない。
意識が沈みかける。
このまま力を抜けば、終わる。
それでも、無理やり繋ぎ止めるように力を込めた。
「……使い……たく……なかった……のに……」
指先は、もう止まらなかった。




