第1話 日常。そして違和感
「死ぬかと思った」
そう思ったのは、ついさっきのことだ。
振り下ろされた拳を、まともに受けた。
骨が砕けたと思った。
その瞬間、本気で死を覚悟した。
――だから、仕方なく使った。
できれば一生使いたくなかった力を。
その数時間前。
高校二年生の加山麻衣は、駅前のバスロータリーにある丸いベンチに座り、何度か右目をこすりながらスマホを眺めていた。
小さくため息を吐き、画面に表示された時刻を確認する。
待ち合わせ時間まではあと三分。
グループチャットには、こちらへ向かっている美咲、奈緒、優香の順に通知が並んでいる。
『あと三分』
『あと二分』
『あと一分』
『実況やめろ!』
そう返した直後だった。
『いた』
『いた』
『いた』
続けて、美咲からもう一件。
『囲め』
「何でだよ」
思わず声に出しながら振り返る。
すると、見慣れた三人組が笑いながらこちらへ歩いてくるのが見えた。
「麻衣、また早いね!」
先頭を歩いていた美咲が笑顔で声を掛ける。
「遅刻してないだけ褒めて」
「面白くない」
奈緒が即座に返す。
「理不尽」
麻衣は肩をすくめた。
そう言いながら並んだところで、美咲がふと麻衣の顔を覗き込む。
「昨日寝てない?」
「寝たけど」
「嘘」
即答され、麻衣は思わず眉をひそめた。
こういうことに関して、美咲はやけに鋭い。
「何で?」
「だって、目の下のクマ」
「……観察眼が怖い」
「あと、さっきも右目こすってたし」
「……してた?」
「うん。してた」
「……よく見てたな」
「麻衣、寝不足の時だけそれやるじゃん。付き合い長いからわかるよ。ちゃんと寝なよ」
美咲は呆れたように小さく息を吐いた。
麻衣は視線を逸らした。
「……寝たってば」
「今の間が怪しい」
「何で」
「寝不足でしょ!」
「尋問か!」
二人のやり取りを見て、奈緒が呆れたようにため息を吐く。
「また朝から始まった」
「いつものことだね。これで普段はクールビューティーなんだから、分からないよね?」
優香が苦笑しながら続けた。
「うっさい!」
そんな他愛もないやり取りをしながら、四人は駅前の通りを歩いていく。
今日の目的地は、新しくオープンした大型博物館で開催されている古代文明特別展だった。
言い出したのは美咲で、三日前から「絶対面白いから!」と熱弁しており、気付けば全員参加になっていた。
もっとも、麻衣自身はそこまで興味があったわけではなく、誘われたから来ただけである。
「そういえば昼どうする? 先に食べる?」
歩きながら美咲が振り返る。
「展示見てからでよくない?」
優香が首を傾げる。
「絶対混む」
奈緒は自信満々に言った。
「根拠は?」
「勘」
「信用できない」
「ひどい」
三人の会話は歩きながらも途切れない。
駅前の人通りは多く、休日らしい賑わいを見せていた。
家族連れや買い物客が行き交い、飲食店の前には順番待ちの列もでき始めている。
「どっちでも」
麻衣が適当に答える。
すると三人が同時に振り返った。
「それ禁止」
真っ先に口を開いたのは美咲だった。
「何で?」
「丸投げだから」
奈緒も呆れたように肩をすくめる。
「責任を放棄するな!」
優香も笑いながら続けた。
「多数決に参加しろ!」
「面倒」
「出た!」
結局、先に昼食を取ることになった。
商業施設のフードコートは予想通り混雑していたが、運良く四人分の席を見つけることができた。
麻衣は空いている席を見るなり自然と壁際の席へ向かう。
「また端っこ」
美咲が苦笑する。
「落ち着くから」
「麻衣って、入口とか通路が見える端の席を選ぶよね?」
「……そこまで見てたの?」
「麻衣、昔からそういう席しか選ばないもん」
「……よく見てるな」
「今さら?」
麻衣は小さく肩をすくめる。
人の出入りが見える。
周囲の様子も自然と視界へ入る。
――それだけで落ち着く。
理由を説明するほどのことでもない。
ただ、昔からそういう場所を選ぶ癖がついていただけだった。
席に座り、それぞれ注文した料理を食べ始める。
休日のフードコートは思った以上に賑わっていた。
周囲から聞こえてくる話し声や食器の触れ合う音が絶えず、空席を探して歩く人の姿も目立つ。
「そういえば進路どうするの?」
ハンバーガーを頬張りながら、美咲がふと思い出したように聞いた。
「まだ決めてない」
麻衣はポテトをつまみながら答える。
「もう二年生の夏前だよ?」
「知ってる」
「危機感なくない?」
「人のこと言えるの?」
麻衣が視線だけで返す。
「私はあるし」
「先週と違うこと言ってる」
奈緒がすかさず突っ込む。
「細かいことは気にしない」
「細かくない」
その様子に、優香が苦笑した。
「結局、美咲は何になりたいの?」
優香がストローをくわえながら問いかける。
「まだ考え中」
「ほら」
奈緒が即座に返す。
「でも候補はあるから」
「ちなみに何?」
優香が興味ありげに身を乗り出す。
「水族館の飼育員」
「急だな」
奈緒が眉をひそめる。
「イルカ可愛いじゃん!」
美咲は真顔で言い切った。
「理由が小学生」
「夢に年齢制限はありません」
美咲が胸を張ると、その様子に三人が笑った。
「麻衣って何でもできそうなのに、全然前に出ないよね」
笑いが落ち着いたところで、美咲がふと思いついたように言う。
「面倒だから」
麻衣は即答した。
「絶対それだけじゃない」
「それだけ」
「嘘」
美咲はじっと麻衣を見る。
「何で?」
「勘」
「信用できない!」
麻衣が間髪入れずに言い返すと、その勢いに優香が吹き出した。
「でも本当だよね」
優香が笑いをこらえながら続ける。
「なんのこと?」
麻衣はポテトを口に運びながら聞き返す。
「テストも上位だし、運動もできるし。なのに委員長とか絶対やらない」
奈緒が指を折りながら言う。
「わざわざ前に出る理由がないから」
麻衣は答えた。
「文化祭の実行委員も断ってたよね」
優香が思い出したように言う。
「去年も断ってた」
奈緒が続ける。
「中学の時も断ってた」
美咲まで乗ってきた。
「よく覚えてるな」
麻衣は少しだけ呆れたように言う。
「だって毎回同じだから」
美咲が肩をすくめた。
「目立つの嫌いなの?」
優香が少しだけ首を傾げながら聞く。
麻衣は一瞬だけ考える素振りを見せた。
「嫌いっていうか……面倒」
「結局そこなんだ」
奈緒が呆れたように言う。
「そういうこと」
「本当かなぁ?!」
美咲は納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
話題はそのまま文化祭へ移り、クラスの出し物や準備の話で盛り上がる。
「ああ、まだ揉めてるよね」
奈緒がため息混じりに言う。
「何やるかまだ決まってないんだっけ?」
優香が聞き返す。
「決まってない」
「毎年揉めてるよね」
美咲が苦笑する。
「去年もギリギリだったし」
少し間が空く。
「……メイド喫茶でよくない?」
ぽつりと美咲が言う。
「またそれか」
奈緒が即座にツッコむ。
「だって絶対盛り上がるじゃん!」
「それ毎年言ってる」
優香も呆れたように言う。
「いいからメイド喫茶に一票入れてよ!」
美咲が身を乗り出す。
「そうすれば決まるから!!」
「雑すぎるだろ」
奈緒が即ツッコミを入れる。
「多数決ってそういうものでしょ!?」
「違うと思う」
優香が冷静に返す。
「麻衣は?」
話を振られた麻衣は顔も上げずに答える。
「文化祭?」
「そう」
「メイド喫茶でいいよ。普通に終わればいいし」
「やる気なさすぎる……」
奈緒が呆れた声を出す。
「ほら! 二票!」
美咲が即座に食いつく。
「決まりじゃん!」
「いやまだクラス全体の話だろ」
「細かいこと気にしない!」
「一番ダメなやつだ」
優香がため息をつく。
「麻衣って本当に面倒が口癖だよね」
「実際面倒だし」
「でも頼まれたら結局やるじゃん」
美咲が少しだけ真面目な声で言う。
その言葉に麻衣は少しだけ言葉を詰まらせる。
「それは……」
「ほら」
美咲がにやりと笑う。
「断るの下手だもんね」
優香が優しくフォローするように言う。
「自覚はある」
「あるんだ!」
奈緒が驚いたように言うと、また笑いが起きた。
その後も、もうじき行く修学旅行の話や夏休みの予定、最近見た動画の話など、取り留めのない会話が続く。
ただ友人同士で集まり、馬鹿な話をしながら食事をしているだけだ。
ふと麻衣の視線が止まる。
向かい側では三人が相変わらず騒いでいた。
美咲は身振り手振りを交えながら何かを熱弁し、奈緒が呆れた顔で突っ込み、優香が苦笑しながらそれを見ている。
何気ない光景だった。
けれど、その様子を見ていると胸の奥が少しだけ温かくなる。
こんな時間は嫌いではない。
むしろ好きだった。
何も起こらない。
友達と笑って、ご飯を食べて、他愛もない話をする。
そんな当たり前の日常が、麻衣にとってはいちばん大切だった。
「どうした?」
美咲が不思議そうに麻衣の顔を覗き込む。
「なんでもない」
「またそれ」
美咲がすぐに言う。
「どこが?」
麻衣は平然と返す。
「たまに遠く見るやつ」
美咲はそう言って軽く指を向けた。
「知らない」
「嘘」
奈緒が苦笑し、優香も小さく笑う。
「美咲、そういうところ本当によく見てるよね」
優香が感心したように言う。
「幼馴染だからね」
美咲は少しだけ得意げに言った。
「……気のせいだよ」
麻衣は肩をすくめ、小さく息を吐く。
昼食を終えた四人は、そのまま博物館へ向かった。
館内は想像以上に広く、多くの来館者で賑わっている。
奈緒は展示解説を読み込み、優香は音声ガイドを借り、美咲は気になった展示へ次々と足を向けていた。
麻衣は三人の少し後ろを歩きながら、展示を眺めていた。
ふと、胸の奥がわずかにざわつく。
ほんの一瞬、首筋を冷たいものが撫でた。
だが振り返っても、見えるのは展示を楽しむ来館者ばかりだった。
「……気のせいか」
麻衣は小さく息を吐き、再び三人のあとを追った。
「ねえ麻衣、この壺いくらだと思う?」
美咲が振り返る。
「五百円」
「国宝だよ!?」
「高っ!!」
「感想そこなの!?」
周囲の視線が集まる。
「しー。声大きい」
奈緒が小声で制止する。
「誰のせいだと思ってるの」
優香が呆れたように言った。
そんなやり取りをしながら展示を見て回る。
さらに奥へ進むと、剣や鎧が並ぶ展示コーナーがあった。
「これ、本当に使えたのかな」
優香がガラスケースの中を覗き込む。
「振りにくいと思う」
麻衣が何気なく答える。
「分かるの?」
奈緒が顔を上げた。
「重心が前過ぎる」
一瞬、三人の動きが止まる。
「重心?」
「……なんとなく」
麻衣はすぐに言い直す。
「またそれ」
美咲がじっと見る。
「何が」
「麻衣、なんとなくって言う時ほど、絶対なんとなくじゃない」
その言葉に、奈緒と優香も麻衣へ視線を向ける。
「何?」
「いや、何で分かるのかなって」
「なんとなくだって」
「前から思ってたけど、麻衣ってたまに変なこと言うよね」
「失礼な!」
そう言い返した麻衣だったが、歩き出しかけたところでふと足を止めた。
空気が変わった。
さっきまで賑やかだった展示室が、急に遠く感じる。
「どうしたの?」
振り返った美咲が不思議そうに尋ねる。
「……いや、何でもない」
麻衣は小さく首を振り、三人と一緒に次の展示室へ向かった。
そして特別展示室へ足を踏み入れた瞬間だった。
麻衣の足が止まる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
展示室の中央には、黒い結晶が置かれていた。
その横の説明文には、『用途不明の鉱石』と書かれていた。
それを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
見覚えがあった。
あり得ない。
忘れられるはずのないものが、こんな場所にあるはずがない。
麻衣は黒い結晶を見つめたまま、視線を逸らせなかった。
「どうしたの?」
美咲が不思議そうに声を掛ける。
「……出よう」
その声は、自分でも驚くほど硬かった。
美咲の表情から笑みが消える。




