第30話 千の観音が見つめる堂
車内には「お腹空いた」という声があちこちから聞こえ始め、午前中の見学を終えた安心感からか、どこか和やかな空気が流れていた。
「もう限界」
優香が小さく笑う。
「朝ご飯食べたのに」
「歩きっぱなしだったからね」
麻衣も笑う。
「私も結構お腹空いた」
「あと少しでお昼だから我慢」
奈緒がそう言うと、美咲も苦笑しながら頷いた。
十分ほど走ると、バスは京料理「桜ごころ」の駐車場へゆっくりと入っていった。
落ち着いた数寄屋風の建物の前には、すでに数台の観光バスが並び、多くの修学旅行生が順番に館内へ入っている。
「ここがお昼の場所なんだ」
優香が窓の外を見ながら嬉しそうに言う。
「京都らしい建物だね」
麻衣も木造の落ち着いた外観を眺め、小さく頷いた。
「旅館みたい」
「こういうところで食べると旅行って感じがする」
美咲も笑顔を浮かべる。
先生の案内でバスを降りると、四人は班ごとに館内へ入っていった。
玄関をくぐると、木の香りがふわりと漂う。
広い和室には低い机が整然と並べられ、班ごとに席札が置かれていた。
「加山班、こちらです」
係の人に案内され、四人は席へ着く。
机の上にはすでに料理が並べられていた。
湯葉や炊き合わせ、小鉢、焼き魚、天ぷら、茶碗蒸し、ご飯、味噌汁、香の物、そして食後の甘味まで、美しく盛り付けられている。
「すごい……」
優香の目が輝く。
「どれから食べよう」
「まだ『いただきます』してないよ」
奈緒が笑う。
「あ、そうだった」
優香は慌てて箸を置き直した。
やがて全員が席へ着くと、先生が前へ立つ。
「午前中の見学、お疲れさまでした。午後も見学があります。しっかり食べて、午後も元気に行動しましょう。それでは、いただきます」
「「「「いただきます」」」」
四人は声をそろえると、箸を手に取った。
最初に湯葉を口へ運んだ優香が、思わず笑顔になる。
「おいしい! ふわふわしてる」
「私も食べてみよう」
麻衣も一口味わう。
大豆の優しい甘みが口の中へ広がり、ほっとするような味わいだった。
「朝から結構歩いたから余計においしいね」
「確かに」
美咲も頷く。
「見た目は上品だけど、ちゃんと食べ応えある」
奈緒は炊き合わせを口へ運びながら笑う。
「味付けも濃すぎなくて食べやすい」
「京料理ってこんな感じなんだ」
優香は次々と料理へ箸を伸ばしていく。
「天ぷらもおいしい。ちゃんと野菜の味がする」
「優香、今日は食レポ担当?」
麻衣が笑う。
「おいしいものは、おいしいって言いたくなるじゃん」
「それは分かる」
四人は顔を見合わせて笑った。
食事が進むにつれ、話題は自然と午前中の見学へ移っていく。
「私は鶯張りが一番印象に残ったな」
美咲がお茶を飲みながら言う。
「私も。本当に鳥みたいな音だった」
優香が大きく頷く。
「麻衣は?」
「唐門かな。近くで見ると、彫刻が一つずつ違ってたから」
「私は庭園」
奈緒が答える。
「みんな印象に残った場所が違うんだね」
「だから一緒に回ると面白いのかも」
食後には温かいお茶と甘味が運ばれてきた。
「甘いものは別腹」
優香が嬉しそうにわらび餅を口へ運ぶ。
「さっきお腹いっぱいって言ってなかった?」
奈緒が笑う。
「別腹だから」
「便利な言葉だね」
麻衣も思わず笑みをこぼした。
食事を終えた四人は、手を合わせる。
「「「「ごちそうさまでした」」」」
館内には他校の修学旅行生たちの楽しそうな話し声が響き、京都での昼食を楽しむ穏やかな時間が流れていた。
やがて先生から集合の合図が掛かる。
四人は席を立ち、玄関へ向かった。
外へ出ると、初夏の青空は変わらず高く広がっている。
午後最初の見学地、三十三間堂へ向けて、バスは再び静かに走り始めた。
京料理「桜ごころ」を出発したバスは、市街地を南東へ向かって走っていた。
昼食を終えた車内には、午前中よりも少しだけ落ち着いた空気が流れている。
窓の外では京都の街並みがゆっくりと流れ、交差点では観光客が地図を片手に行き交っていた。
「お腹いっぱい……」
優香が座席へ体を預けながら小さく息をつく。
「さっきまで元気だったのに」
奈緒が苦笑する。
「ご飯を食べたら一気に眠くなった」
「分かるかも」
麻衣も笑った。
「バスって揺れが心地いいんだよね」
「寝過ごさないでよ?」
美咲が振り返る。
「次は三十三間堂だからね」
「大丈夫、大丈夫」
優香はそう答えながらも、小さくあくびをこぼした。
しばらくしてバスは速度を落とし、大きな駐車場へ入る。
窓の向こうには長く伸びる瓦屋根の建物が姿を現した。
「着いたぞ」
先生がマイクを手に取る。
「次は三十三間堂を見学します。国宝が数多く安置されている場所です。館内は撮影禁止ですので、ルールを守って見学してください」
「「「「はい」」」」
生徒たちは荷物を確認しながら、順番にバスを降りていく。
麻衣たちも列に続き、初夏の陽射しの下へ足を踏み出した。
目の前には、どこまでも続いているように見える細長い本堂が建っている。
派手な装飾はないが、その長さだけで圧倒されるような存在感があった。
「長い……」
優香が思わず声を漏らした。
「本当に横へ長いんだ」
「三十三間って、この長さのことなんだね」
美咲が建物全体を見渡す。
「柱と柱の間が三十三あるから、その名前になったって先生が言ってたよ」
奈緒が思い出したように答える。
「写真では見たことあったけど、実際に見ると想像以上だね」
麻衣もゆっくりと本堂を見上げた。
「派手さはないけど、静かに横へ伸びる姿には、ほかの寺院とは違う存在感があるね」
四人は本堂へ向かって歩き始めた。
境内には木々の葉擦れと、遠くから聞こえる鳥の声だけが響いている。
これまで巡ってきた寺院とも城とも異なる、張り詰めたような空気が四人を包み込んでいった。
本堂の入口で靴を脱ぎ、四人は静かに中へ入った。
館内は外よりもひんやりとしており、長い年月を重ねた木の香りがほのかに漂っている。
歩くたびに床板がわずかに軋み、その音が堂内へ溶け込んでいった。
やがて、視線の先に金色の光が広がる。
「……すごい」
優香が思わず息をのんだ。
堂内いっぱいに、千体の千手観音立像が整然と並んでいた。
その中央には千手観音坐像が鎮座し、幾重にも連なる黄金色の姿が言葉では表せないほどの迫力を生み出している。
麻衣も自然と足を止めた。
観音像がどこまでも続いているように見え、一瞬だけ距離の感覚が曖昧になる。
「写真じゃ伝わらないね。この広さも、この数も」
美咲が小さく呟く。
「本当に千体あるんだ……」
優香は目を丸くしたまま、左右を見渡した。
「同じに見えるのに、一体ずつ表情が違う気がする」
奈緒も立ち止まり、近くの観音像へ目を向ける。
「実際に違うらしいよ。それぞれ少しずつ表情や手の形が違うんだって」
「そんな細かいところまで作ってあるんだ」
麻衣は一体ずつ見比べるように歩き始めた。
柔らかな表情を浮かべているものもあれば、どこか厳しさを感じさせるものや、穏やかに微笑んでいるように見えるものもある。
四人は自然と歩く速度を落とし、それぞれ気になった観音像へ視線を向けていた。
堂内にはほかの見学者もいたが、誰もが目の前の光景へ見入り、話し声はほとんど聞こえない。
「空気まで違うね」
麻衣が小さく呟く。
「うん。お寺っていうより、特別な場所に来た感じがする」
美咲の言葉に、奈緒と優香も黙って頷いた。
順路に沿って進むにつれ、最初は同じように見えていた観音像が、それぞれ異なる表情を持っているように感じられてくる。
四人は誰も急ごうとせず、静かな堂内を歩きながら、その光景を目に焼き付けていった。
「作られた時代や仏師も違うみたいだから、一体ずつ少しずつ違うんだろうね」
奈緒が静かに言う。
「だから、見ていても飽きないんだね」
優香も観音像へ目を向けたまま答えた。
やがて堂内を一周し終え、出口が近づいてくる。
外から差し込む陽射しが少しずつ強くなり、四人は名残惜しそうに最後の観音像へ視線を向けた。
「すごかったね」
優香が小さく息を吐く。
「今まで見たお寺と全然違った」
「うん」
麻衣も頷いた。
「派手じゃないのに、一番印象に残るかもしれない」
「静かなのに、迫力があったね」
美咲が微笑む。
四人は靴を履き、本堂の外へ出る。
初夏の陽射しは相変わらず穏やかで、境内には木々を揺らす風が吹き抜けていた。
少し離れた場所では、別の学校の生徒たちが先生の説明を聞いている。
「そろそろ集合だね」
美咲が腕時計を確認する。
「あと五分くらい」
「じゃあ間に合うね」
優香が安心したように笑う。
四人は歩調を合わせ、集合場所へ向かって歩き始めた。
すでに多くの生徒が集まり始めており、先生が名簿を確認している。
全員がそろったことを確認すると、先生が生徒たちを見回す。
「これで午後前半の見学は終了だ。このあとは清水寺へ向かう。京都を代表する景色が見られる場所だからな。引き続き班ごとに行動するように」
「「「「はい!」」」」
四人は再びバスへ乗り込み、それぞれの席へ腰を下ろした。
窓の外では京都の街並みがゆっくりと流れ始める。
次に待つ清水寺、そして産寧坂、二年坂、八坂神社での自由行動へ思いを巡らせながら、バスは静かに走り出した。
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