第29話 二条城、将軍の城
仁和寺を出発したバスは、市街地を抜けながら次の目的地である二条城へ向かっていた。
窓の外には町家風の建物と近代的なビルが並び、古い町並みと現代の暮らしが違和感なく溶け合っている。
交差点では観光バスや路線バスが行き交い、歩道には制服姿の修学旅行生や海外からの観光客の姿も目立っていた。
「次はいよいよ二条城だね」
優香が行程表を見ながら嬉しそうに言う。
「午前中はお寺が続いたから、お城って聞くだけでちょっと新鮮」
「確かに」
麻衣も窓の外へ目を向ける。
「京都ってお寺のイメージが強いけど、お城はまた雰囲気が違いそう」
「歴史で習ったよね」
美咲が思い出すように口を開く。
「徳川家康とか、大政奉還とか」
「うん」
奈緒も頷いた。
「最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還を表明した場所が二条城だったはず」
「教科書では見たけど、実際に来るのは初めて」
麻衣は小さく笑う。
「本物を見ると印象も変わりそう」
話をしているうちに、バスはゆっくりと速度を落とし始めた。
窓の向こうには幅の広い堀が姿を現し、その内側には高く積み上げられた石垣が長く続いている。
さらに奥には堂々とした東大手門が構え、その威厳ある姿が訪れる人々を静かに迎えていた。
「大きい……」
優香が思わず窓へ身を寄せる。
「石垣だけでも迫力あるね」
麻衣も静かに見つめた。
「守るためのお城なんだって伝わってくる」
バスは駐車場へ入り、静かに停車した。
先生が立ち上がり、生徒たちへ声を掛ける。
「これから二条城を見学します。見学後は昼食会場へ向かいます。集合時間を確認して、班ごとに行動してください」
「「「「はい!」」」」
四人は列に続いてバスを降りた。
初夏の陽射しが石畳を照らし、堀の水面では風に揺られた光がきらきらと輝いている。
石垣の上には松が美しく枝を広げ、城らしい落ち着いた景色が広がっていた。
「近くで見ると、本当に大きいね」
優香は東大手門を見上げる。
「木だけでできてるとは思えない」
「何百年も残ってるんだからすごいよね」
美咲も太い柱へ視線を向けた。
「こういう建物を守り続けてきた人たちもすごいなぁ」
門をくぐると、広々とした城内が目の前へ広がる。
整えられた松並木の向こうには豪華な唐門が建ち、その姿は陽射しを受けてひときわ華やかに見えた。
屋根の下には細かな彫刻が幾重にも重なり、金箔で彩られた装飾が柔らかな光を反射している。
「すごい……」
優香は思わず立ち止まった。
「これ全部彫ってあるの?」
麻衣もゆっくりと近づく。
鶴や松、花々をかたどった彫刻は隙間なく並び、一つひとつ表情が異なっていた。
「写真で見るより豪華だね」
美咲が見上げる。
「お寺とは雰囲気が全然違う」
奈緒が周囲を見渡した。
「将軍のお城だからね」
「これ見たら、昔の人も圧倒されるよね」
「なるほど」
優香が大きく頷く。
「昔の人も第一印象を大事にしてたんだ」
「今も同じかも」
麻衣が笑うと、四人も自然と笑顔になった。
唐門の前では、多くの観光客や修学旅行生が足を止め、思い思いに写真を撮っている。
鮮やかな装飾を背景に笑顔を向ける人もいれば、彫刻へカメラを近づけ、一つひとつ丁寧に撮影している人の姿もあった。
「ここでも一枚撮ろうよ」
優香がスマートフォンを取り出した。
「さっき仁和寺でも撮ったけど?」
「場所が違えば別!」
奈緒が苦笑すると、美咲も笑った。
「でも、せっかくだし撮ろうか」
麻衣がそう言うと、三人も頷いた。
優香は近くにいた同じ学校の男子生徒へ声を掛け、唐門を背景に四人の写真を撮ってもらった。
「いい感じ!」
「今回は誰も目を閉じてない?」
「大丈夫。全員ちゃんと笑ってる!」
優香がスマートフォンの画面を見せると、四人は顔を寄せて写真を確認した。
「これは当たりだね」
麻衣も画面をのぞき込みながら微笑む。
「あとでみんなにも送るね」
優香は嬉しそうにスマートフォンをしまった。
四人は改めて唐門を見上げ、見る角度によって次々と現れる新しい彫刻を眺める。
やがて係員の案内が始まり、四人は二の丸御殿の入口へ向かって歩き出した。
二の丸御殿の入口では、係員が見学時の注意事項を説明していた。
「館内は撮影禁止です。順路に沿ってお進みください」
先生も生徒たちへ向き直る。
「館内では私語は控えめにな。建物や障壁画には触れないように。見学が終わったら出口前で集合すること」
「「「「はい」」」」
四人は静かに御殿の中へ入った。
一歩足を踏み入れた瞬間、外とは違うひんやりとした空気が肌を包む。
磨き込まれた廊下には長い年月を重ねた木の艶が残り、障子越しに差し込む柔らかな光が床へ細長い影を落としていた。
「空気まで違うね」
優香が自然と声を潜める。
「外はあんなに賑やかだったのに」
麻衣も静かに頷いた。
「建物の中だけ時間の流れがゆっくりになったみたい」
廊下の両側には豪華な障壁画が並び、松や虎、鷹、四季折々の花々が金地を背景に鮮やかに描かれている。
部屋ごとに題材は異なり、歩みを進めるたびに金色を基調とした景色が変わっていった。
「きれい……」
美咲は思わず足を止めそうになる。
「絵なのに立体感がある」
麻衣も目を細めた。
「近くで見ると筆の勢いまで伝わってくるね」
「本当に人が描いたんだなって感じがする」
奈緒もゆっくり頷く。
「教科書で見るのとは全然違うね」
順路に従って歩いていると、足元からキュッと小さく澄んだ音が響いた。
「鳴った」
優香がぴたりと止まり、もう一歩踏み出す。
今度は先ほどとは少し違う高さの音が返ってきた。
「本当に鳴く!」
思わず声が弾み、近くを歩いていた生徒たちもつられて笑顔になる。
「優香、静かに」
美咲が笑いながら小声で言う。
「あ、ごめん」
優香は慌てて口元を押さえた。
その様子を見た先生が苦笑する。
「鶯張りは逃げないから、落ち着いて歩け」
周囲から小さな笑いが起こった。
「はい」
優香は照れ笑いを浮かべる。
麻衣もゆっくりと、一歩、もう一歩と廊下を進んでみた。
足を下ろすたびに鳥の声を思わせる澄んだ音が響き、麻衣は小さく笑う。
「本当に鳥みたい」
「歩く場所で音が少し変わる」
美咲も何歩か歩いてみる。
「面白いね」
奈緒が足元を見ながら言う。
「歩くたびに音が鳴るから、人の気配には気づきやすかったんだろうね。床板を支える金具が擦れて、鳥の声みたいな音が出るらしい」
「そんな仕組みになってるんだ」
優香は感心したように廊下を見つめた。
そのあとも四人は静かに順路を進んでいく。
部屋が変わるたびに障壁画の題材も移り変わり、松林や虎、鷹、花々がそれぞれ異なる表情を見せていた。
豪華でありながら落ち着いた空気は、御殿全体をゆったりと包み込んでいる。
やがて四人は大広間へ入った。
一気に視界が開け、広々とした畳敷きの空間が目の前へ広がる。
奥には将軍が座ったとされる上段の間が設けられ、部屋を囲む障壁画が見る者へ静かな威厳を伝えていた。
「ここが将軍のいた場所なんだ」
優香は思わず背筋を伸ばす。
「入っただけで緊張する」
「部屋そのものに威圧感があるね」
美咲も小さく頷く。
「将軍の力を見せる場所だったんだろうね。部屋の広さも、絵も、全部そのために造られたんだと思う」
奈緒が静かに言う。
四人は言葉少なに歩きながら、それぞれの部屋を見比べていく。
豪華な部屋もあれば、落ち着いた松林が描かれた部屋もあり、同じ御殿の中でも異なる役割があったことが自然と伝わってきた。
歴史の授業で学んだ出来事が、目の前の建物と重なっていく。
教科書で見た景色を自分たちは今歩いているという実感が、麻衣の胸へ静かに残っていた。
やがて四人は、ゆっくりと二の丸御殿の出口へ向かった。
二の丸御殿を出ると、外の明るい陽射しが四人を迎えた。
ひんやりとした御殿の空気から一転し、初夏の風が心地よく頬をなでていく。
目の前には二の丸庭園が広がり、大きな池を中心に松や石組が美しく配置されていた。
「きれい……」
優香が思わず足を止める。
「さっきまで建物の中にいたから、余計に広く感じる」
池の水面には青空と白い雲が映り込み、吹き抜ける風が小さな波紋を広げていた。
手入れの行き届いた松や石組が池の周囲へ配され、庭全体が一枚の絵のように調和している。
「建物の中から見た景色と、歩きながら見る景色って全然違うね」
麻衣が池の向こうを眺めながら呟く。
「座敷からは一枚の絵みたいだったけど、外へ出ると景色の中を歩いてる感じがする」
「そういうふうに考えて造られてるのかもね」
美咲もゆっくりと辺りを見渡した。
「歩く人の目線まで計算されてそう」
四人は園路を歩きながら、気になった場所で自然と足を止めていく。
枝ぶりの見事な松や池へ映る石橋、絶妙な間隔で配置された石組が、歩くたびに異なる表情を見せていた。
どこを切り取っても、一枚の風景画のようだった。
麻衣は池のほとりまで歩き、水面をのぞき込む。
風が吹くたびに景色がゆらりと揺れ、さっきまで映っていた松の姿が少しずつ形を変えていく。
「写真もいいけど」
美咲が微笑む。
「こういう景色は、その場で見る方がきれいだね」
「うん」
麻衣も静かに頷いた。
「見れば見るほど不思議」
優香が石組を見つめる。
「自然に見えるのに、人が造った庭なんだよね」
「自然っぽく見せるのが技術なんじゃないかな」
麻衣が微笑む。
「だから何百年経っても飽きないのかも」
少し歩くと、石垣の上へ続く階段が見えてきた。
「あれって天守台?」
優香が指差す。
「うん」
奈緒が頷く。
「昔は天守が建ってた場所」
「今はないんだ」
「落雷で焼けたあと、再建されなかったんだって」
「もったいないね」
優香は少し残念そうな表情を浮かべた。
「でも、登ると景色は良さそう」
「せっかくだし行ってみよう」
麻衣の一言で、四人は階段を上り始めた。
石段を一段ずつ踏みしめ、最後の段を上がると、一気に視界が開けた。
二条城の屋根が眼下に広がり、その先には京都の街並みがどこまでも続いている。
遠くには山並みが街を囲み、京都が盆地であることを実感させる景色が広がっていた。
「わぁ……」
優香が思わず息をのむ。
「高い建物が少ないから遠くまで見えるね」
美咲も目を細める。
「京都らしい景色だなぁ」
「昔のお殿様もここから見てたのかな」
優香が街並みを見渡す。
「同じ場所でも、見えていた景色は今とは少し違ったんだろうね。でも、山の形は昔も今も変わらないんだろうな」
麻衣はゆっくりと街並みへ視線を向けた。
「また来たいね」
優香がぽつりと言う。
「今度は家族と来るのもいいかも」
美咲が笑う。
「季節が違えば景色も変わるんだろうね」
麻衣はもう一度京都の街並みを眺めた。
「秋もきれいそう」
奈緒も頷いた。
しばらく四人は言葉を交わすことなく景色を眺め続けた。
穏やかな風だけが吹き抜け、修学旅行生たちの楽しそうな声が遠くから聞こえてくる。
歴史ある城の上で過ごす静かな時間は、四人の心へゆっくりと刻まれていった。
やがて美咲が腕時計へ目を落とした。
「そろそろ集合時間だよ」
「本当だ」
優香が名残惜しそうに頷く。
「最後に景色だけ一枚」
スマートフォンで京都の街並みを撮影すると、満足そうに笑った。
「これで二条城は満喫した!」
四人は天守台をあとにし、集合場所へ向かって歩き始めた。
集合場所にはすでに多くの生徒が集まり始めており、先生が人数を確認している。
全員がそろったことを確認すると、先生は穏やかな声で告げた。
「それでは昼食会場へ向かいます」
生徒たちは再びバスへ乗り込み、それぞれの席へ着いた。
午前中の見学を終えた充実感と、お昼への期待を乗せながら、バスは京料理「桜ごころ」へ向けて静かに走り始めた。




