第26話 京都の夜、静かな前兆
ホテルへ戻る道中。
午後五時を過ぎた京都にはまだ初夏の明るさが残り、西へ傾き始めた日差しが町並みを淡い橙色に染めていた。
鴨川からホテル杉総へ向かう道を、麻衣と美咲は並んで歩く。
鴨川を離れてからもしばらくは、どちらも口を開かなかった。
夕方の風が二人の間を静かに吹き抜け、歩道を進む足音だけが規則正しく響いている。
すれ違う観光客の楽しそうな話し声や、軒先から漏れる明かりが、京都の夕方らしい穏やかな空気をつくっていた。
やがて、美咲がぽつりと口を開く。
「麻衣。あの二人知り合い?」
麻衣は少しも間を置かずに答えた。
「初対面。」
美咲は隣を歩く麻衣の横顔へそっと視線を向ける。
(嘘。)
そう思った。
あの二人と向き合っていた麻衣は、とても初対面の相手と話しているようには見えなかった。
それでも、美咲は何も聞かなかった。
麻衣が話さないと決めたことを、無理に聞き出すつもりはなかったからだ。
「そっか。」
それだけ答えると、美咲は前を向く。
二人は肩を並べたまま歩き続ける。
軒先には明かりが一つ、また一つと灯り始め、西日が長い影を落とす京都の街を抜けて、ホテル杉総へ向かった。
ホテル杉総へ戻ると、麻衣と美咲は部屋へ向かった。
部屋の扉を開けると、一足先に戻っていた奈緒と優香が顔を上げる。
「おかえり」
「ただいま」
美咲が笑顔で返事をすると、優香が身を乗り出した。
「鴨川どうだった?」
「風が気持ちよかったよ。夕方は涼しくて、歩いてるだけでも気持ちよかった」
美咲が答えると、麻衣も小さく頷いた。
「人も少し落ち着いてたしね」
「いいなあ。今度みんなでも歩いてみたいな」
「また京都へ来る機会があったらね」
麻衣がそう返すと、優香も嬉しそうに頷く。
しばらく部屋で休んでいると、館内放送が流れ、夕食の時間を知らせる案内が館内へ響いた。
「もう夕食だね」
「おなか空いた!」
優香が立ち上がり、四人はそろって一階の「松の間」へ向かった。
松の間には修学旅行生が次々と集まり、あちこちで笑い声が上がっていた。
四人が席へ着くと、目の前には京都らしい料理が並んでいる。
湯豆腐を中心に、京湯葉、生麩田楽、京野菜の炊き合わせ、京漬物などが彩りよく並び、湯気とともに出汁の香りがふわりと漂ってきた。
「いただきます」
四人は手を合わせ、箸を取る。
最初に湯豆腐を口へ運んだ優香が、ほっと表情を緩めた。
「これ、おいしい」
「出汁がいいね」
奈緒も頷く。
美咲は湯葉を箸で持ち上げる。
「これが湯葉かぁ。初めて食べる」
「京都まで来たって感じするね」
麻衣も一口味わいながら笑った。
しばらく料理を楽しんでいると、優香が思い出したように口を開く。
「明日って最初は金閣寺だったよね?」
「うん」
奈緒が頷く。
「そのあと、どっかよってから、二条城と三十三間堂。」
麻衣が続ける。
「最後が清水寺で、そのまま八坂神社まで歩くって先生が言ってたよね」
美咲も思い出したように言う。
「今日より歩きそう」
優香が苦笑する。
「だから歩けるうちに、ちゃんと食べておかないと」
奈緒が湯豆腐を口へ運びながら言う。
「奈緒って、そういうところ真面目だよね」
美咲が笑う。
「明日の朝になって『眠い』って言わないでよ」
「それ、たぶん優香」
麻衣が言うと、三人が一斉に優香を見る。
優香は少しだけ考えてから、小さく肩をすくめた。
「……反論できません」
四人は顔を見合わせ、思わず笑い声を上げた。
食事を進めながら、竹林で撮った写真の話になった。
「写真、あとで送ってね」
美咲がスマートフォンを持ち上げる。
「竹林のやつ?」
「うん。優香が変な顔してるやつ」
「ちょっと!」
優香が慌てて身を乗り出す。
「削除!」
「もう遅い」
奈緒が笑う。
四人の笑い声は、松の間の賑やかな空気へ自然と溶け込んでいった。
夕食を終え、学校に割り当てられた入浴時間になると、四人はタオルを手に大浴場へ向かった。
暖簾をくぐると、広々とした浴場が目に入る。
大きな湯船にはすでに多くの生徒が浸かっており、あちこちから楽しそうな話し声が聞こえていた。
「広っ!」
優香が思わず声を上げる。
「家のお風呂と全然違う……」
「大浴場なんだから当たり前でしょ」
奈緒が笑う。
四人は体を洗い終えると、大きな湯船へゆっくりと入った。
「あー……気持ちいい」
美咲が肩まで浸かり、大きく息をつく。
「いっぱい歩いたからね」
麻衣も湯に浸かりながら小さく頷いた。
しばらくすると、美咲が露天風呂の方を見る。
「あっ、露天風呂もあるよ」
「行こう!」
優香が真っ先に立ち上がる。
「滑らないでよ」
「大丈夫だって」
四人は笑いながら露天風呂へ移った。
露天風呂へ足を踏み入れると、昼間の暑さが嘘のように涼しい風が流れていた。
肩まで湯へ浸かると、思わず四人から同時に小さな息が漏れる。
「あぁ……」
誰が言ったのか分からない。
その一言に四人は顔を見合わせ、思わず笑った。
「なんか、それだけで通じるね」
美咲が笑う。
「今日はいっぱい歩いたから」
麻衣も肩まで湯へ浸かりながら答えた。
「まだ今日は終わってないからね」
優香が意味ありげに笑う。
「その顔、絶対寝る気ないでしょ」
奈緒が呆れる。
「修学旅行で早寝なんてもったいないじゃん」
「明日の朝、後悔するよ」
「……それは、その時考える」
少しだけ間を空けて返事をした優香に、三人は思わず笑った。
部屋へ戻ると、四人は浴衣姿のまま、それぞれのベッドへ腰を下ろした。
テーブルの上には自販機で買ってきた飲み物が並び、それぞれ好きなものを手に取る。
「ふぅ……」
優香がオレンジジュースを一口飲んで、そのまま自分のベッドへ倒れ込む。
「生き返る」
「大げさ」
奈緒が笑う。
「でも分かる」
美咲も冷たいお茶を口へ運ぶ。
「今日は結構歩いたもんね」
麻衣も頷く。
部屋の空気は、さっきまでの温泉よりもさらに力が抜けていた。
「そういえば、お土産どうする?」
「まだ全然買ってない」
「私も」
「明日買えばいいよ」
「荷物増えそう」
「宅配あるでしょ」
「それだ」
「先生、消灯何時だっけ?」
「十一時。十時半には部屋へ戻るようにって」
「まだ大丈夫!」
「じゃあ十一時までは自由!」
「先生来る前に寝たふりしよう」
「絶対ばれる」
そんな他愛もない話をしていると、麻衣のスマートフォンが小さく震えた。
「ん?」
画面を見ると、友達申請が二件届いていた。
表示名は――
『久我大翔』
『結城はるな』
麻衣は小さく笑う。
(ちゃんと送ってきた)
二人を承認すると、ほどなくして新しいグループが作成された。
『久我大翔がグループを作成しました』
参加者は三人。
加山麻衣。
久我大翔。
結城はるな。
最初に届いたのは、大翔からのメッセージだった。
『グループ作った』
麻衣はすぐに返信する。
『ありがと』
続いて、はるなからもメッセージが届く。
『入りました。これで大丈夫ですか?』
はるなからのメッセージに、麻衣はすぐ返信する。
『うん、大丈夫』
それっきり、画面はしばらく静かになった。
何度か入力中の表示が現れては消える。
やがて、大翔が何かを入力し始める。
『……本当にあんた何者なんだ』
その一文が表示された次の瞬間、画面が更新された。
『久我大翔がメッセージの送信を取り消しました』
麻衣はその表示を見つめ、思わず笑った。
(やっぱり聞きたくなるよね)
少しして、大翔から新しいメッセージが届く。
『……夕食どうだった?』
あまりにも不器用な話題の変え方に、麻衣は吹き出した。
『急に変えたね』
『悪い。頭が追いつかん』
『それは分かる』
そのあと、はるなからも、夕食に並んでいた京料理や、露天風呂が思っていた以上に広くて驚いたというメッセージが届いた。
同じホテルだけあって、夕食の献立もほとんど同じだった。
しばらくスマートフォンを眺めていた麻衣の指が、不意に止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
窓の外へ視線を向けたまま、そのまま動かない。
夜の京都は静かだった。
遠くを走る車の灯りだけが、ゆっくりと流れていく。
「……嫌な感じ」
思わず、小さくつぶやく。
「麻衣?」
美咲が不思議そうに声を掛ける。
麻衣は数秒遅れて振り向き、小さく笑う。
「ううん、何でもない」
そう答えながらもう一度だけ窓の外を見る。
だが、そこには京都の夜景が広がっているだけだった。
麻衣は小さく息を吐き、スマートフォンの画面を閉じた。
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