第20話 まだ東京だけど、修学旅行です
朝。
学校の正門前には、修学旅行用の大きなバッグやキャリーケースを手にした生徒たちが次々と集まっていた。
普段よりずっと早い時間にもかかわらず、校門前は笑い声で溢れている。
友人を見つけては手を振り合い、写真を撮ったり、お菓子を見せ合ったりと、出発前からあちこちで楽しそうな声が弾んでいた。
麻衣は小さくあくびを噛み殺しながら、集合場所へ向かう。
「麻衣、遅い!」
真っ先に気付いた美咲が、大きく手を振った。
「集合時間の十分前だけど」
麻衣がそう返すと、奈緒が呆れたように肩をすくめる。
「修学旅行の日は三十分前集合が基本でしょ」
「誰の基本?」
麻衣が首をかしげる。
「私たちの基本」
優香がさらりと言い切った。
「勝手に決めないで」
三人は顔を見合わせ、小さく笑う。
そんな中、美咲だけは笑みを浮かべたまま、麻衣をじっと見つめていた。
「……ちゃんと寝た?」
「寝たよ」
すぐに答えた麻衣だったが、奈緒は半信半疑という表情を浮かべる。
「怪しい」
さらに優香も麻衣の目元を見つめた。
「目が修学旅行前日の顔じゃない」
「どんな顔?」
「いつでも何か起きそうな顔」
美咲が真顔で言う。
「やめて。今日は何事もなく修学旅行を楽しみたいだけだから」
麻衣が苦笑すると、奈緒がすかさず口を開いた。
「今、フラグ立てた」
「立ててない」
三人は何も言わず、お互いの顔を見合わせる。
その反応だけで、麻衣は何を思われているのか察してしまった。
「だから違うって」
小さくため息をついた、そのときだった。
「全員、班ごとに並べ。出発前の確認をするぞ」
教師の大きな声が校門前へ響く。
生徒たちは一斉に移動を始め、四人も自分たちの班の列へ加わった。
人数確認を終えた教師が、周囲を見回しながら注意事項を読み上げる。
「修学旅行中は単独行動禁止。班行動を守ること。時間厳守。無断で予定外の場所へ行かないこと」
校門前に「はい」という返事が重なった。
先生の言葉が終わると同時に、美咲がそっと麻衣へ視線を向けた。
「なんで見るの」
麻衣がすぐに気付いて聞き返す。
「単独行動禁止だって」
美咲がにやりと笑う。
「予定外の場所へ行かないことだって」
奈緒も続けた。
「怪しいものに近付かないことも追加で」
優香は真面目な顔で頷く。
「先生はそこまで言ってない」
「私たちが追加した」
美咲が得意げに胸を張る。
「追加しないで」
四人は思わず吹き出した。
朝から変わらないやり取りに、近くにいたクラスメイトたちもつられて笑う。
麻衣も呆れたように息を吐きながら、小さく笑みを浮かべた。
京都を歩いて、神社や寺を巡り、みんなで写真を撮って、美味しいものを食べる。
そんな修学旅行になる。
それだけで十分だった。
――今日は本当に、普通でいい。
――何も起きなくていい。
――ただの高校生として、修学旅行を楽しめれば、それでいい。
胸の中でそっと願いながら、麻衣は友人たちと観光バスへ向かう列に並んだ。
先生の声に促され、生徒たちはクラスごとに観光バスへ乗り込んでいく。
車体の横に並んでいた列がゆっくりと前へ進み、順番にステップを上がっていった。
「忘れ物はないな。乗ったら自分の席に着け」
軽く返事が重なり、そのまま流れるように車内へ吸い込まれていく。
麻衣たち四人も大きな旅行バッグを車体下のトランクルームへ預け、手荷物だけを持って列の後ろへ続いた。
バスの中はすでに賑やかだった。
席を確認する声があちこちで上がり、窓側を巡って小さな交渉が始まっている。
「やっぱり後ろの席って落ち着くよね」
振り返った美咲の表情は、朝の空気よりもずっと明るい。
「最後尾じゃないだけいいでしょ」
奈緒は座席番号を指でなぞりながら答える。
「先生の目も届きにくいし」
優香が小さく笑った。
「その発言、聞かれても知らないよ」
麻衣が肩をすくめると、三人が顔を見合わせる。
声には出さないが、同じことを思っているのが分かる。
四人は通路を挟んで二人ずつ席へ腰を下ろし、手荷物を頭上の棚へ収めた。
背もたれに体を預けると、ようやく実感が追いついてくる。
修学旅行が、始まった。
前方では先生が名簿に目を落とし、最後の確認をしている。
しばらくして顔を上げ、短く頷いた。
「全員いるな。それじゃ出発する」
低く響くエンジン音とともに、バスがゆっくりと動き出した。
窓の外で、見慣れた校門が少しずつ遠ざかっていく。
「始まったね!」
美咲が身を乗り出す。
「まだ学校出ただけだけど」
麻衣が返すと、奈緒が小さく息を吐いた。
「まあ、美咲だから」
「十分修学旅行なんだよ、これで」
優香が苦笑混じりに頷く。
「だって今日から京都だよ?」
「まだ東京都」
短く返されて、美咲が一瞬だけ言葉を止める。
次の瞬間、小さく吹き出した。
バスは住宅街を抜け、幹線道路へと入る。
流れる景色が少しずつ開け、朝の光が車内に差し込んだ。
初夏の陽射しは強すぎず、窓ガラス越しに差し込む光も柔らかかった。
前の席では男子たちがトランプを広げ始めている。
後ろでは袋の擦れる音とともに、お菓子が回り始めた。
それを見た先生が、マイクを手に取る。
「まだ朝だから騒ぎすぎるなよ。駅に着くまで席は立たないように」
「はーい!」
声だけが揃い、あちこちで笑いが漏れる。
それでも完全には静まらず、ほどよいざわめきが続いた。
美咲が窓の外を見たまま口を開く。
「京都で一番楽しみなのって何?」
「抹茶スイーツ」
奈緒が即答する。
「八つ橋かな」
優香も迷わず続いた。
「やっぱり食べ物なんだ」
麻衣が少しだけ呆れる。
「麻衣は?」
視線を向けられ、少しだけ考える。
「普通に、みんなで回れればそれでいいかな」
言い終えた瞬間、空気がわずかに止まった。
三人の視線が揃う。
「その反応やめて」
「また『普通』って言った」
奈緒が口元を緩める。
「今日だけで三回目」
優香が指を三本立てた。
「ちょっと心配になってきた」
美咲が真顔で頷く。
「何も起きないって」
軽く返した言葉に、三人は何も言わない。
ただ顔を見合わせるだけだ。
――その沈黙が一番分かりやすい。
「その無言が一番傷つくんだけど」
少し遅れて、笑いが広がった。
車内の空気も一段柔らぐ。
やがて外の景色が変わり始める。
住宅街の密度が増し、建物が高くなり、人の流れも目に見えて増えていった。
バスはロータリーへ入り、ゆっくりと速度を落とした。
窓の外には新横浜駅の建物が大きく広がっている。
「新横浜駅に到着した。忘れ物がないか確認してから降りるように」
先生の声が響いた瞬間、車内の空気が一気にほどける。
頭上の棚へ手が伸び、小さな手荷物が次々と引き出された。
「よし、いよいよ新幹線!」
美咲が振り返る。
「まだホームにも行ってない」
奈緒が即座に返す。
「落ち着いて」
優香も続ける。
麻衣はそのやり取りを見て、小さく笑った。
「まあ、私もちょっと楽しみだけど」
一瞬だけ三人が固まり、それから揃って笑った。
流れに乗るように四人もバスを降りる。
外へ出た瞬間、空気がふっと変わった。
初夏のやわらかな熱と、駅前特有の人の気配が混ざり合う。
さっきまでとは少し違う匂いがした。
足元では、トランクルームから降ろされた旅行バッグが整然と並べられている。
同じ形の荷物が並ぶ光景に、わずかな緊張感が混ざった。
「自分の荷物を間違えないように確認しろ。受け取ったら班ごとに整列すること」
先生の声に促され、名前を確かめて持ち手を握り直す。
それだけの動作なのに、気持ちが少し引き締まる。
「やっと旅行って感じがしてきたね」
美咲が駅の建物を見上げる。
「学校出た時点で始まってるけどね」
奈緒は淡々と返した。
「でも分かるよ。新幹線って特別だし」
優香が小さく頷く。
「それは分かる」
麻衣も人の流れへ視線を向けながら答えた。
全員の受け取りが終わると、先生が先頭に立つ。
「それじゃ駅へ向かうぞ。班ごとに並んで付いてこい」
ロータリーの喧騒を背に、一行はエスカレーターへ向かった。
上へ運ばれるにつれて視界が開けていく。
二階のデッキへ出ると、人の多さが一気に押し寄せてきた。
スーツケースを引く家族連れ。
スマートフォンを見ながら歩く学生。
そして、自分たちと同じ制服の集団。
「修学旅行生、めっちゃいる」
美咲が思わず声を漏らす。
「この時期は重なるから」
奈緒が他校の制服を見ながら言う。
「見てるだけで分かるの面白いね」
優香が楽しそうに笑った。
少し先では、別の学校の生徒たちが写真を撮り合っている。
はしゃいだ声が風に乗って流れてきた。
「みんな楽しそう」
麻衣はその光景を眺めながら呟く。
軽い風が抜ける。
人の熱が重なり、空気はわずかに温い。
「京都、もっと暑いかな」
美咲が額に手をかざした。
「六月だし」
奈緒が短く答える。
「歩き回るし、水分ちゃんと取ろう」
優香の声はいつも通り落ち着いている。
「修学旅行なのに生活指導みたい」
美咲が笑う。
「でも正しい」
麻衣も頷いた。
そのまま人の流れに乗り、新幹線改札へ向かう。
改札前で先生が団体乗車票を係員に示した。
「班ごとに通るぞ。慌てるな。前の人に続け」
改札を抜けた瞬間、空間が変わる。
天井の高いコンコースに、足音と人の声が反響していた。
売店の前には列ができている。
ガラスケースの中には色とりどりの駅弁が並んでいた。
「駅弁いいなぁ」
美咲の視線が止まる。
「お弁当出るでしょ」
奈緒がすぐに返した。
「でも見ちゃうよね」
優香もつられて足を緩める。
「帰りなら買えるかも」
麻衣が言うと、美咲の顔が少しだけ明るくなる。
「じゃあ帰りの目標それ」
「気が早い」
奈緒が呆れたように息を吐いた。
先生が通路の端へ寄るよう手で示す。
「ここで人数確認をする。トイレと飲み物はこの範囲で。五分後に集合」
「はーい」
生徒たちはそれぞれ散っていく。
四人も自動販売機の方へ向かった。
「何飲む?」
美咲が財布を取り出す。
「お茶」
麻衣が答える。
「私も」
「同じく」
奈緒と優香も続いた。
「みんな地味」
美咲が肩を落とす。
「美咲は?」
「炭酸」
「朝から?」
「修学旅行だから」
少しだけ間が空いて、優香が笑った。
集合場所へ戻ると、先生はすでに時計を確認していた。
「そろったな。それじゃホームへ上がる。広がるな」
エスカレーターに乗る。
一段ずつ上がるごとに光が近付き、やがて視界が開けた。
広いホームが目の前に広がる。
等間隔に並ぶホームドアが一直線に続き、その向こうに線路が伸びていた。
頭上の電光掲示板には、到着予定の列車情報が整然と表示されている。
「……広い」
美咲が小さく呟いた。
すぐには誰も続かない。
しばらくの間、四人はその景色を眺めていた。
「思ってたより圧があるね」
奈緒がホームドア越しに線路を見やる。
「人も多いしね」
優香が周囲へ視線を巡らせた。
同じ制服の集団があちこちに並び、少し離れた場所では別の学校の生徒たちが写真を撮っている。
駅員の案内と発車ベルの予告音が重なり、空気がわずかに張り詰めていた。
「これで京都まで行くんだ」
麻衣は電光掲示板から視線を外し、線路の先を見つめた。
先生が乗車位置を指し示す。
「十三号車。この位置から離れるな。白線の内側で待機」
ホームドアに貼られたドア位置表示と照らし合わせながら、生徒たちが列を整えていく。
周囲にも同じように並ぶ修学旅行生の姿があった。
「本当に多いね」
美咲が少し声を落として言う。
「同じ新幹線かも」
優香が隣の列を見た。
「京都でまた会うやつだね」
奈緒が短く返す。
「ありそう」
麻衣が小さく頷いた。
そのとき、放送が流れる。
『まもなく、新大阪方面行きの、のぞみ号が到着いたします』
空気が変わった。
自然と全員の視線が同じ方向へ向く。
遠く、線路の先に白い車体が見えた。
まだ音は小さいが、確かにこちらへ近付いてくる。
「来た……」
美咲が息を潜めるように呟く。
新幹線は滑るようにホームへ進入してくる。
風が押し寄せ、ホームドア越しでもその圧がはっきりと伝わった。
ブレーキ音が重なり、速度がゆっくりと落ちていく。
長い車体が目の前を通り過ぎ、やがて自分たちの前で動きを止めた。
ぴたりと位置が合う。
ホームドアの表示灯が変わり、車両の扉と正確に重なった。




