第18話 静かな住宅街の異世界遭遇戦
その日の夕方。
私服警察官の二人を振り切った男は、駅を離れてから何度も道を変え、住宅街の外れまで移動していた。
人の多い通りを抜けたあと、細い路地を通って元の道へ戻り、同じ場所を二度通らないよう進路を選ぶ。
追跡されている気配がないことを確認しても、男が警戒を緩めることはなかった。
その頃、駅で美咲たちと別れた麻衣のスマートフォンへ、楓から連絡が届いていた。
『監視対象を見失いました。麻衣さんは警護員と合流し、そのまま帰宅してください』
画面を確認した麻衣は、少し先へ意識を向ける。
人の流れに紛れて姿は見えなくなっていたが、一度捉えた魔力はまだ感知できていた。
『まだ追えます』
麻衣が返信すると、すぐに楓から着信が入った。
『どういうことですか?』
「姿は見えませんけど、あの人の魔力を感じます。今いる場所も大体分かります」
『絶対に接触しないでください。距離を保ったまま、位置だけを知らせてください。こちらの警護員も追従させます』
「分かりました」
通話を終えた麻衣は男の魔力をたどりながら、一定の距離を保って歩き始めた。
そのさらに後方からは、二人の警護員が周囲へ溶け込むように追従している。
麻衣は何度か楓へ位置を送り、指示されたとおり男へ近付くことなく追跡を続けた。
やがて男の魔力は、住宅街から少し外れた人通りの少ない道へ入っていく。
麻衣も距離を保ったまま角を曲がろうとした、その時だった。
周囲の空気がわずかに揺らぎ、住宅街から聞こえていた車の走行音が途切れる。
麻衣は足を止め、すぐにスマートフォンを確認した。
画面から通信表示が消え、後方にいたはずの警護員の気配も感じられない。
「閉鎖空間……」
麻衣は顔を上げ、道の先へ意識を向けた。
周囲にいる人物の魔力を探ったが、感知できるのは先ほどまで追っていた男のものだけだった。
男は周囲へ視線を巡らせながら、人気のない道を歩いていた。
足音だけが響く中、追跡者の気配がないことを確かめ、このまま何事もなく目的地まで移動できると判断する。
「それで、私に何か用?」
不意に掛けられた声に、男は反射的に足を止めた。
視線を上げた瞬間、数メートル先に立つ制服姿の少女を見つけ、驚きに息をのむ。
加山麻衣。
夕日に照らされながら、真っ直ぐ男を見つめている。
(いつ現れた……?)
気配はなく、少女が姿を隠せるような死角もなかった。
男は周囲へ視線を走らせたが、目の前には最初からそこにいたかのように麻衣が立っている。
男はすぐに表情を整えた。
だが、麻衣へ向ける警戒だけは一段階強くなっていた。
短い沈黙のあと、先に口を開いたのは麻衣だった。
「尾行するなら、もう少し上手くやった方がいいよ? ……もっとも、現代なら最上位クラスだけどね」
男の表情がわずかに揺れる。
「……やはり」
麻衣は肩をすくめた。
「美咲が気付いた日の時点で、私も尾行には気付いてた。それで?」
男は麻衣から目を離さず、慎重に言葉を選ぶ。
「確認したいことがあります。あなたは――」
麻衣は男の言葉を遮るように、首を横へ振った。
「……ごめん。隠せてないよ」
男は眉をひそめる。
「何をです?」
麻衣は迷うことなく答えた。
「その魔力」
男の瞳が大きく見開かれる。
(見抜かれた……!?)
男は反射的に地面を蹴り、一気に後方へ飛び退いた。
閉鎖空間へ取り込まれた直後、魔力を指摘された男が逃走を図ったことで、麻衣は相手が術者だと判断する。
ほぼ同時に麻衣も地面を蹴り、男が着地するより早く懐へ踏み込んだ。
狙いは攻撃ではなく、逃走を防ぐために身柄を拘束することだった。
麻衣の右手が男の腕へ伸びる。
「ま、待ってくれ!」
男は咄嗟に身体をひねり、麻衣の手を紙一重でかわした。
麻衣の指先が男の袖をかすめ、そのまま逃げ道を塞ぐように半歩だけ軌道を変える。
「動かないで!」
麻衣が再び腕へ手を伸ばすと、男は防御の構えを取り、迫る手を外側へ払った。
乾いた打撃音が響き、男は生まれた隙を利用して後方へ跳ぶ。
しかし、麻衣は着地地点を予測して間合いを詰め、男の足が地面へ触れるのとほぼ同時に懐へ踏み込んだ。
男が身体をひねれば、麻衣も軌道を変え、その逃げ道を塞ぐ。
互いに一撃を狙うことはなく、男は距離を保とうと動き、麻衣は逃がすまいと追い続けた。
「頼む! 待ってくれ!」
「だから、動かないで!」
男は麻衣の手をかわしながら、困惑したように声を上げる。
「なぜ、いきなり襲ってくる!」
「仕掛けてきたのは、そっちでしょ!?」
「何を言っている!」
「突然、閉鎖空間を展開して逃げようとしたのはそっちでしょ!」
「閉鎖空間だと!?」
その言葉を聞いた瞬間、男の動きが止まった。
麻衣も男の反応に違和感を覚え、それ以上は踏み込まない。
二人は数歩の距離を取り、互いを警戒したまま向かい合った。
男は初めて周囲へ意識を向けた。
住宅街から聞こえていたはずの車の走行音も、人々の話し声も消えている。
肌には風を感じるのに木々の葉は揺れず、静寂だけが辺りを支配していた。
周囲へ魔力を巡らせた男は、驚いたように息をのむ。
「……本当に閉鎖空間だ」
その呟きに、麻衣の眉がわずかに動く。
「どういうこと? この閉鎖空間は、あなたが作ったんじゃないの?」
男は麻衣を見つめ返し、首を横へ振った。
「違う。私ではない。私はあなたに接触するため、ここへ来ただけだ」
麻衣は男の目を真っ直ぐ見つめた。
返ってくる視線には困惑こそあったが、誤魔化そうとする色は見えない。
「……本当に?」
「本当だ。私も今、異変に気付いた」
麻衣は男から視線を外さないまま、周囲へ意識を向ける。
男も同じように辺りを見回し、閉鎖空間を構成する魔力の流れを探り始めた。
互いに警戒は解いていないが、その意識はもう目の前の相手だけには向けられていなかった。
その時、道の奥から低い唸り声が響いた。
地面へ大きな影が落ち、麻衣と男はほぼ同時に声のした方向へ振り向く。
そこには、一人の魔族と一匹の魔獣が立っていた。
魔獣は熊を思わせる巨体を持ち、顔には上下に並んだ四つの目が鈍く光っている。
鋭い牙を剥き出しにしたまま前脚で舗装路を掻き、二人を威嚇するように低く唸っていた。
その傍らに立つ男の背には漆黒の翼が広がり、額からは羊を思わせる黒い角が左右へ伸びている。
全身からは隠す様子もなく強い魔力が溢れ、その場の空気を重く変えていた。
「……ヴァルグか」
男が低く呟く。
ヴァルグはわずかに口元を緩めた。
「騎士団長自ら何をしているのかと思い、後を追ってみれば……こちらの世界の娘を口説いていたとは、ずいぶんと余裕があるようですね」
「相変わらず、減らず口だけは達者だな」
男は冷たく言い返すと、一歩前へ出て麻衣を背に庇う位置へ立った。
その自然な動きに、麻衣はわずかに目を細める。
男の視線はヴァルグだけを捉え、先ほどまで麻衣へ向けていた警戒も消えていた。
一方のヴァルグも、男から視線を逸らそうとはしない。
二人の間に流れる空気は、初めて顔を合わせた者同士のものではなかった。
麻衣は改めて、ヴァルグから漂う魔力へ意識を向ける。
黒い翼と、羊を思わせる黒い角。
その姿と人間とは根本から異なる魔力が、一つの答えを示していた。
――魔族。
(ということは、やっぱりアストナルか……)
ヴァルグの視線が麻衣へ止まった。
「ほぉ……」
紅い瞳が細まり、麻衣を値踏みするように見据える。
「この世界の娘でありながら、魔力を持っていますか。ですが、この世界の人間では我々には敵いません」
その言葉が終わるより早く、男の姿が掻き消えた。
踏み込むと同時に左手をかざし、掌の前へ青白い魔法陣を展開する。
魔法陣の中央に小さな亀裂が走り、その奥から一振りの長剣が姿を現した。
青白い光が弾ける。
男は柄を掴むと同時に長剣を抜き放ち、一気にヴァルグとの間合いを詰める。
「ヴァルグ!」
裂帛の気合とともに、長剣が振り下ろされる。
ヴァルグは避けようともせず、傍らの魔獣へ視線だけを送った。
「殺せ」
次の瞬間、四つ目の魔獣が斬撃の前へ躍り出る。
「グルァァァッ!!」
巨大な前脚と長剣が激しくぶつかり合い、鈍い衝撃音が住宅街へ響き渡る。
衝突の余波で舗装路に亀裂が走り、細かな破片が周囲へ跳ね上がった。
「邪魔だ!」
男は長剣へ力を込め、そのまま魔獣の前脚を押し込もうとする。
しかし、魔獣も咆哮を上げながら全身の力を前脚へ乗せ、一気に押し返した。
一瞬だけ拮抗していた均衡が崩れ、男の身体は大きく後方へ弾き飛ばされる。
男は空中で体勢を立て直して着地したが、魔獣は休むことなく距離を詰め、牙と爪による猛攻を浴びせた。
「ぐっ……!」
男は長剣で爪を受け流し、続けて迫る牙を剣の腹で防ぐ。
魔獣の側面へ回り込もうと足を動かすが、四つの目がその動きを追い、巨大な前脚が進路を塞いだ。
男は反撃を繰り返すものの、激しい連撃に押され、ヴァルグへ迫る隙を作ることができない。
ヴァルグは騎士団長が足止めされたことを確認すると、麻衣へ視線を向けた。
麻衣は戦いを見ながらも、男が長剣を取り出した青白い魔法陣の構造を頭の中で組み立てていた。
魔力の流れ、術式の構成、空間へ干渉する理論は、麻衣がよく知る法則に従っている。
「見られてしまった以上、生かして帰すわけにはいきませんね」
ヴァルグが右手を掲げる。
黒紫の魔法陣が音もなく展開され、その中心から禍々しい黒槍が姿を現した。
麻衣は黒槍ではなく、それを生み出している魔法陣へ視線を向ける。
属性も用途も、先ほど男が使った術式とは異なっていた。
それでも術式の組み方と魔力の流れ、その根底にある理論は完全に一致している。
――間違いない。
この二人は、アストナルの者だ。
「恨むのなら、自らの運命を恨むことですね」
次の瞬間、黒槍が空気を切り裂き、一直線に麻衣へ襲い掛かった。




