第15話 約束の日
約束の土曜日の午後。
加山麻衣は私服姿で、父・加山恒一と母・加山美紀とともに駅前のオフィスビルへ向かっていた。
恒一は歩きながら腕時計へ目を向け、時間を確認して小さく頷く。
「まだ十分あるな」
その言葉に、麻衣は少し笑いながら父を見る。
「早く着きすぎじゃない?」
美紀は隣で穏やかに微笑み、娘へ視線を向ける。
「待たせるよりいいでしょう?」
麻衣は肩をすくめ、軽く息を吐く。
「まあ、それはそうなんだけど」
三人はそのままビルへ入り、受付を済ませて貸会議室のある階へ向かった。
エレベーターを降りると、廊下の一室の前で一人の男性が待っていた。
麻衣たちの姿に気付いた男性は、すぐに姿勢を正して深く頭を下げる。
「本日はお時間をいただき、本当にありがとうございます」
朝倉優香のマネージャー、佐伯誠だった。
恒一も足を止め、丁寧に一礼する。
「こちらこそ、このような場を設けていただきありがとうございます」
佐伯は顔を上げて軽く頷き、そのまま会議室の扉へ手を掛ける。
「どうぞ」
三人は小さく会釈を返し、そのまま部屋の中へ入る。
部屋の中央には長机が置かれ、その奥には朝倉優香と事務所の関係者が座っていた。
麻衣の姿を見つけた優香は静かに席を立ち、迷うことなく一歩前へ出る。
そして次の瞬間、深く頭を下げた。
「先日は、本当にありがとうございました。そして……申し訳ありませんでした」
突然の謝罪に、麻衣は驚いて目を丸くし、すぐに前へ一歩出て声を掛ける。
「頭を上げてください」
しかし優香は頭を下げたまま動かず、肩が小さく震えている。
誰もすぐに言葉を続けず、時間だけが流れる。
そして優香はゆっくりと顔を上げた。
目元は赤く、涙をこらえているのがはっきり分かった。
「あの時……怖くて、あなたにしがみついてしまいました。病院でも何度も謝ろうと思ったんですけど、うまく言えなくて……そのせいで怪我までさせてしまって」
言葉を絞り出す優香を見つめながら、麻衣は静かに首を横へ振る。
「違います。あの状況なら誰でも怖くなりますし、助けを求めるのも当たり前です。だから、あなたは何も悪くありません」
「でも……私が……」
なおも自分を責めようとする優香へ、麻衣は表情をやわらげる。
「普通です。刃物を向けられたら誰でも怖いですし、あの場で私にしがみついたことも気にする必要はありません。だから、もう自分を責めないでください」
その言葉を聞いた瞬間、優香の瞳から涙があふれ出す。
慌てて手で拭おうとするが、一筋の涙はそのまま頬を伝って落ちた。
優香は何度か目元をぬぐい、小さく息を整える。
「その言葉を聞けて……少しだけ安心しました。ずっと謝らなきゃって、そればかり考えていたんです」
麻衣は一度だけ頷き、そのまま視線を外さずに口元だけで小さく笑う。
「それなら良かったです」
誰もすぐに言葉を続けず、視線だけがゆっくり動く。
優香が涙を拭うのを待ってから、佐伯は三人へ着席を勧めた。
全員が席へ着くと、佐伯は一枚の封筒を取り出す。
「これは事務所からのお礼です」
テーブルの上へ静かに差し出された封筒へ、麻衣は一度だけ視線を落とす。
そしてそのまま首を横へ振る。
「ごめんなさい。やっぱり受け取れません」
「ですが……」
佐伯が言葉を続けようとするが、麻衣は落ち着いたまま視線を上げる。
「助けたのは私が勝手にやったことです。困っている人を助けただけなので、見返りを頂く理由はありません」
部屋は静まり返る。
恒一は何も言わず娘を見つめ、美紀も静かに頷きながらその言葉を受け止めていた。
二人とも口を挟まず、ただ麻衣の判断を尊重している。
やがて優香が小さく笑う。
「やっぱり」
その言葉に、麻衣は不思議そうに首をかしげる。
優香は少し照れたように視線を緩める。
「病院でも、きっとそういう人なんだろうなって思っていたんです。やっぱり、優しい人ですね」
そう言われた麻衣は照れくさそうに視線を逸らし、小さく頬をかいた。
優香は一度言葉を止めて視線を落とし、もう一度だけ顔を上げる。
「それでも、何か一つだけ恩返しをさせてください。私にできることなら、できる限り応えます」
言い終えてもその場から動かず、答えを待つように立ったままになる。
麻衣は一度だけ視線を落とし、考えながら息を整えてから顔を上げる。
「本当に何もいりません。もう気にしないでください」
優香はすぐに首を振り、言葉を重ねる。
「それでは私の気持ちが収まりません」
麻衣は言葉を返さずに少しだけ考え、視線を横へ流してから戻す。
恒一も美紀も動かずに見守り、佐伯も姿勢を崩さずに待っている。
やがて麻衣は小さく息を吐き、迷いを切るように口を開く。
「じゃあ、一つだけお願いします」
優香はすぐに頷く。
「はい」
麻衣は相手の目を見たまま、言葉を区切らずに伝える。
「危険を感じた時は、一人で何とかしようとしないでください。ちゃんと周りの人を頼って、今回みたいなことがもう起きないようにしてください」
麻衣の言葉を受け止めるように、優香は一度だけ目を閉じる。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい、約束します」
佐伯が一歩下がって頭を下げる。
「ありがとうございます。私どもも二度とこのようなことが起きないよう警備体制を見直します」
恒一も短く頷く。
「娘も安心すると思います」
優香はもう一度だけ確認するように口を開く。
「本当に、お礼は受け取っていただけませんか」
麻衣は少しだけ笑い、首を横に振る。
「はい。その代わり元気に活動している姿を見られたらそれで十分です」
優香は何度も頷く。
「頑張ります」
全員が席を立つ。
優香はその場で深く頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
麻衣も同じように頭を下げる。
「お体を大事にしてください」
優香は顔を上げ、そのまま頷く。
「はい」
会議室を出て、三人で廊下を歩く。
足音だけが続いたあと、美紀が横で小さく笑う。
「麻衣らしかったね」
麻衣は少し遅れて笑う。
「そうかな」
恒一も口元を緩める。
「謝礼を断るところまで予想どおりだった」
三人で顔を見て、同時に笑う。
数日後。
テレビには朝倉優香のライブ映像が流れ、ライトの中でリズムに合わせて動きながら歌っている。
麻衣は夕食を食べながらその様子を見て、美紀の言葉に合わせて小さく頷く。
「元気そうね」
「うん、良かった」
それから、さらに数日後の放課後。
四人は言葉を交わしながら、いつもの帰り道を並んで歩いていた。
分かれ道で、美咲が手を振る。
「じゃあ、また明日」
奈緒が麻衣の腕を見る。
「腕、まだ無理しちゃ駄目だからね」
優香もそのまま続ける。
「ちゃんと休んで」
麻衣は照れたように口元だけで笑う。
「分かってる」
美咲が一歩だけ近づく。
「本当に?」
麻衣は一度だけ視線を外し、すぐに戻す。
「……約束」
三人は顔を見合わせると、ようやく納得したように笑った。
「またね」
それぞれの帰路へ分かれる。
麻衣は一人で歩き出し、夕暮れの街の中を同じ速さで進む。
風が横から抜けて服の裾を揺らし、そのまま足を止めずに歩き続ける。
麻衣は息を一つ吐く。
「……終わった」
その時、ポケットの中でスマホが震える。
取り出して画面を見る。
『楓さん』
通話を取る。
「もしもし」
「加山さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
間を置かず、楓が続ける。
「総理も報道をご覧になり、今回の件は詳細まで把握されています」
麻衣は小さく息を吐く。
「……成り行きです」
「その件も含め、一度お話ししたいことがあるそうです。ご都合のよい日はございますか」
麻衣は足を止め、空を見上げたまま答える。
「……分かりました。予定を送ってください」
「ありがとうございます。後ほどご連絡いたします」
通話が切れる。
麻衣はスマホをしまい、しばらくその場で空を見上げてから歩き出す。
「……今度は何だろう」
麻衣の姿は、夕暮れに染まる街の中へと溶け込んでいった。
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