第14話 五分だけ
一方その頃。
都立南陽東高等学校の応接室では、校長と教頭が報道各社への対応を続けていた。
校門前には、まだ数社の報道陣が残っている。
電話が鳴るたび、教頭は受話器を取り、同じ説明を繰り返していた。
「申し訳ありません。本件につきましては、お答えできません」
電話を切ったところで、応接室の扉が静かにノックされる。
「失礼します」
事務員が一礼して部屋へ入った。
「校長先生。朝倉優香さんの所属事務所の方からお電話です」
校長は教頭と視線を交わし、小さく頷く。
「おつなぎしてください」
間もなく、応接室の電話が鳴った。
校長は受話器を取り、落ち着いた声で応じる。
「都立南陽東高等学校、校長です」
受話器の向こうから、落ち着いた男性の声が返ってきた。
「突然のお電話失礼いたします。朝倉優香のマネージャー、佐伯と申します。昨日は弊社所属タレントを助けていただき、本当にありがとうございました。もし救助してくださった方が貴校の生徒でしたら、お礼の気持ちだけでもお伝えいただけないでしょうか。もちろん、お名前などをお伺いするつもりはございません」
「お気持ちは確かに承りましたが、本校と事件との関係につきましては、お答えできません。また、生徒に関する情報もお伝えできませんので、ご理解ください」
「承知しております。本日は、お気持ちだけでもお伝えできれば十分です。ありがとうございました」
「こちらこそ、お電話ありがとうございました」
受話器を置くと、教頭が尋ねる。
「芸能事務所でしたか」
「ええ。お礼を伝えてほしいという申し出でした」
「個人情報は」
「もちろん一切お伝えしていません。本校の生徒かどうかも回答していません」
教頭は安心したように頷く。
「それで問題ありません」
校長は一度だけ頷いた。
「生徒の間では噂になっているようですが、噂だけでは本人確認はできません」
「ええ」
教頭も頷いた。
「ただ、本人が判明した際には、お礼を伝えたいという申し出だけは届けましょう」
「それがよいでしょう」
昼休み。
チャイムが鳴ると、教室はいつもの賑わいに包まれた。
美咲は机を寄せると、真っ先に麻衣の腕を見る。
「痛くない?」
「もう大丈夫」
「病院では何て言われたの?」
奈緒が続けて聞く。
「浅い傷だから大丈夫だって」
「薬はちゃんと塗ってる?」
優香も心配そうに尋ねる。
「うん。ちゃんと塗ってる」
三人は小さく息をついた。
教室の反対側では、昨日のニュースが話題になっている。
「校門前、まだテレビいたぞ」
「朝より減ったけどな」
「SNSだと女子高生ってところまでは分かってるらしい」
「南陽東って書かれてる投稿も結構あるぞ」
「でも誰なんだろうな」
一人の男子生徒が麻衣へ目を向ける。
「なあ」
「ん?」
「昨日、加山ってコンビニ寄るって言ってなかった?」
「ああ」
「それに腕も怪我してるし……。聞いてみるか?」
その言葉に、別の男子が首を振る。
「やめとけ。本人が言わないなら聞くことじゃない。違ったら失礼だし、本当だったとしても、話したくない理由があるかもしれないだろ」
誰も反論しなかった。
少し間を置き、一人がぽつりとつぶやく。
「でもさ。あの子なら、人を助けても不思議じゃないよな」
誰も否定しない。
美咲はそのやり取りを見ていた。
(悪く言う人はいない。よかった)
麻衣はそんな周囲の空気にも気付かず、奈緒と優香のやり取りに苦笑しながら昼食を食べている。
その笑顔を見て、美咲も自然と笑みを浮かべた。
同じ頃。
加山家では、恒一がテーブルの上に置かれた一枚の名刺を見つめていた。
「……」
隣へ腰を下ろした美紀が静かに尋ねる。
「どうするの?」
「本人に任せる」
恒一は名刺を封筒へ戻すと、机の引き出しへ静かにしまった。
「無理に会わせるつもりはない。麻衣が会いたいと言うなら、その時に考えればいい」
美紀も穏やかに頷く。
「そうね。それが一番ね」
その頃、麻衣は何も知らず、美咲たちと笑いながら帰り道を歩いていた。
夕食を終えたあと、麻衣はリビングのソファに座り、何となくテレビを眺めていた。
ニュースでは、昨日の事件がまだ取り上げられている。
「人気アイドルを救った人物については、現在も身元は公表されていません」
キャスターの声を聞いた麻衣は、手元のリモコンへ指を伸ばした。
もう消そう。
そう思った時、父の加山恒一が一枚の封筒を手にリビングへ入ってきた。
「麻衣、少しいいか」
「うん」
恒一はソファの前まで来ると、封筒から一枚の名刺を取り出し、テーブルの上へ置いた。
麻衣は名刺に目を落とす。
そこには、朝倉優香のマネージャーである佐伯 誠の名前があった。
「……病院の」
「ああ。病院で渡された名刺の番号へ、私から一度連絡していた。その返事が今日あった」
母の加山美紀も、二人の様子を見て向かいのソファへ腰を下ろした。
恒一は麻衣が名刺を見ているのを確かめてから、落ち着いた声で続ける。
「正式にお礼をしたいそうだ。病院では慌ただしかったから、改めて少しだけ時間をもらえないかと言っていた」
麻衣は一度だけ名刺を見つめ、すぐに視線を外した。
「断って」
迷いのない返事だった。
恒一も美紀も驚かなかった。
むしろ、そう言うだろうと分かっていたように、恒一は小さく苦笑する。
「そう言うと思った」
「麻衣らしいわね」
恒一は少し間を置き、改めて麻衣を見る。
「理由を聞いてもいいか」
麻衣は腕を組むでもなく、俯くでもなく、ただ名刺の端へ視線を向けた。
「助けたのは、私が勝手にやったことだから。見返りはいらないし、お礼を言われるようなことでもないと思う」
美紀は責めることなく、静かに頷いた。
「そう思うよね」
けれど恒一は、すぐには名刺を片付けなかった。
「でも、向こうはそう思っていない」
麻衣が顔を上げる。
恒一は表情を少しだけ引き締め、電話で聞いた言葉をそのまま伝える。
「マネージャーさんが言っていた。本人が、自分のせいで君に怪我をさせたと、かなり気にしているそうだ」
誰もすぐには口を開かなかった。
「せめて一度だけでも、謝らせていただけませんか、と」
麻衣は何も答えなかった。
視線だけが、テーブルの上の名刺へ戻る。
病院の待合スペースで、朝倉優香が泣きながら頭を下げていた姿が脳裏に浮かんだ。
『私のせいで……』
あの時の声が、思っていたよりもはっきり残っていた。
美紀が静かに口を開く。
「もちろん、断ってもいいのよ」
麻衣は母を見る。
「これは麻衣が決めることだから」
恒一も頷いた。
「私たちは、どちらでもいい。返事も急がなくていいそうだ」
麻衣はしばらく名刺を見つめていた。
やがて、そっと手を伸ばして名刺を手に取る。
「……少し考える」
恒一と美紀は何も言わなかった。
娘が自分で答えを出すまで、待つことにした。
翌朝。
朝食の時間になっても、麻衣はどこか落ち着かない様子だった。
テーブルの端には、昨夜の名刺がそのまま置かれている。
トーストに手を伸ばしても、視線は何度もそちらへ向いてしまう。
父も母も、そのことには触れなかった。
普段どおりの会話だけが交わされる。
放課後。
帰宅した麻衣は制服のままリビングへ入り、そのままソファへ腰を下ろした。
まだ父は帰っていない。
キッチンから出てきた美紀が、お茶をテーブルへ置く。
「はい」
「ありがと」
湯気の立つ湯のみを見つめながら、麻衣はしばらく黙っていた。
その様子を見て、美紀が向かいへ座る。
「まだ考えてる?」
「……うん」
「会いたくない理由は?」
麻衣は少しだけ困ったように笑う。
「恥ずかしいから」
予想外の答えに、美紀は思わず笑った。
「そこ?」
麻衣も苦笑する。
「だって、何回もお礼言われるの苦手なんだよ。放っておけなかっただけだし」
美紀はその言葉を否定しなかった。
「そういうところ、麻衣らしいわね」
少しだけ間を置く。
「でもね、相手からしたら、その当たり前で命を助けられたの。だから、ちゃんと『ありがとう』を伝えたいんだと思う」
麻衣は何も言わず、その言葉を受け止める。
玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「おかえり」
恒一がリビングへ入ると、そのまま麻衣へ視線を向ける。
「返事、決まったか?」
麻衣は小さく首を横に振る。
恒一は上着を椅子へ掛けながら続ける。
「私は、断ってもいいと思っている。でもな、相手が一生、自分のせいだと思い続けるなら、放っておくのも違う」
リビングに、わずかな沈黙が落ちる。
麻衣は目を閉じた。
病院での光景が浮かぶ。
頭を下げる姿。
震える声。
『私のせいで……』
しばらくして、ゆっくりと目を開く。
父と母を見る。
「……五分だけなら」
その言葉に、二人は顔を見合わせる。
次の瞬間、静かに微笑んだ。
恒一はテーブルの上に置かれていた名刺を手に取る。
「分かった。そう伝えておく」
スマートフォンを取り出しながら、短く頷いた。
麻衣は少しだけ考えてから、付け加える。
「謝礼とかは受け取らないから」
「もちろん。その点もきちんと伝えておく」
美紀も穏やかに頷く。
「変な遠慮はしないでね」
「うん」
短いやり取りのあと、リビングにはいつもの空気が戻っていく。
数日後。
恒一のスマートフォンへ、一通のメールが届いた。
差出人は、朝倉優香の所属事務所。
表示された内容を確認する。
『○月○日 午後三時
○○ビル会議室
短時間で結構です。
改めて御礼を申し上げます』
恒一は画面をそのまま麻衣へ見せた。
麻衣は一度だけ目を通し、小さく頷く。
「……分かった」
その頃。
都内の芸能事務所。
応接スペースで、佐伯が一人の少女へ声を掛ける。
「朝倉」
「はい」
「会っていただけることになった」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし短時間だけだ」
優香は何度も頷いた。
「それで十分です。ちゃんと……伝えたいんです。ありがとうって」
目元がわずかに潤む。
それでも、しっかりと前を向いていた。
ようやく、その機会が与えられたのだから。




