第12話 アイドル襲撃と女子高生の遭遇
総理との会談から数日。
麻衣の生活は、ようやく元のリズムへ戻りつつあった。
放課後、夕焼けに染まる街並みを歩きながらスマホを確認すると、母からのメッセージが一件届いている。
『牛乳なくなったから帰りにお願い』
短い文面に小さく息を漏らしながら、「了解」とだけ返信を送り、そのままスマホをポケットへしまった。
その足で家の近くのコンビニへ向かい、自動ドアをくぐると、店内には仕事帰りの会社員や制服姿の高校生がそれぞれの時間を過ごしている。
レジでは若い店員が会計をこなし、いつもと変わらない夕方の空気が流れていた。
麻衣は牛乳を買い物かごへ入れ、自分の飲み物を選ぼうと隣の棚へ移動する。
棚へ視線を落とした直後、自動ドアが強く開いた。
反射的に顔を上げると、帽子とマスク、さらにサングラスで顔を隠した若い女性が店内へ入ってくる。
女性は肩で息をしながら入口を振り返り、そのまま足早に店の奥へ進んだ。
店員が「いらっしゃいませ」と声を掛けるが、女性は返事をしない。
スマホを取り出すが、手が震えてしまい、何度画面に触れても操作できていない。
数秒後、自動ドアが再び開く。
二十代後半ほどの男が入ってきて足を止め、店内を見渡す。
視線が女性を捉えると、そのまま一直線に歩き出す。
「いた」
低い声に、女性の肩が揺れる。
「……来ないで」
男は止まらない。
「何で逃げる」
「もうやめてください」
「俺は君のためにやってるんだ」
「警察呼びます!」
店員が二人の間へ入る。
「お客様、落ち着いて——」
「黙れ!」
怒鳴り声が店内に響く。
客たちが距離を取り、出口へ向かい始める。
その中で、麻衣は足元に買い物かごを置いた。
男から視線を外さず、足を一歩前へ出す。
男の右手がポケットへ入る。
麻衣の目がわずかに細くなった。
男の右手がポケットから抜かれ、そのまま折り畳みナイフが開かれると、刃が店内の光を拾う。
「きゃっ!」
店員の悲鳴が上がり、女性は後ずさるが足がもつれて距離を取れず、その場で動きを止めてしまう。
「俺だけを見ろ!」
怒声が響いた瞬間、客たちが一斉に動き出して出口へと流れ、足音と棚の揺れる音が重なり、店内のざわめきが一気に広がる。
それでも女性は動けず、刃を見たまま身体だけが小さく震えていた。
その中で麻衣は一つ息を吐き、わずかに肩の力を抜いてから足を前へ出す。
「……やるしかないか」
落ち着いた歩幅のまま男と女性の間へ入り、視線を外さず短く告げる。
「下がって」
女性は反射的に麻衣へ近付き、その腕を強く掴む。
「助けて……」
腕を引かれ、わずかに動きが遅れる。
そのわずかな遅れを見逃さず、男が踏み込んで腕を振り下ろし、刃が一直線に走る。
麻衣は身体を捻って避けるが、引かれた腕がわずかに遅れ、布が裂ける音とともに袖が切れる。
遅れて浅い痛みが走り、腕に細い血の線が浮かぶ。
「ご、ごめんなさい!」
震える声が上がるが、麻衣はそのまま腕を外して女性を後ろへ押し、間を詰めるように一歩踏み込む。
「もう大丈夫」
振り下ろされた腕が戻りきる前、その手首を掴んで外側へ捻ると関節が開き、指の力が抜けた瞬間にナイフが床へ落ちる。
カラン——と乾いた音に男の視線がわずかに逸れ、その隙に距離を詰めて半歩踏み込み、重心を落としたまま掌底を鳩尾へ打ち込む。
「ぐっ……!」
息が抜けた男の身体が前に折れ、その崩れた軸へ足を払うと支えを失った身体が横へ流れる。
床へ落ちる勢いを逃さず踏み込み、男の腕を背中側へ回して身体を押さえ込む。
男は苦しそうに息を吐いたあと、そのまま抵抗する力を失った。
床へ押さえ込まれた男は動かず、店内には音が消えたような静けさが広がる。
誰も動けず、その場に立ち尽くしていた。
「……え?」
「女子高生が……今の……」
視線が一斉に麻衣へ集まる中、女性はその場に座り込み、涙を流しながら麻衣を見上げていた。
数秒後、店員が我に返る。
「警察!」
「救急車お願いします!」
震える声で叫びながら電話を掴むと、店内に音が戻った。
数分後、サイレンが近付く。
パトカーと救急車がコンビニの前に止まり、警察官が扉を開けて店内へ駆け込んできた。
「警察です!」
麻衣は床に倒れた男のそばから振り向き、視線でナイフの落ちた位置を示す。
「刃物はあそこです」
警察官がナイフを確保すると、別の警察官が麻衣と入れ替わるように男を押さえ込む。
「身柄を確保します。動かないでください」
男の両腕を背中側で拘束して手錠を掛けると、そのまま二人がかりで立ち上がらせ、店の外へ連れ出していく。
入れ替わるように救急隊員が近付き、麻衣の腕へ視線を落とす。
「切創がありますね」
「かすっただけです」
「刃物による怪我ですし、ここでは深さの判断ができません。病院で確認します」
麻衣は小さく息を吐きながら視線を逸らす。
「本当に大したことないです」
「念のためです」
短く言われ、麻衣は諦めたように頷く。
「……分かりました」
別の隊員が女性の前にしゃがみ込む。
「お怪我はありませんか」
女性は首を振るが、肩の震えと乱れた呼吸は収まっていないまま小さく答える。
「ありません……」
「かなりショックを受けています。念のため受診しましょう」
女性は少し間を置いて頷き、警察官が声を掛ける。
「お名前を確認させてください」
女性は帽子を外し、続けてマスクとサングラスを外す。
店員が息を呑む。
「えっ……!」
客の一人が声を上げる。
「朝倉優香……!?」
ざわめきが広がる。
朝倉優香は歌と演技の両方で人気を集め、テレビや広告でよく見かける存在だった。
麻衣はその顔を見て、わずかに目を細める。
「……なるほど」
優香は頭を下げる。
「ありがとうございました。私のせいで怪我まで……」
麻衣は軽く首を振り、そのまま答える。
「気にしないで。無事で良かった」
優香が小さく頷くと、外から担架の準備が整ったと声が掛かる。
警察官が麻衣へ近付き、手帳を取り出す。
「お名前とご連絡先をお願いします」
麻衣は短く答える。
「加山麻衣です」
必要事項を記録しながら警察官は続ける。
「当時の位置関係だけ確認させてください」
麻衣は答え、警察官は頷く。
「詳しいお話は後日、改めてお願いします」
そう告げると、警察官は他の対応へと移る。
やがて準備が整い、麻衣と優香はそれぞれ別の救急車へ乗せられ、そのまま搬送される。
サイレンが再び鳴り、救急車が動き出した。
病院の救急外来。
処置室の白い灯りの下で、医師が麻衣の腕を取り、傷口を慎重に確かめる。
「浅いですね。縫う必要はありません。消毒して保護テープを貼っておきましょう」
消毒液が傷口へ染みるたび、麻衣はわずかに眉をひそめた。
医師は慣れた手つきで傷を消毒し、最後に透明な保護テープを丁寧に貼り付けていく。
その手元を見つめながら、麻衣はそっと視線を落とした。
本当なら、この程度の傷は《ヒール》を使えばすぐに治せる。
けれど診察を受けたあとで傷が消えてしまえば、誰が見ても不自然だ。
自然に治るまで、このままでいるしかない。
胸の奥に、わずかなもどかしさが残る。
それでも麻衣は何事もなかったように表情を整えた。
医師はテープの端を軽く押さえ、仕上がりを確認して頷く。
「これで処置は終わりです。今日は傷口を濡らさないようにしてください。痛みや腫れがひどくなるようでしたら、もう一度受診してください」
「ありがとうございます」
麻衣が頭を下げると、医師は穏やかに微笑んだ。
「お大事に」
医師が処置室を出るのと入れ替わるように扉が開く。
待っていた母の加山美紀は麻衣の姿を見るなり駆け寄り、そのまま強く抱き締めた。
「もう!警察から連絡が来た時、心臓が止まるかと思った!」
あまりの勢いに麻衣は少し苦笑しながら、母の背中へそっと手を添える。
「ごめん」
美紀は何度も頷きながら目尻を拭い、ようやく身体を離した。
その様子を静かに見守っていた父の加山恒一が、麻衣の腕へ目を向ける。
「このくらいで済んで良かった」
麻衣は照れくさそうに笑い、頷いた。
「うん」
一家の間に流れていた張り詰めた空気が、ようやく緩む。
一方、隣の処置室では朝倉優香の診察も終わっていた。
身体に目立った外傷はない。
ただ、精神的なショックが大きいため、今日は安静に過ごすよう医師から説明を受ける。
その頃、連絡を受けたマネージャーの佐伯誠が救急外来へ足早に入ってきた。
朝倉の無事を確認して胸をなで下ろした佐伯は、状況を聞き、助けてくれた少女とその家族がまだ病院にいることを知る。
「助けてくださった方に、ご挨拶だけでもさせていただけませんか」
受付の看護師へそう申し出ると、看護師は頷き、確認のため奥へ下がる。
数分後、戻ってきた看護師が佐伯へ声を掛ける。
「ご家族の了承をいただきました。こちらへどうぞ」
案内された待合スペースで、佐伯は麻衣たちの前まで歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました。お嬢さんのおかげで、朝倉は大事に至らずに済みました」
父の恒一も軽く頭を下げる。
「いえ。たまたま居合わせただけです」
美紀も穏やかに微笑む。
「麻衣も咄嗟に動いただけですから」
佐伯は内ポケットから名刺を取り出し、恒一へ両手で差し出した。
「申し遅れました。朝倉優香のマネージャーをしております、佐伯と申します」
恒一は名刺を受け取り、軽く目を通してから頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます」
佐伯も改めて一礼した。
「本日は取り急ぎ、お礼だけでもお伝えしたく参りました。改めて事務所からご連絡させていただければと思っております」
「承知しました」
恒一が頷くと、佐伯は安堵したように表情を和らげた。
その時、処置室の扉が静かに開く。
朝倉優香がゆっくりと姿を現した。
目元は少し赤く腫れているものの、大きな怪我は見当たらない。
優香は待合スペースを見渡し、麻衣を見つけると真っすぐ歩み寄った。
そして、その場で深く頭を下げる。
「本当にありがとうございました。直接お礼を言えて良かったです」
涙をこらえながら、言葉を選ぶように続ける優香を見て、麻衣は少し照れくさそうに笑った。
「もう謝らないでいいです。本当に無事で良かった」
優香は何度も頷く。
「はい。本当にありがとうございました」
二人はもう一度だけ会釈を交わし、それぞれ家族のもとへ戻っていった。
その日の夜。
帰宅した麻衣はリビングのソファへ腰を下ろすと、そこでようやく買い物を頼まれていたことを思い出した。
「……牛乳、買えなかった」
「今日はもういいから!」
美紀の声が台所から飛んでくる。
麻衣は少しだけ肩をすくめると、何となくテレビの電源を入れた。
ニュース番組から聞き覚えのある名前が流れ、自然と視線が画面へ向く。
「本日午後、人気アイドルの朝倉優香さんが都内のコンビニでストーカー被害に遭いました。現場に居合わせた人物が犯人を取り押さえ、駆け付けた警察官へ引き渡しています」
キャスターが事件の経緯を伝える横で、規制線が張られたコンビニや停車するパトカー、救急車の映像が次々と映し出される。
現場の映像が終わると、画面下には短いテロップが表示された。
『救助した人物の身元は公表されていません』
麻衣はその一文を見つめたまま、小さく息をつく。
「……これなら、まだ、バレてないかな」
ニュースは次の話題へ切り替わっていく。
しかし、その映像を見ていたのは麻衣だけではなかった。
SNSでは、現場を知る人たちの投稿が少しずつ増え始めていた。
『このコンビニ、うちの近所だ』
『今日、パトカーと救急車が何台も来てたのってこれか』
『現場に女子高生いたよね』
『制服だったよ』
『あの制服、南陽東じゃない?』
『現場にいた人も南陽東って言ってた』
『制服一致してる気がする』
『南陽東って本当?』
最初は現場を知る人たちの何気ない書き込みだった。
そこへ目撃情報が重なり、制服の特徴から学校名を推測する投稿が続いていく。
まだ助けた人物の名前を知る者はいない。
それでも「南陽東」という校名だけは、投稿を追うたび繰り返し目に入るようになっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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