第9話【旧姓クラブ】
乃亜のメッセージのあと、少しだけ間が空いた。
美緒はスマホを両手で持ったまま、画面を見つめていた。
みんなにも紹介するね。
その一文が、思っていたより重かった。
第9妻から第13妻まで。数字だけなら、さっき一覧で見た。けれど、これから話すのは、番号ではなく人だった。
天城蓮の妻たち。自分と同じ、下の方に置かれている人たち。
そう思うと、胸が少しだけ高鳴った。同時に、指先が冷えた。
すぐに、グループチャットの画面が動いた。
乃亜:
「みんな、新しい子来たよ」
乃亜:
「第13妻の美緒ちゃん」
乃亜:
「私の一個下。だから勝手に後輩だと思ってる」
後輩。
その言葉が、少しくすぐったかった。妻に先輩や後輩があるのかと思う。でも、第12妻と第13妻なら、たしかに乃亜の方が先にここにいた。
美緒は入力欄を開いた。
何を書けばいいのか分からない。はじめまして。よろしくお願いします。どれも正しいけれど、少し硬い。
迷っているうちに、別の名前が表示された。
桐谷麻衣:
「お、来た」
桐谷麻衣:
「ようこそ、下の方へ」
美緒は画面を見て、少しだけ目を丸くした。
ようこそ、下の方へ。
下位配偶者、という文字で見た時は冷たかった言葉が、麻衣の文面では少し違って見えた。軽い。明るい。自虐にしている。
その軽さに、美緒の胸が少し緩んだ。
桐谷麻衣:
「13番目って、逆に目立つじゃん。新作みたいで」
乃亜:
「麻衣さん、言い方」
桐谷麻衣:
「褒めてる褒めてる」
桐谷麻衣:
「大丈夫、大丈夫。下は下で、案外住み心地いいから」
美緒は、思わず小さく笑った。
住み心地。
下位妻という場所に、そんな言い方があるとは思わなかった。第13妻。下位配偶者。新参。そのどれもが、少しだけ鋭い形をしていた。でも麻衣がそう言うと、数字で切り分けられた場所ではなく、誰かが文句を言いながら座っている部屋みたいに思えた。
続けて、別の名前が出る。
小野寺千紗:
「いいよね、新しい子は」
美緒の指が止まった。
乃亜:
「千紗さん」
小野寺千紗:
「別に悪い意味じゃないよ」
小野寺千紗:
「13番目って、逆に話題性あるし」
桐谷麻衣:
「ほら、褒めてる褒めてる」
小野寺千紗:
「最初だけは、ちゃんと見られると思うよ」
その一文を読んだ時、美緒の胸の奥に、ほんの少しだけ何かが引っかかった。
最初だけ。ちゃんと見られる。
それは祝福なのか、忠告なのか。チャットの文字だけでは、声の温度が分からない。千紗がどんな顔でそれを書いたのかも分からない。
美緒が迷っていると、また別の名前が表示された。
白石琴葉:
「はじめまして、美緒ちゃん」
白石琴葉:
「分からないことがあったら聞いてね」
白石琴葉:
「私も最初、全然分からなかったから」
その文面は、やわらかかった。同じ文字なのに、麻衣とも千紗とも違う。角がない。遠くから、少し場所を空けてくれているような言葉だった。
白石琴葉:
「無理に話さなくて大丈夫だよ」
小野寺千紗:
「琴葉ちゃんは相変わらず優しいね」
白石琴葉:
「千紗さん、言い方……」
桐谷麻衣:
「ほら、美緒ちゃん。これがうちの通常運転」
乃亜:
「怖くないから大丈夫。たぶん」
美緒は、今度はちゃんと笑った。
たぶん。
その一言があったせいで、逆に安心した。怖くない、と言い切られるよりも、少し本当のことを混ぜてくれる方が、信じられる気がした。
美緒は、ようやく文字を打った。
佐倉美緒:
「はじめまして。第13妻の佐倉美緒です」
少し迷ってから、続けた。
佐倉美緒:
「まだ分からないことばかりですが、よろしくお願いします」
送信すると、すぐに既読が増えた。
一つ。二つ。三つ。四つ。
その数字を見て、美緒の胸が熱くなった。
見られている。ここでは、自分の言葉がちゃんと誰かに届いている。
一般ファンでもなく、居酒屋の店員でもなく、ただの佐倉でもなく。第13妻として。
桐谷麻衣:
「かたい!」
乃亜:
「でしょ」
白石琴葉:
「最初は緊張するよね」
小野寺千紗:
「まあ、最初から馴れ馴れしい子よりはいいんじゃない」
桐谷麻衣:
「千紗ちゃん、歓迎の仕方が下手」
小野寺千紗:
「歓迎してるって」
桐谷麻衣:
「じゃあもっと分かりやすく歓迎しなさい」
小野寺千紗:
「ようこそ。下の方って言っても、その中でまた順番あるから、気を抜かないように」
乃亜:
「それ歓迎じゃない」
美緒は、画面を見ながら少しだけ困った。
千紗の言葉は、やっぱり刺さる。
下の方の中でまた順番がある。
それは、たぶん本当だった。第9妻から第13妻まで。先に入った人がいて、後から入った人がいる。呼ばれた人がいて、呼ばれていない人がいる。何かを知っている人がいて、まだ何も知らない人がいる。
でも、麻衣や乃亜が笑いに変えてくれるから、今はまだ飲み込めた。
白石琴葉:
「千紗さん、最初から脅かさないでください」
小野寺千紗:
「脅してない。現実を言ってるだけ」
桐谷麻衣:
「はいはい、現実担当お疲れさまです」
乃亜:
「美緒ちゃん、気にしなくていいよ」
美緒は少し迷って、返信した。
佐倉美緒:
「大丈夫です」
本当に大丈夫かは分からなかった。でも、そう書きたかった。この場所に入ったばかりで、もう怖いとは思いたくなかった。
麻衣が、話題を切り替えるようにメッセージを送ってきた。
桐谷麻衣:
「美緒ちゃん、仕事してる?」
佐倉美緒:
「はい。居酒屋で働いてます」
送ってから、少し固まった。職場の情報を言ってよかったのか。規約には外部共有禁止と書いてあった。でもこれは内部だ。妻同士のグループだ。
美緒が考えているうちに、麻衣が返した。
桐谷麻衣:
「おお、仲間」
桐谷麻衣:
「私も普通に働いてるよ。美容部員」
小野寺千紗:
「私も派遣事務」
白石琴葉:
「私は保育士です」
乃亜:
「私は受付系。説明すると長いけど」
美緒は、その並びを見て、少しだけ目を細めた。
働いている。みんな、普通に働いている。天城蓮の妻なのに。
第1話の居酒屋で、客たちも言っていた。奥さんでも普通に働いている人がいるらしい、と。その言葉を聞いた時、美緒は少し胸をざわつかせた。
でも今、妻たち本人がそう書くと、同じことなのに違って見えた。
これは噂ではない。生活だった。
桐谷麻衣:
「外だと普通に旧姓だもんね。私なんて職場で独身扱いだよ」
乃亜:
「わかる。書類上は妻なのに、会社では何も変わんない」
小野寺千紗:
「何も変わんないどころか、変えたらアウトだからね」
白石琴葉:
「でも、変えたらすぐ分かっちゃうし……」
桐谷麻衣:
「天城って名乗って出勤したら、その日のうちに特定されるでしょ」
乃亜:
「一日どころか昼休みには終わってる」
桐谷麻衣:
「昼休み早いな」
美緒は、また笑った。
笑いながら、胸の奥が少しだけ痛かった。
天城って名乗って出勤したら。
それは、美緒が一度もできなかったことだった。これからもできないことだった。居酒屋では、佐倉さん。シフト表にも、佐倉。給与明細にも、佐倉。全部佐倉美緒。
妻になったのに、世界のどこにも妻としての痕跡がない。
でも今は、その痛みを笑っている人たちがいる。自分だけではなかった。それだけで、少し楽だった。
佐倉美緒:
「私も、職場では普通に佐倉です」
送ったあと、少しだけ心臓が鳴った。
自分の痛みを、初めてここに置いた気がした。
すぐに、乃亜が返した。
乃亜:
「だよね」
乃亜:
「みんなそう」
桐谷麻衣:
「うちら、外では旧姓クラブだから」
小野寺千紗:
「そのクラブ名、ださすぎ」
白石琴葉:
「でもちょっと分かりやすいです」
桐谷麻衣:
「琴葉ちゃんが肯定したから採用」
乃亜:
「勝手に採用しないで」
会話が流れていく。
軽くて、少し雑で、でも温かかった。
上位妻や中位妻の名前を見た時、美緒は背筋を伸ばした。規約を読んだ時、息を詰めた。妻一覧で自分の名前を見た時、一番下にいることを知った。
でも、このチャットでは少し違う。
下の方。旧姓クラブ。職場では独身扱い。天城って名乗ったら昼休みには終わる。
痛いことが、笑いになっていた。
痛みが消えるわけではない。でも、痛いと言わなくても分かってもらえる感じがあった。
美緒は、画面の中の名前を一つずつ見た。
桐谷麻衣。小野寺千紗。白石琴葉。三枝乃亜。
まだ顔も知らない。声も知らない。でも、少しずつ温度が違う。
麻衣は明るい。千紗は刺さる。琴葉はやわらかい。乃亜は近い。
ここなら、分かってもらえるかもしれない。
推しの妻になったのに孤独なこと。妻なのに名乗れないこと。外では何も変わらないこと。下位という言葉が痛いのに、誰かに軽くしてほしいこと。
乃亜:
「美緒ちゃん、無理に全部返さなくていいからね」
白石琴葉:
「そうそう。読むだけでも疲れると思うし」
桐谷麻衣:
「うちら情報量多いからね」
小野寺千紗:
「うるさいだけでしょ」
桐谷麻衣:
「それも情報量」
美緒は、また笑った。今度は少しだけ、声が出た。
部屋には自分一人しかいない。
でも、画面の中には人がいる。
そのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。
佐倉美緒:
「ありがとうございます」
乃亜:
「またかたい笑」
桐谷麻衣:
「これは時間かかるタイプだ」
小野寺千紗:
「真面目な子ほど後で壊れるから気をつけて」
白石琴葉:
「千紗さん」
小野寺千紗:
「はいはい」
そのやり取りに、美緒は少しだけ引っかかった。
真面目な子ほど後で壊れる。
冗談なのか、本気なのか分からない。今はまだ深く考えたくなかった。
乃亜:
「大丈夫。美緒ちゃんは私が見るから」
その文字を見て、美緒の胸が温かくなった。
私が見るから。
軽い冗談かもしれない。でも、美緒には十分だった。
天城蓮本人からの言葉ではない。夫からの優しさではない。第13妻として特別に呼ばれたわけでもない。
それでも今、美緒は少しだけ救われていた。
下の方。
その言葉は、まだ痛い。
でも、下の方にいるのが自分だけではないなら。ここでなら、少し笑えるのかもしれない。




