第10話【呼ばれない夜】
グループチャットの会話は、しばらく続いた。
麻衣が話題を広げ、千紗が少し刺し、琴葉がやわらかく止めて、乃亜が美緒の近くに戻してくれる。その流れが、少しずつ分かってきた。
まだ顔も声も知らないのに、文字だけで、その人たちの立ち位置が少し見えた気がした。
美緒は、ベッドの上でスマホを見つめていた。
部屋には一人しかいない。けれど、さっきまでの一人とは少し違っていた。
スマホの画面の中に、返事をしてくれる人たちがいる。自分の言葉に既読がつく。自分が「佐倉美緒」であり、「第13妻」であることを知った上で、話しかけてくれる人たちがいる。
それだけで、胸の奥の固いところが少しほどけた。
天城蓮本人から連絡が来たわけではない。呼ばれたわけでも、名前を呼ばれたわけでもない。妻として何かを与えられたわけでもない。
でも、少し満たされていた。
それは、夫からではなかった。妻仲間からだった。
そのことが少し不思議で、少しだけ皮肉だった。推しの妻になったのに、推し本人ではなく、同じように待っている人たちの言葉に救われている。
美緒は、スマホを胸の近くに寄せた。
その時、個別チャットの通知が出た。乃亜だった。
乃亜:
「疲れた?」
美緒は、少し笑った。
たしかに、疲れていた。グループチャットは楽しかった。でも、情報量が多かった。名前、番号、職場、旧姓、下の方、呼ばれる、呼ばれない。初めて聞く言葉ではないものも、妻たち本人の口から出ると重さが違った。
佐倉美緒:
「少しだけ」
送ってから、もう少し正直に足した。
佐倉美緒:
「でも、ちょっと安心しました」
すぐに既読がついた。
乃亜:
「最初、情報量すごいよね」
乃亜:
「私も最初、ずっと画面見てた」
乃亜:
「なんか、ほんとに入っちゃったんだなって感じで」
美緒は、その文を何度も読んだ。
ほんとに入っちゃったんだな。
それは美緒が言葉にできなかった感覚だった。
配偶者登録通知を見た時、妻コミュニティの規約を読んだ時、妻一覧に自分の名前があった時。そのたびに、美緒は少しずつ別の場所へ入っていった。
でもその場所は、画面の中にしかなかった。外の世界では、何も変わらない。居酒屋では佐倉さん。イベント会場でも、ただのファン。SNSでは匂わせを書いても、全部は言えない。
本当に入ったのか、自分でも分からなくなる。
でも乃亜は、同じような言葉でそれを言った。
美緒はゆっくり打った。
佐倉美緒:
「第13妻って、もっとひとりなのかと思ってました」
送信してから、少し恥ずかしくなった。重かったかもしれない。入りたての人間が言うには、急すぎたかもしれない。
けれど、乃亜の返信は軽かった。
乃亜:
「わかる」
乃亜:
「私も第12妻って出た時、世界に私しかいないみたいな気がした」
乃亜:
「でも、下の方はだいたいみんなそんな感じだから」
美緒は、画面を見つめた。
だいたいみんなそんな感じ。
その雑な言い方が、優しかった。特別に深刻がられるよりも、ずっと楽だった。
佐倉美緒:
「乃亜さんがいてくれてよかったです」
乃亜:
「さん、いらないって言ったでしょ」
美緒は、あ、と声に出しかけた。
乃亜:
「乃亜でいいよ」
乃亜:
「私も美緒ちゃんって呼ぶし」
美緒は返信した。
佐倉美緒:
「じゃあ、乃亜ちゃん」
少し間が空いた。
乃亜:
「うん」
乃亜:
「よろしく、美緒ちゃん」
美緒は、スマホの画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
友達みたいだと思った。
妻になったあとにも、友達みたいな人ができるのかもしれない。第3話の夜にも、そう思った。でも今は、その言葉がもう少し形を持っている。
乃亜ちゃん。そう呼べる人ができた。
それだけで、今夜は少し違った。
個別チャットを閉じると、グループチャットに新しいメッセージが来ていた。
桐谷麻衣:
「そういえば、最近誰か呼ばれた?」
その一文で、空気が少しだけ変わった気がした。
呼ばれた。
その言葉は、さっきまでの「旧姓クラブ」や「下の方」とは少し違う温度を持っていた。
天城蓮に呼ばれる。それは、妻であることのもっと直接的な証だった。
美緒は、まだ呼ばれていない。
第13妻として登録された。妻コミュニティに入った。下位妻グループにも入った。乃亜ちゃんと呼べる人もできた。
でも、天城蓮本人からは、まだ呼ばれていない。
そのことが、初めて少しだけ輪郭を持った。
小野寺千紗:
「それ聞く?」
桐谷麻衣:
「いや、確認。平和確認」
乃亜:
「平和確認って何」
白石琴葉:
「私は最近ないです」
小野寺千紗:
「私も。まあ、いつものことだけど」
桐谷麻衣:
「私もなし」
乃亜:
「私もない」
桐谷麻衣:
「じゃあ今日も下の方は平和だね」
その言葉に、チャット内でスタンプがいくつか流れた。笑っている顔。脱力した猫。布団に倒れ込むキャラクター。
美緒も、少し笑った。
誰も呼ばれていない。その言葉に、みんなが少しだけ笑っている。
笑えることなのかは、まだ分からなかった。
呼ばれないことは、寂しいことではないのだろうか。妻なのに、夫に呼ばれない。それを平和と呼ぶのは、どういうことなのだろう。
でも今は、そこまで深く考えたくなかった。
ただ、下位妻たちの中では、呼ばれることと呼ばれないことが、いつも会話の中心にあるのだと分かった。それは小さな発見だった。そして、たぶん大事なことだった。
桐谷麻衣:
「誰も呼ばれてないなら、今度飲もうよ」
乃亜:
「出た」
小野寺千紗:
「どうせ暇だしね」
白石琴葉:
「飲むんですか?」
桐谷麻衣:
「呼ばれない夜は飲むに限る」
小野寺千紗:
「それ、名言みたいに言わないで」
乃亜:
「下位妻の恒例行事みたいにしないで」
桐谷麻衣:
「もう半分なってるでしょ」
白石琴葉:
「少しだけなら……」
琴葉のその一文を見て、美緒は少しほっとした。
琴葉はいつも、少し遅れて、やわらかく入ってくる。その感じが、好きだと思った。
桐谷麻衣:
「美緒ちゃんも来なよ」
画面に自分の名前が出て、美緒の心臓が小さく鳴った。
美緒ちゃんも。
その一言だけで、ちゃんと輪の中に入れてもらった気がした。
佐倉美緒:
「私も、行っていいんですか」
送ってから、少しだけ後悔した。行っていいんですか、なんて。まるで自分だけ外にいるみたいだ。
でも、すぐに返事が来た。
乃亜:
「もちろん」
桐谷麻衣:
「むしろ主役でしょ。新人歓迎会も兼ねよ」
小野寺千紗:
「主役っていうとまた変に緊張するでしょ」
白石琴葉:
「美緒ちゃんが無理じゃなければ」
美緒は、画面を見つめた。
無理じゃなければ。その言葉が、琴葉らしくて、胸が少し温かくなった。
佐倉美緒:
「行きたいです」
送信する。
その瞬間、美緒は、自分が思っていたよりその言葉を言いたかったことに気づいた。
行きたい。この人たちに会ってみたい。画面の向こうの温度を、ちゃんと確かめてみたい。第13妻として、同じ下の方にいる人たちと、同じテーブルに座ってみたい。
天城蓮に呼ばれたわけではない。
それでも、美緒は誰かに誘われた。そのことが、少しだけ嬉しかった。
桐谷麻衣:
「決まり」
乃亜:
「やった」
小野寺千紗:
「じゃあ場所、いつものとこ?」
白石琴葉:
「美緒ちゃんが来やすいところにしましょう」
乃亜:
「美緒ちゃん、あとで候補送るね」
佐倉美緒:
「ありがとう、乃亜ちゃん」
今度は、さんをつけなかった。
送ってから、少しだけ緊張した。でも乃亜は、すぐに笑うスタンプを送ってきた。
それだけで、美緒はほっとした。
部屋は相変わらず静かだった。
冷蔵庫の小さな音。外を通る車の音。隣の部屋からかすかに漏れるテレビの声。
現実の部屋には、美緒一人しかいない。
けれど、スマホの画面の中では、予定ができていた。
呼ばれない夜の予定。
夫に呼ばれないことを前提にした予定。天城蓮からの通知が来ない夜を、妻たち同士で埋める予定。
それは、よく考えれば寂しいことなのかもしれない。
でも今は、寂しさより安心が先に来た。
ひとりで待たなくていい。それだけで十分だった。
美緒は、グループチャットをもう一度見た。
桐谷麻衣:
「呼ばれない夜は飲むに限る」
小野寺千紗:
「それ、名言みたいに言わないで」
乃亜の笑うスタンプ。
白石琴葉:
「少しだけなら」
美緒はその画面を見て、少しだけ笑った。
まだ蓮さんには呼ばれていない。
でも今夜は、ひとりで待たなくてもいい気がした。




