第11話【下の方の夜会へ】
下位妻グループの通知を見ることに、美緒は少しずつ慣れてきていた。
最初は、画面を開くたびに指先が固くなった。第9妻から第13妻まで。その数字の中に自分が入っていることが、嬉しくて、怖かった。
でも今は、通知欄に「下位配偶者グループ」と出ても、すぐに息を詰めなくなった。
麻衣がくだらないスタンプを送る。千紗が少し刺す。琴葉がやわらかく止める。乃亜が美緒の名前を呼ぶ。
その流れが、少しずつ分かってきた。
まだ、何でも話せるわけではない。天城蓮の妻であることに慣れたわけでもない。下位という言葉が痛くなくなったわけでもない。
それでも、美緒はもう、ひとりではない気がしていた。
乃亜とは、個別チャットもするようになっていた。
朝、仕事に行く前に短くやり取りする。夜、店から帰ってきて、返信が来ているのを見る。内容は大したことではない。
今日の客が面倒だったとか。店長の話が長かったとか。麻衣がまた変なスタンプを買っていたとか。千紗の言い方が相変わらずだったとか。
そういう、小さなことだった。
けれど、その小ささが美緒にはありがたかった。
妻コミュニティ全体の画面は、まだ少し怖い。上位配偶者。中位配偶者。下位配偶者。その区分を見るたび、自分の場所を思い出す。
でも、乃亜との画面には、そういう言葉があまり出てこない。
乃亜:
「今日も仕事?」
美緒:
「うん。夕方から」
乃亜:
「えらい」
美緒:
「乃亜ちゃんも仕事?」
乃亜:
「仕事。もう帰りたい」
そんなやり取りだけで、少し息がしやすくなる。
美緒はスマホをベッドの上に置いた。
部屋の時計は二十時を少し過ぎていた。今日は居酒屋のシフトが入っていない。夜の予定もない。
予定がない夜は、今までなら楽だった。洗濯をして、適当にご飯を食べて、動画を見て、天城蓮の過去の出演作を流して、眠る。それで十分だった。
でも今は、予定がない夜が少し重い。
スマホが鳴らない。それだけで、部屋が静かすぎる気がする。
美緒は配偶者用アプリを開いた。
通知はない。
【対象者より個別連絡があります】
そんな文字は、どこにも出ていない。
第13妻として登録された。妻コミュニティに入った。下位妻グループにも入った。
でも、天城蓮本人からはまだ呼ばれていない。
そのことを考えると、胸の奥が少しだけ冷えた。
蓮さんは忙しい。そう思う。当然だ。天城蓮は国民的俳優で、ドラマも映画もイベントもある。妻は自分だけではない。第1妻から第12妻まで、もう十二人もいる。その中に入れてもらえただけで、十分なはずだった。
十分。
美緒は、その言葉を胸の中で繰り返した。
それでも、配偶者用アプリの通知欄が空っぽなのは、思っていたより寂しかった。
スマホが震えた。
美緒は反射的に画面を見た。配偶者用アプリではなかった。下位配偶者グループの通知だった。
桐谷麻衣:
「今日、誰も呼ばれてないなら飲まない?」
続けて、もう一通。
桐谷麻衣:
「呼ばれない夜は飲むに限る」
美緒は、その文字を見つめた。
呼ばれない夜。
それは、美緒がさっきまで一人で感じていたものだった。スマホが鳴らない夜。配偶者用アプリに通知が来ない夜。天城蓮から何も届かない夜。
それに、名前がついた。
乃亜:
「行く」
返信は早かった。
小野寺千紗:
「どうせ暇だし」
少し遅れて、琴葉からも来る。
白石琴葉:
「少しだけなら」
麻衣:
「決まり」
麻衣:
「下の方、集合」
千紗:
「その言い方、好きじゃない」
麻衣:
「じゃあ、呼ばれなかった組」
千紗:
「もっと嫌」
乃亜:
「どっちも嫌」
琴葉:
「でも、ちょっと分かりやすいです」
麻衣:
「琴葉ちゃんが肯定したので採用」
千紗:
「勝手に採用しないで」
画面の中で、会話が流れていく。
美緒は少し笑った。
笑ってから、自分がまだ何も返していないことに気づく。
行っていいのだろうか。誘われているのは分かる。下位妻グループの一員として、きっと呼ばれている。でも、まだ新入りだ。第13妻。いちばん後から入った人。何も知らない人。
美緒が迷っていると、グループの中で乃亜が名前を出した。
乃亜:
「美緒ちゃんは?」
その文字を見た瞬間、胸が少し温かくなった。
ちゃんと、自分も数に入っている。
佐倉美緒:
「私も……行っていいですか?」
送ってから、少しだけ恥ずかしくなった。行っていいですか、なんて。また自分だけ外から入れてもらうみたいな言い方だ。
すぐに、麻衣から返ってきた。
桐谷麻衣:
「もちろん」
桐谷麻衣:
「下の方の夜会へようこそ」
乃亜:
「夜会って言うと豪華そうだけど、たぶん普通に安い店だよ」
小野寺千紗:
「むしろ安い店じゃないと無理」
白石琴葉:
「駅前のところですか?」
桐谷麻衣:
「そこ。飲み放題安いし」
天城蓮の妻たちが、飲み放題の安い店に集まる。
そのことが少しおかしくて、少し安心した。
豪華な店ではない。誰かが予約した個室でもない。駅前の、たぶん会社帰りの人たちが使うような店。そこに、天城蓮の第9妻から第13妻までが集まる。
妻なのに。
でも、それが今の美緒にはありがたかった。
佐倉美緒:
「行きます」
乃亜:
「やった」
麻衣:
「新人参加」
千紗:
「新人歓迎会、まだやってなかったね」
琴葉:
「じゃあ、今日はそれも兼ねましょう」
麻衣:
「呼ばれなかった組兼新人歓迎会」
千紗:
「名前が重い」
乃亜:
「でも合ってる」
美緒は、画面を見ながら小さく笑った。
呼ばれていないことは、本来なら寂しい。妻なのに、夫から連絡が来ない。登録されたのに、まだ会えない。名前はアプリの中にあるのに、本人の声は届かない。
それは、ちゃんと寂しい。
でも、ここではそれが集まる理由になる。
呼ばれない夜。それを言葉にして、笑って、飲みに行こうと言える人たちがいる。
美緒の胸の奥の冷えた場所に、誰かが先に座っていた。
ひとりで待つよりは、誰かと一緒に待つ方が楽なのかもしれない。
美緒はそう思った。
配偶者用アプリをもう一度だけ開いた。
通知はない。やっぱり、何も来ていない。
それを見ても、さっきほど胸は沈まなかった。
今夜は別の通知がある。
下位妻グループの通知。乃亜の「やった」。麻衣の「新人参加」。千紗の「名前が重い」。琴葉の「兼ねましょう」。
その全部が、今の美緒を少しだけ支えていた。
美緒はクローゼットを開けた。
何を着ていけばいいのか、少し迷う。
天城蓮に会うわけではない。妻向け行事でもない。ただ、下位妻たちと安い店に行くだけだ。
それでも、適当すぎる服では行きたくなかった。
妻仲間に会う。そう思うと、少しだけ背筋が伸びる。
美緒は、派手すぎないニットとスカートを選んだ。髪を軽く整えて、リップを塗る。
鏡の中の自分は、いつもの佐倉美緒だった。天城姓は、どこにもない。第13妻だと分かるものもない。
でも、スマホの中には待ち合わせ場所が届いている。
乃亜:
「駅の東口で待ち合わせね」
乃亜:
「迷ったら迎えに行く」
佐倉美緒:
「大丈夫。行けると思う」
少し迷ってから、もう一文足す。
佐倉美緒:
「ありがとう、乃亜ちゃん」
すぐに、乃亜から笑うスタンプが来た。
それだけで、夜の温度が少し変わった気がした。
美緒はバッグにスマホを入れた。
部屋の電気を消す前に、もう一度だけ画面を見た。配偶者用アプリには、まだ通知はない。
でも、下位妻グループには新しいメッセージが増えている。
麻衣:
「先着した人、席取っといて」
千紗:
「麻衣さんが一番近いでしょ」
琴葉:
「私は少し遅れるかもしれません」
乃亜:
「美緒ちゃんと合流してから行く」
美緒は、そこで少し止まった。
乃亜ちゃんと一緒に行く。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
呼ばれない夜を、ひとりで過ごさなくていい。
そのことが、思ったよりも嬉しかった。
美緒はスマホをバッグに入れて、待ち合わせ場所へ向かった。




