第12話【飲み放題のグラス】
駅前の居酒屋は、思っていたより普通だった。
天城蓮の妻たちが集まる場所。そう考えると、会員制のラウンジとか、個室のあるきれいな店とか、そういう場所を想像してしまう。
けれど、乃亜に連れられて入ったのは、駅ビルの裏側にあるチェーンの居酒屋だった。
入口には飲み放題のポスターが貼ってある。靴を脱がないテーブル席。少しだけ油っぽい床。薄いおしぼり。タッチパネル式の注文端末。隣の席では、会社員らしい男たちが大きな声で笑っていた。
「こっちこっち」
奥の六人席で、麻衣が手を振った。
桐谷麻衣は、画面で見ていた文字の印象そのままの人だった。明るい。声が通る。笑う時に、場の空気ごと少し軽くする。服も髪もきれいに整っていて、安い居酒屋のテーブルに座っていても、どこかコスメカウンターの人らしい華やかさがあった。
その向かいに、小野寺千紗が座っている。
千紗は、美緒を見て軽く顎を上げた。
「来たね、新人」
声は平坦だった。けれど、完全に冷たいわけではない。
隣には、白石琴葉がいた。琴葉は両手でグラスを持っていて、美緒と目が合うと、少しだけ会釈した。
「こんばんは、美緒ちゃん」
その言い方がやわらかくて、美緒は少しほっとした。
「こんばんは」
美緒は、乃亜の隣に座った。
乃亜は当たり前のように、美緒の分のおしぼりを取って渡してくれる。
「はい」
「ありがとう」
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなる。ここに来ていいのだと、体が少しずつ理解していく感じがした。
麻衣がタッチパネルを引き寄せる。
「美緒ちゃん、飲める?」
「少しなら」
「いいね。じゃあ一杯目は適当に頼んでいい?」
「はい」
「はい、かたい」
乃亜が笑った。
「まだ慣れてないんだよ」
「慣れてない感じ、かわいいけどね」
麻衣がそう言うと、千紗がすぐに口を挟んだ。
「若い後妻って感じ」
「千紗ちゃん、初手から刺さない」
「刺してない。言っただけ」
琴葉が困ったように笑う。
「千紗さん、言い方……」
そのやり取りを見て、美緒も少し笑った。
画面の中で見ていた会話が、目の前で動いている。麻衣の軽さ。千紗の刺さる言葉。琴葉のやわらかさ。乃亜の近さ。それが、文字ではなく声になっていた。
飲み物が届くと、麻衣がグラスを持ち上げた。
「はい、じゃあ」
少しだけ声を張る。
「今日も呼ばれなかった組に乾杯」
乃亜がすぐに顔をしかめる。
「その乾杯、嫌すぎる」
「事実じゃん」
千紗がグラスを持ち上げながら言った。琴葉は小さく笑った。
「でも、こういうのがあると助かるかも」
美緒も、少し遅れてグラスを持ち上げた。
「乾杯」
グラスが軽くぶつかる。
音は小さかった。周りの席のざわめきに混ざれば、すぐに消えてしまうくらいの音だった。
それでも美緒には、その音が少しだけ特別に聞こえた。
天城蓮の妻たちが、駅前の安い居酒屋で、飲み放題のグラスを持っている。しかも乾杯の理由は、誰も呼ばれなかったこと。
おかしい。少し惨めで、少し笑える。
でも、美緒は本当に笑っていた。
ひとりで配偶者用アプリの通知欄を見る夜より、ずっとましだった。
テーブルには、すぐに料理が並び始めた。
ポテト。枝豆。シーザーサラダ。唐揚げ。だし巻き卵。
麻衣が手際よく取り皿を配る。
「美緒ちゃん、遠慮しないで食べな。こういう店は最初に食べた人が勝ち」
「勝ちとかあるんですか」
「あるよ。後半、ポテト冷めるから」
「現実的すぎる」
乃亜が笑う。
千紗は唐揚げを一つ取って、何でもない顔で言った。
「天城蓮の妻が、冷めたポテトの心配してるの、普通に終わってる」
「はいはい、重い話禁止」
麻衣がすぐに流した。
「今日は飲む日」
「麻衣さんが言い出したんでしょ」
「言い出したけど、沈むのは禁止」
琴葉がグラスを両手で包む。
「でも、みんなで話せるのは、ちょっと助かる」
その言葉で、テーブルの空気が一瞬だけ静かになった。
ほんの少し。誰も大きく反応しなかった。
でも、美緒は分かった。たぶん、みんな同じ場所に触れられた。
呼ばれない夜。笑っているけれど、本当は平気ではない夜。妻なのに夫がいない夜。スマホが鳴るかもしれないと思いながら、鳴らないことを確認してしまう夜。
美緒は、唐揚げに箸を伸ばした。
私だけじゃないんだ。
その言葉が、胸の奥で思っていたより深く沈んだ。
会話は、少しずつ普通のものに戻っていった。
麻衣は職場の客の話をした。
「今日さ、ファンデ選びに来た人が、ずっと『若く見えるやつ』って言うの。気持ちは分かるけど、若く見えるって幅広すぎるんだよね」
「美容部員って大変そう」
「大変だよ。人の肌と機嫌、両方見る仕事だから」
「それ、妻コミュニティと変わらないじゃん」
「やめて、仕事増える」
乃亜は受付で来た面倒な客の話をした。琴葉は、職場の子どもが覚えた言葉の話をした。
「今日、園の子が『それはコンプライアンス的にどうなの』って言ってて」
「何歳?」
「五歳です」
「五歳の方が社会性あるじゃん」
「千紗ちゃん、疲れてる?」
美緒も、居酒屋の話を少しだけした。酔った客が注文を忘れて、二回同じものを頼んだこと。宮原がそれを「二回目も新鮮な気持ちで飲めるってことですね」と適当に受け流したこと。店長が少しだけ本気で怒っていたこと。
麻衣が笑う。
「その宮原くんって人、ちょいちょい出てくるよね」
「同じ職場なので」
「距離近いの?」
「近いです。物理的に」
「物理的に近い男はだいたい面倒だよ」
乃亜が美緒を見る。
「大丈夫? 嫌な感じ?」
「嫌というか、軽いです」
「軽い男は軽いうちは楽だよ」
麻衣がそう言うと、千紗が鼻で笑った。
「重くなった時が面倒なんだよね」
「千紗ちゃん、経験者の顔」
「全人類経験者でしょ」
また笑いが起きる。
本当に普通の女の人たちの会話だった。仕事。客。化粧品。職場の男。そういう話が続く。
けれど、気づくと、話題は天城蓮に戻っていた。
「そういえば、蓮さん、今ドラマ撮ってるんだよね」
麻衣が何気なく言った。
「医療ものだっけ」
「そうそう。白衣着てるやつ」
「イベントの時、ちょっと痩せてたよね」
「見た。疲れてそうだった」
琴葉が小さくうなずく。
「忙しいんだと思います」
「忙しいのは分かるけどさ」
千紗がグラスの氷を回した。
「忙しいって便利な言葉だよね」
「千紗さん」
「だって、呼ばれなくても忙しいからって思えるじゃん」
美緒は箸を止めた。
忙しいから。
さっき自分も、部屋でそう思った。蓮さんは忙しい。だからまだ呼ばれない。だから通知が来ない。だから仕方ない。
そう思うと、少し楽だった。
でも、千紗の声で聞くと、その言葉は少し苦かった。
麻衣が明るく割り込む。
「はいはい、重い。まだ二杯目」
「じゃあ、まだ二杯目」
乃亜が美緒の方を見て、少しだけ笑った。
「美緒ちゃん、気にしなくていいよ。千紗さん、いつもこうだから」
「いつもこうって何」
「いつも現実担当」
「誰かが担当しないとね」
千紗はそう言って、唐揚げを食べた。
その態度が、少しおかしくて、少し痛かった。
この人はたぶん、何度も同じ夜を過ごしている。呼ばれない夜。忙しいから、と自分に言い聞かせる夜。誰かが呼ばれたかもしれないと考える夜。それを何度も越えて、今の言い方になったのだと思った。
美緒はまだ、そこまで知らない。
まだ登録されたばかりで、まだ呼ばれていないことにも、どこか期待が混じっている。いつか呼ばれる。そう思える。だから千紗の言葉の奥まで、本当には分からない。
でも、少しだけ怖かった。
麻衣が飲み物を追加で頼む。
「美緒ちゃん、次どうする?」
「あ、同じので」
「了解。琴葉ちゃんは?」
「私はウーロン茶にします」
「えらい」
「明日、早いので」
「妻なのに明日仕事」
「麻衣さんもですよね」
「そう。妻なのに明日美容部員」
麻衣は笑いながら、タッチパネルを操作した。
「妻なのに明日派遣」
千紗が続ける。
「妻なのに明日保育士」
琴葉が続ける。
「妻なのに明日受付」
乃亜が続ける。
美緒も、少し遅れて言った。
「妻なのに、明日居酒屋」
言った瞬間、みんながこちらを見た。それから、麻衣がぱっと笑う。
「いいじゃん。馴染んできた」
乃亜が嬉しそうに言う。
「美緒ちゃんが言った」
琴葉も、やわらかく笑った。
「そういうの、言えると少し楽ですよね」
千紗だけが、少しだけ目を細める。
「楽にはなるけど、慣れると危ないよ」
その一言に、テーブルの空気がほんの少しだけ沈んだ。
でも麻衣がすぐに手を叩く。
「はい、現実担当いったん休憩」
「休憩手当出る?」
「出ない」
「ブラックだね、下位妻グループ」
「それはそう」
みんなが笑った。美緒も笑った。
笑いながら、今の千紗の言葉が少しだけ残った。
慣れると危ない。
何に慣れるのだろう。呼ばれないことに。下位であることに。妻なのに妻らしいものが何もないことに。夫のいない夜を、同じ立場の女たちと笑って過ごすことに。
考えかけて、美緒はやめた。
今日は飲む日。麻衣の言葉を借りるなら、そういう日だった。
しばらくすると、話題はまた別のものになった。
天城蓮の最近のドラマ。過去の役。イベントでの表情。舞台の時の声。
結局、そこに戻る。
天城蓮はいない。このテーブルのどこにもいない。
なのに、誰かが彼の名前を出すたびに、全員の視線が少しだけ同じ方向を向く。スマホを見る。記憶を探る。知っていることを、少しだけ出す。
妻たちだけの夜なのに、真ん中の席だけが、ずっと空いているみたいだった。
美緒は、その空席を不気味だとは思わなかった。
自分も、その席を見ていたから。
「呼ばれる時って、どんな通知が来るんですか」
気づいたら、美緒は聞いていた。
テーブルが少しだけ静かになった。
すぐに麻衣が笑った。
「お、気になる?」
「あ、すみません」
「謝らなくていいよ。みんな気になるから」
乃亜が、グラスの縁を指でなぞる。
「普通だよ。びっくりするくらい」
「普通?」
「うん。配偶者用アプリから通知が来るの」
琴葉が静かに言った。
「対象者より個別連絡があります、みたいな」
「それだけ?」
「それだけ」
千紗が答えた。
「それだけで、心臓おかしくなるよ」
麻衣が笑う。
「ほんとそれ。通知音で寿命縮む」
「でも来ないと来ないで、寿命縮む」
千紗が言う。
「結局縮むんだ」
乃亜が笑った。
「縮むよ。下位妻の寿命は通知で削られてる」
麻衣の言葉に、みんなが笑った。美緒も笑った。
でも、胸の奥は少し熱くなっていた。
対象者より個別連絡があります。
その文字を想像しただけで、指先が少し冷える。
もし、自分のスマホにそれが来たら。蓮さんから。第13妻の自分に。
美緒は、膝の上のスマホを見た。画面は暗い。何も来ていない。
それでも、待ってしまう。
さっきまで、一人で待つよりましだと思っていた。今もそう思う。
けれど、このテーブルにいても、美緒はやっぱり待っている。みんなで笑っていても。ポテトを食べていても。千紗の毒に笑っていても。
待っている。
天城蓮のいない夜の真ん中に、ずっと天城蓮がいる。
美緒はそのことを、まだ苦しいとは思わなかった。
むしろ、うれしかった。
みんなも同じように待っている。夫のいない夜を、夫の話をしながら過ごしている。
私だけじゃない。
そう思えることが、今は救いだった。
飲み放題のグラスが少しずつ空になっていく。タッチパネルの注文履歴には、安い料理の名前が並んでいる。会計はあとで割り勘アプリで送るらしい。
天城蓮の妻たちは、普通に終電を気にしていた。
麻衣は明日のシフトを確認し、千紗は派遣先の愚痴を言い、琴葉は早起きしなければと小さく言い、乃亜は美緒に「帰り、一緒に駅まで行こう」と言った。
全部、普通だった。
普通すぎて、少し泣きそうになる。
美緒は笑っていた。本当に笑っていた。
でも、笑っている内容は、たぶん少しだけ痛かった。
呼ばれてもいないのに妻って、何なんだろうね。
千紗の言葉が、ふと戻ってくる。
美緒は、その言葉を奥へ押し込めるように、グラスを持ち上げた。
今はまだ、考えなくていい。
ひとりで待つより、ずっとましだった。
蓮さんはいない。それでもこの夜はずっと、蓮さんを中心に回っている。
美緒はその輪の中に、自分も入れた気がしていた。




