第13話【甘い願いの向こう側】
「そういえばさ」
麻衣が、ポテトを一本つまみながら言った。
「第2妻さんの子どもの行事、蓮さん来たらしいよ」
美緒は、グラスを持つ手を止めた。
天城蓮。子ども。行事。
その三つの言葉が、少し離れたところから急にテーブルの真ん中へ置かれた気がした。
乃亜が顔を上げる。
「あ、それ見た。古妻ノートで噂になってた」
「古妻ノート?」
美緒は聞き返した。
名前だけは知っていた。
けれど、ちゃんと見たことはない。見ると戻れなくなりそうで、なんとなく避けていた場所だった。
「匿名の掲示板みたいなやつ」
乃亜が、少し声を落として言った。
「妻とか、元妻とか、なれなかったファンとかが書いてる。どこまで本当か分かんないけど、内部っぽい話も流れるから、みんな見る」
「みんなって言わないで」
千紗が呆れたように言う。
「見るでしょ」
「見ない方がいいって分かってて見るやつ」
「千紗ちゃんも見てるじゃん」
「見てるけど」
「ほら」
麻衣が笑った。
「“古妻”って、先に登録された妻のことをちょっと嫌な感じで言うやつね。古参妻、みたいな。まあ、言葉からして性格悪い場所」
琴葉が、少し困ったように眉を下げた。
「そういうの、子どものことだから、あんまり書かない方がいいと思うけど……」
声はやわらかかった。でも、そのやわらかさの中に、ちゃんと線があった。
美緒は琴葉を見た。琴葉は、こういう時に強く言わない。強く言わないのに、聞き流せない言い方をする。
子どもの話になると、琴葉の声は少しだけ真面目になる。
麻衣は、悪びれた様子もなく肩をすくめた。
「まあね。子どもはね。書く方もどうかと思うけど、見ちゃうんだよね」
「見ちゃうよ」
乃亜が小さく言った。
千紗はグラスを置いた。
「でも、来るんだね。父親っぽいこと」
その言葉で、テーブルの空気が少しだけ止まった。
父親っぽいこと。
天城蓮は、美緒にとっては推しで、夫で、まだ一度も呼ばれていない人だった。でも、誰かにとっては父親でもある。
第2妻の子ども。その子は、天城蓮の子どもなのだ。
知識としては知っていた。第1話の居酒屋でも、客たちが言っていた。天城蓮のところには子どもがいるらしい。第一妻にはいないらしい。その時は、遠い噂だった。
今は違う。同じ妻たちのテーブルで、その話を聞いている。
麻衣が、少し軽く笑った。
「まあ、子どもいる妻は強いよね」
千紗がすぐに返す。
「強いよ。別れたって切れないもん」
切れない。
その言葉が、美緒の胸に残った。
琴葉が、少しだけ首を横に振る。
「子どもがいたらいたで、大変だと思います」
「大変でも、切れないじゃん」
千紗の声は冷たくはなかった。ただ、諦めに似た平坦さがあった。
「妻卒しても、子どもがいたら終わりじゃない。養育の連絡もあるし、行事もあるし、何よりその子がいる。こっちが忘れたくても、向こうが忘れられない」
麻衣が、少しだけ笑ってごまかす。
「千紗ちゃん、重い」
「重い話でしょ、これ」
「まあ、そうだけど」
「子どもがいる妻は、強いよ」
千紗はもう一度言った。今度は、誰もすぐには返さなかった。
乃亜も、何か言いかけて、やめた。その横顔を見て、美緒は思った。乃亜も、否定できないのだ。
呼ばれない夜を笑いにできる人たちでも。下の方だと冗談にできる人たちでも。天城姓を名乗れないことを旧姓クラブなんて言って笑える人たちでも。
子どもの話になると、少し違う。そこには、笑いにくい現実がある。
美緒は黙っていた。
親友の凛に結婚を伝えた夜、自分が言った言葉が戻ってくる。
いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。
あの時は、夢だった。ファンの妄想だと自分でも分かっていた。でも、それでも叶うかもしれないと思って、胸が熱くなった。
蓮さんの子ども。
その言葉は、柔らかかった。愛されること。選ばれること。あの人の人生の中に、自分が入ること。そういうものの一番奥にある、甘い願いだった。
でも今、下位妻たちのテーブルでは違う。
子どもは、夢だけではなかった。立場。接続。切れないもの。妻卒しても残るもの。夫が夫でい続ける理由。
美緒は、まだそこまで言葉にできなかった。ただ、千紗の「強いよ」という言葉だけが、胸の中に残った。
子どもがいる妻は強い。それは、ひどく現実的な響きだった。
琴葉が、ゆっくり口を開いた。
「でも、その子どもが一番大変かもしれないですよね」
千紗が琴葉を見る。
琴葉は、少し迷いながら続けた。
「お父さんが有名な人で、お母さんが何人もいて、周りにもいろいろ言われて……子どもは、選べないから」
麻衣が、今度は茶化さなかった。乃亜も黙っていた。
美緒は、琴葉の言葉を聞きながら、自分が子どもを想像していなかったことに気づいた。
蓮さんの子どもが欲しい。そう思った時、美緒が見ていたのは、自分の願いだった。
その子どもがどんな場所で生きるのか。誰の子として見られるのか。何を背負うのか。
そこまでは、ちゃんと考えていなかった。考えたくなかったのかもしれない。
千紗が、少しだけ息を吐いた。
「琴葉ちゃんは優しいね」
「そういうつもりじゃ……」
「分かってる」
千紗はグラスの氷を回した。
「でも、子どもがいる妻は強い。これは変わんない」
その言い方は、もう誰かを責めるものではなかった。ただ、制度の中にある重さを言葉にしただけだった。
麻衣が場を変えるように、メニューを手に取った。
「はい、いったん甘いもの頼もう」
「逃げた」
「逃げるよ。こういう時は逃げる」
「麻衣さんらしい」
乃亜が笑った。琴葉も少しだけ笑った。
美緒も笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。
子どもがいる妻は強い。
その言葉が、グラスの底に沈んだ氷みたいに、胸のどこかで溶けずに残っていた。




