第14話【祝うべき夜】
琴葉は、スマホの画面を見たまま動かなかった。
駅前の光が、白く顔に当たっている。さっきまで居酒屋のテーブルで笑っていた人と、同じ人には見えなかった。
麻衣が一歩近づいた。
「琴葉ちゃん?」
琴葉は、はっとしたように顔を上げた。
その表情を見た瞬間、美緒は分かってしまった。
まだ何も聞いていない。画面も見えていない。通知の文面も知らない。
それでも、分かった。
琴葉は悪いことをした人の顔をしていた。悪いことなんて、何もしていないのに。
「……ごめん」
琴葉の声は小さかった。
麻衣が少し目を丸くする。
「え、なに。どうしたの」
琴葉はスマホを胸の近くに持ったまま、もう一度画面を見た。指先が少し震えている。
「私、呼ばれた」
その一言で、空気が止まった。
駅前のざわめきは続いている。信号の音も、人の足音も、どこかの店から流れる音楽も、全部いつも通りだった。
でも、美緒たちの間だけ、急に静かになった。
呼ばれた。
それは、下位妻たちがずっと待っていた言葉だった。飲み放題のグラスを持って、笑いながら言っていた。呼ばれない夜は飲むに限る。今日も誰も呼ばれていないなら平和だね。下位妻の寿命は通知で削られている。
そうやって、笑いにしていた言葉だった。
その言葉が、今、琴葉の手の中にある。
麻衣が最初に声を出した。
「え、すごいじゃん」
その声は明るかった。少しだけ大きすぎるくらい、明るかった。
「行ってきなよ。こういう時は素直に喜ぶやつ」
琴葉は困ったように首を振った。
「でも、みんなと一緒にいたのに」
「いいから」
麻衣は笑った。
「遅れたらもったいないでしょ」
乃亜も、すぐに頷いた。
「おめでとう」
その声は、静かだった。でもちゃんと祝福の形をしていた。
乃亜は琴葉を見て、それから一瞬だけ、美緒の方を見た。
ほんの一瞬だった。気のせいかもしれない。
でも、美緒はその視線に気づいた。
「よかったね、琴葉ちゃん」
乃亜が続ける。
琴葉は、泣きそうな顔で笑った。
「ありがとう」
千紗は少し遅れて、スマホをポケットに入れた。
「いいね」
その声は平坦だった。
「やっぱ琴葉ちゃんみたいな子が好きなんだ」
麻衣がすぐに振り返る。
「千紗ちゃん」
「なに。褒めてるよ」
「それ、褒めてる時の言い方じゃない」
千紗は肩をすくめた。
「優しい子って得だよね」
琴葉の顔が、少しだけ強張った。
「そういうんじゃ……」
「分かってる」
千紗は目を逸らした。
「分かってるけど、そう見えるだけ」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
美緒は、自分の喉が少し狭くなったように感じた。
優しい子って得だよね。
その言葉は、琴葉に向けられていた。でも、美緒の中にも落ちてきた。
琴葉は優しい。本当に優しい。初めて話した時も、無理に話さなくていいと言ってくれた。飲み会でも、子どもの話になった時、誰よりも慎重だった。美緒がぎこちなくても、ゆっくりで大丈夫だと笑ってくれた。
だから、呼ばれてよかった。そう思わなければいけない。
でも、美緒の胸の奥で、何かが静かに沈んでいた。
麻衣が、わざと手を叩いた。
「はい、変な顔しない」
その言葉は、琴葉に向けたものだった。でも、そこにいる全員に向けられているようにも聞こえた。
「琴葉ちゃんは今から行く。私たちはちゃんと祝う。以上」
「命令形」
乃亜が少し笑う。
「こういう時は命令形でいいの」
麻衣は明るく言った。
「琴葉ちゃん、通知なんて来る時にしか来ないんだから。行ける時に行く。これは下位妻の鉄則」
「そんな鉄則ありましたっけ」
琴葉が小さく笑った。少しだけ場が戻る。ほんの少しだけ。
千紗も、口元だけで笑った。
「鉄則っていうか、生存戦略でしょ」
「千紗ちゃん、言い方」
「間違ってないじゃん」
「間違ってないけど、今言うことじゃない」
麻衣と千紗のやり取りに、乃亜が小さく息を吐いた。
美緒も、笑う形を作った。たぶん、笑えていたと思う。でも自分の顔が、ちゃんと笑顔になっているのか分からなかった。
琴葉がスマホを見せるように少し動かしかけて、すぐにやめた。
規約を思い出したのだろう。通知内容の外部共有は禁止されている。
そこには、きっとこう表示されている。
【対象者より個別連絡があります】
美緒は、その文字を頭の中で勝手に並べた。
対象者。天城蓮。個別連絡。琴葉のスマホに。
美緒のスマホではなく。
「ごめんね」
琴葉がまた言った。今度は美緒たち全員に向けていた。
「本当に、急に」
「謝ることじゃないよ」
乃亜がすぐに言った。声は優しかった。
けれど、美緒は乃亜の横顔を見てしまった。その優しさの奥に、ほんの少しだけ硬いものがあるような気がした。
乃亜も待っている。第12妻として。美緒より一つ前の妻として。乃亜にも通知は来ていない。それでも乃亜は、おめでとうと言った。
美緒も言わなければいけない。言えるはずだ。琴葉はいい人だ。祝うべきだ。祝いたい。
美緒は息を吸った。
「……おめでとうございます」
声は出た。思っていたより普通に出た。
ただ、自分の声が少し遠く聞こえた。自分の口から出た言葉なのに、駅前の音の中に混ざって、どこか別の人の声みたいだった。
琴葉は、美緒を見た。
申し訳なさと嬉しさが、同時に浮かんでいる顔だった。
「ありがとう、美緒ちゃん」
その声も、ちゃんと優しかった。
だから余計に、美緒は胸が苦しくなった。
琴葉が嫌な人ならよかった。自慢するような人なら。見せつけるような人なら。「ごめん」なんて言わず、当然みたいに歩いていく人なら。
もっと簡単に、嫌な気持ちを向けられたのに。
でも琴葉は、ちゃんと申し訳なさそうだった。その優しさが、差を消してくれない。むしろ、差があることをもっとはっきり見せてくる。
琴葉はスマホをぎゅっと握った。
「たぶん、そんなに長くないと思う」
「長さじゃないでしょ」
千紗が言う。麻衣がすぐに目で制したが、千紗は続けなかった。
琴葉は困ったように笑う。
「でも、すぐ帰るかもしれないし」
「帰ってこなくていいよ」
麻衣が明るく言った。
「いや、帰ってこなくていいって言うと変だけど。無理しなくていいって意味」
「麻衣さん、言葉が雑」
乃亜が笑う。
「雑だけど本音」
麻衣は琴葉の背中を軽く押すように手を動かした。
「行ってきな」
琴葉は、小さく頷いた。
「うん」
それから、もう一度全員を見る。
「みんなにも、ちゃんと来ると思う」
その言葉は、やわらかかった。琴葉は本気でそう言ったのだと思う。慰めようとしたのだと思う。自分だけが呼ばれたことを、少しでも軽くしようとしたのだと思う。
でも美緒には、その言葉が胸に刺さった。
みんなにも。ちゃんと。来る。
つまり今、来ていない。
琴葉には来た。美緒には来ていない。乃亜にも、麻衣にも、千紗にも来ていない。今ここで、琴葉だけが別の場所へ行く。
その事実を、琴葉の優しさが照らしてしまった。
「うん。行ってらっしゃい」
麻衣が言った。乃亜も続ける。
「気をつけてね」
千紗は少しだけ顔を背けたまま言った。
「報告、できる範囲で」
琴葉は小さく笑った。
「報告ってほどじゃないよ」
そう言って、琴葉は歩き出した。
駅の方ではなく、指定された場所へ向かう道へ。たぶん、通知に書かれていた場所へ。天城蓮のいる場所へ。
美緒は、その背中を見送った。
琴葉のコートの裾が、人の流れの中に少しずつ混ざっていく。
さっきまで同じテーブルに座っていた。同じ飲み放題のグラスを持っていた。同じように呼ばれない夜を笑っていた。
でも今、琴葉だけが違う方向へ歩いている。
美緒のバッグの中で、スマホは静かだった。何も鳴らない。それなのに、美緒はその重さをはっきり感じていた。
琴葉が角を曲がって見えなくなるまで、誰も大きな声を出さなかった。




