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第15話【祝福の形】

琴葉の姿が角を曲がって見えなくなると、駅前の空気が少しだけ戻った。


戻った、ように見えた。


麻衣がわざと明るく手を叩く。


「じゃ、琴葉ちゃんの無事を祈って、もう一杯?」


千紗がすぐに顔をしかめた。


「祈るって何」


「平和祈願」


「何の平和」


「琴葉ちゃんの平和と、私たちの心の平和」


麻衣はそう言って、少し大げさに胸に手を当てた。


乃亜が小さく笑う。


「麻衣さん、雑」


「雑にしないと重いでしょ」


その言葉に、誰もすぐには返さなかった。


重い。たしかに重かった。


琴葉が呼ばれた。それだけのことだ。天城蓮の妻なのだから、呼ばれることはおかしくない。むしろ、妻としては正しいことのはずだった。


けれど、同じテーブルで、同じグラスを持って、同じように呼ばれない夜を笑っていた人が、ひとりだけ別の場所へ行った。


それだけで、さっきまでの夜は別の形になってしまった。


麻衣はスマホを見た。


「店、まだ入れるかな。ていうか戻る?」


「私は帰る」


千紗が言った。


「もういい」


「え、帰るの?」


「帰る。明日仕事だし」


明日仕事。


その言葉は、さっきまでなら笑いになった。妻なのに明日仕事。妻なのに派遣。妻なのに美容部員。そうやって笑っていた。


でも今は、少しだけ乾いて聞こえた。


呼ばれた琴葉には、明日仕事があっても、今夜の予定ができた。呼ばれていない美緒たちには、明日仕事があるだけだった。


千紗はそれ以上何も言わず、スマホをバッグにしまった。


麻衣が少し肩をすくめる。


「じゃあ今日は解散にする?」


「そうだね」


乃亜が答えた。その声は、いつもより少しだけ静かだった。


美緒は、まだ琴葉が消えていった道の方を見ていた。


指定された場所。通知に書かれていた場所。天城蓮がいるかもしれない場所。


頭の中でそう考えて、すぐにやめた。


考えたくない。でも、考えてしまう。


琴葉が今からどこへ行くのか。どんな部屋に入るのか。蓮さんはどんな顔で待っているのか。


美緒は唇を軽く噛んだ。


琴葉は悪くない。何度もそう思った。


呼ばれたのは、琴葉が悪いからではない。琴葉が優しくて、静かで、ちゃんとした人だからかもしれない。天城蓮が、そういう人を見ていたのかもしれない。


その考えまでが、苦しかった。


自分は見られていない。


そう思いそうになって、美緒は目を伏せた。


まだ登録されたばかりだ。まだ第13妻になってから、そんなに時間は経っていない。焦る必要はない。


みんなにも、ちゃんと来ると思う。


琴葉の言葉が戻ってくる。


やわらかい声だった。慰めようとしてくれた。申し訳なさそうに、でも本気で言ってくれた。


その優しさが、今は刺さる。


みんなにも来る。つまり、今は琴葉にだけ来た。そのことを、やさしく言い直されただけだった。


スマホが震えた。


美緒は反射的にバッグの中を見た。自分のスマホだった。


一瞬だけ、胸が跳ねる。


でも、配偶者用アプリではなかった。下位配偶者グループの通知だった。


美緒は画面を開いた。


グループチャットには、いつの間にか言葉が並んでいた。


桐谷麻衣:

「いってらっしゃい!」


乃亜:

「気をつけてね」


少し遅れて、千紗。


小野寺千紗:

「報告待ってる。言える範囲で」


琴葉から返事が来ていた。


白石琴葉:

「報告ってほどじゃないよ」


そして、いま届いた麻衣のメッセージ。


桐谷麻衣:

「遠慮しなくていいからね。言える範囲でいいから、幸せそうなやつだけちょうだい」


美緒は画面を見つめた。


さっきまで目の前にいた琴葉が、もうチャットの向こう側にいる。同じ場所にいたはずなのに、文字だけが遠くなっていく。


美緒は入力欄を開いた。


何か送らなければと思った。送らなければ、祝えない人みたいになる。祝えていないことが、形になって残ってしまう。それだけは嫌だった。


美緒は、ゆっくり打った。


佐倉美緒:

「おめでとうございます。気をつけて行ってきてください」


送信する。すぐに既読が増えた。


琴葉から、ありがとう、のスタンプが返ってきた。花を持った、やわらかい色のキャラクターだった。


琴葉らしいと思った。


その瞬間、胸が苦しくなった。


琴葉を嫌いではない。むしろ、好きだった。


初めて下位妻グループに入った時、無理に話さなくて大丈夫だと言ってくれた。千紗の言葉が少し強くなった時、やんわり止めてくれた。今日も子どもの話になった時、子どもは選べないから、と静かに言った。


琴葉は優しい。だから、嫌えない。


嫌えない人を、祝えない。


そのことが、一番苦しかった。


「美緒ちゃん」


乃亜の声で、美緒は顔を上げた。


麻衣と千紗は、いつの間にか駅の方へ歩き出していた。麻衣が振り返って手を振る。


「美緒ちゃん、乃亜ちゃん、またね」


「また」


乃亜が返す。千紗は手を上げるだけだった。


二人の背中が人の流れに混ざっていく。


美緒は、スマホを握ったまま立っていた。


「帰る?」


乃亜が聞いた。


美緒はすぐに答えられなかった。


帰れば、自分の部屋だ。いつものカーテン。ベッド。小さなテーブル。何も鳴らないスマホ。そこに一人で戻ることを考えると、少し息が詰まった。


「……もう少し、歩きます」


そう言うと、乃亜は何も聞かずに頷いた。


「そっか」


それだけだった。どうして、と聞かなかった。大丈夫、とも言わなかった。


ただ、隣に立っていた。


そのことに、美緒は少し救われた。


二人で駅とは反対の方へ歩き出す。


夜の歩道は、店の明かりがところどころ途切れていた。酔った会社員の声が遠くから聞こえる。コンビニの前では、若い男の人たちがスマホを見ながら笑っていた。


美緒と乃亜は、しばらく黙って歩いた。


沈黙は重かった。でも、嫌ではなかった。


乃亜が何かを急いで埋めようとしないからかもしれない。


美緒はスマホの画面を消した。でも、バッグにしまえなかった。


また鳴るかもしれない。


その思いが、まだ指先に残っていた。


もちろん、今鳴るわけがない。琴葉が呼ばれたばかりなのに。同じ夜に、美緒にも来るわけがない。


そう思う。それでも、どこかで待っている。


そのことが、恥ずかしかった。

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