第16話【伏せたスマホ】
しばらく歩くと、駅前の明るさが少し遠くなった。
大通りから一本外れた道には、閉店した店のシャッターが並んでいる。ところどころにある街灯だけが、歩道を白く照らしていた。
美緒と乃亜は、並んで歩いていた。
話すことは、あまりなかった。けれど、沈黙が嫌ではなかった。
乃亜は、急いで言葉を探さなかった。大丈夫とも言わなかった。気にしないでとも言わなかった。
そのことに、美緒は少し救われていた。
さっきまで同じテーブルにいた琴葉は、もういない。
琴葉の席。琴葉が持っていたグラス。やわらかい声。「ごめんね」と言った顔。
そういうものが、まだ美緒の中に残っている。
同じ夜だったはずなのに、琴葉だけが別の夜へ行った。
美緒はスマホを握る手に少し力を入れた。
自分のスマホは静かだった。
分かっている。今夜は琴葉が呼ばれたのだ。同じ夜に、美緒まで呼ばれるはずがない。
それでも、どこかで待っている自分がいる。
そのことが恥ずかしかった。
「琴葉さん、よかったですね」
美緒は、ようやくそう言った。
言いながら、自分の声がまた少し遠く聞こえた。
乃亜は前を向いたまま、うなずいた。
「うん」
短い返事だった。
美緒は続けようとして、言葉を探した。
よかったですね。本当に。琴葉さん、優しいし。ちゃんと呼ばれてよかった。
いくつも言葉は浮かんだ。でも、どれも口にすると嘘みたいになりそうだった。
嘘ではないのに。
「よかった、って思うのも本当だしね」
乃亜が言った。
美緒は、横を見た。
乃亜は美緒を見ていなかった。前を向いたまま、ゆっくり歩いている。声は静かだった。慰めるための声でも、責めるための声でもなかった。ただ、落ちたものを拾って、そこに置くような声だった。
美緒は何も言えなかった。
よかったと思う。それは本当だった。琴葉は悪くない。琴葉はいい人だ。だから、よかったと思う。思うはずだった。
乃亜が少しだけ息を吐いた。
「それだけじゃないのも、たぶん本当」
美緒は足を止めそうになった。
胸の奥で、ずっと名前をつけずにいたものが、少しだけ形を持った気がした。
祝いたい。でも祝えていない。よかったと思う。でも苦しい。琴葉が悪くないと分かっている。だから、琴葉に向けられない。向けられなかった感情は、そのまま美緒の中へ戻ってくる。
「私」
美緒は小さく言った。
その先が出てこなかった。
嫉妬してる、と言いそうになって、喉のところで止まった。言ったら、全部本当になってしまう気がした。
乃亜は待っていた。急かさなかった。分かるよ、とも言わなかった。
それが、ありがたかった。
分かるよ、と言われたら、たぶん美緒は苦しかった。何を分かるのか。どこまで分かるのか。そういうことを考えてしまったと思う。
でも乃亜は、どれも言わなかった。ただ、隣にいた。
それだけで、美緒は自分の中の黒いものを、少しだけ見てもいい気がした。最低だと決めつけなくてもいい。でも、何もなかったふりもしなくていい。
「私、ちゃんとおめでとうって言えてましたか」
美緒は聞いた。
聞いてから、そんなことを乃亜に確認させるのもずるいと思った。
乃亜は少しだけ考えてから言った。
「言えてたよ」
美緒は、ほっとしそうになった。
でも乃亜は続けた。
「ちゃんと、形は」
その言葉で、美緒は少しだけ笑いそうになった。
形は。
正直だった。形は、ちゃんとしていた。おめでとうございます、と言った。チャットにも送った。琴葉にありがとうのスタンプを返された。祝福の形は、全部そろっている。
でも、その形の中に、美緒の心がちゃんと入っていたかは分からない。
「形だけでも、必要な時あるし」
乃亜は言った。
「たぶん」
美緒は、うなずいた。
「たぶん」
二人で同じ言葉を繰り返したら、少しだけ息が抜けた。
道の先にコンビニの明かりが見えた。
乃亜がそちらを指した。
「何か飲む?」
「水、買います」
コンビニに入ると、明るすぎる照明が目に刺さった。店内では、深夜のアルバイトらしい店員がレジの奥で眠そうに立っている。
美緒は水を一本取った。乃亜はホットのカフェラテを持ってきた。
「寝る気ないですね」
美緒が言うと、乃亜が少し笑った。
「今日はもう、寝つき悪そうだし」
その言い方が軽くて、美緒は少しだけ笑えた。
会計を済ませて、店の外に出る。コンビニの前の小さな段差に、二人で少しだけ立ち止まった。
乃亜はカフェラテの蓋を外さず、両手で持っている。美緒は水のボトルを開けた。一口飲むと、思っていたより冷たかった。
スマホが震えた。
二人とも、同時に少しだけ反応した。
美緒は自分のスマホを見た。下位配偶者グループの通知だった。配偶者用アプリではない。
それに少しほっとして、少しだけ沈んだ。
グループチャットには、麻衣のスタンプが流れていた。
桐谷麻衣:
「琴葉ちゃん、無事祈願」
手を合わせているキャラクターのスタンプ。
小野寺千紗:
「祈願しすぎ」
桐谷麻衣:
「祈るくらいしかできないでしょ」
乃亜:
「それはそう」
白石琴葉:
「ありがとう。大丈夫です」
その琴葉のメッセージを見た瞬間、美緒の胸がまた小さく痛んだ。
大丈夫です。
琴葉は、今どこでそれを打ったのだろう。移動中だろうか。指定場所に着く前だろうか。それとも、もう近くにいるのだろうか。蓮さんの近くに。
美緒は画面を見つめた。
麻衣がまたスタンプを送っている。乃亜も短く返している。千紗は一言だけ。琴葉は、ありがとう、とまた返している。
祝福が続いている。画面の中では、ちゃんとみんな祝っている。美緒も、その中にいる。
佐倉美緒:
「おめでとうございます。気をつけて行ってきてください」
自分が送った文字が、少し上に残っていた。ちゃんと祝福の形をしている。誰が見ても、そう見える。
でも、美緒の胸の奥は、少しも軽くなっていなかった。
「見なくていいよ」
乃亜が言った。
美緒は顔を上げた。
乃亜は、スマホを見ずにカフェラテの蓋を触っていた。
「今、見たらしんどいなら」
それだけだった。
美緒は、また画面を見た。
麻衣のスタンプ。千紗のひと言。乃亜の短いメッセージ。琴葉の「ありがとう」。祝うための言葉が、きれいに並んでいる。
それなのに、その画面を見るのが怖かった。
祝福し続ける画面を見ていると、自分が祝えていないことを何度も突きつけられる。画面の光が、自分の中にあるものまで照らしてしまう気がした。
美緒は、スマホを伏せた。
黒い画面が、手のひらの上で沈黙する。それだけで、少し息がしやすくなった。
乃亜は何も言わなかった。その沈黙も、今はありがたかった。
美緒は伏せたスマホを見つめた。
画面の中では、まだ祝福が続いているのかもしれない。琴葉は、もう指定された場所に着いたのかもしれない。蓮さんから、何か言われているのかもしれない。
考えたくない。でも、考えてしまう。
美緒は、水のボトルを握った。冷たさが、指に移る。
自分もちゃんと、おめでとうございます、と送った。でも、その文字の形と、胸の中にあるものは違っていた。
私は、琴葉さんを祝えていない。
そのことを、ようやく認めた。
認めた瞬間、少しだけ苦しくなって、少しだけ楽になった。
乃亜が隣にいる。
それでも、最後に残ったものは、美緒の中にしかなかった。
美緒は伏せたスマホから目を離さなかった。
第13妻になってから初めて、自分が誰かを羨んでいることを、はっきり知った。




