第17話【聞きたい、聞きたくない】
琴葉からの最初の返信は、翌日の夜に来た。
美緒は、ベッドの上でスマホを見ていた。
見るつもりはなかった。通知が来るたびに胸が重くなるから、今日はあまり見ないでおこうと思っていた。でも、下位妻グループの名前が通知欄に出ると、指が勝手に動いた。
【下位配偶者グループ】
その文字を見るだけで、昨夜のことが戻ってくる。
駅前の白い光。琴葉がスマホを見て固まった顔。「ごめん」と言った声。「私、呼ばれた」と続いた言葉。
それから、美緒が送った祝福。
おめでとうございます。気をつけて行ってきてください。
形は、ちゃんとしていた。乃亜もそう言った。ちゃんと、形は。
でも、その形の中に自分の心が入っていたのか、美緒にはまだ分からなかった。
グループチャットを開くと、麻衣のメッセージが一番上に表示されていた。
桐谷麻衣:
「琴葉ちゃん、生きてる?」
続けて、布団から顔だけ出しているキャラクターのスタンプ。
小野寺千紗:
「生存確認の聞き方じゃない」
麻衣:
「じゃあ、無事ですか」
千紗:
「急に丁寧」
乃亜:
「琴葉ちゃん、落ち着いてからで大丈夫だよ」
美緒は、そのやり取りを見つめた。
いつもの流れだった。麻衣が軽くして、千紗が刺して、乃亜が整える。そこに琴葉が戻ってくる。ただ、それだけのことのはずだった。
なのに、美緒の指先は冷たかった。
少しして、琴葉の名前が表示された。
白石琴葉:
「ごめんね、昨日」
その一文だけで、美緒の胸が小さく縮んだ。
琴葉は、やっぱり謝る。悪くないのに謝る。
白石琴葉:
「ちゃんと返せなくて」
白石琴葉:
「みんな、ありがとう」
すぐに麻衣が返す。
桐谷麻衣:
「いやいや、返事とかいいから」
桐谷麻衣:
「で、どうだったの?」
乃亜:
「麻衣さん」
麻衣:
「いや、無理にとは言わないけどさ」
麻衣:
「でも気になるじゃん」
小野寺千紗:
「無理に聞かないと言いつつ、一番聞いてる」
麻衣:
「聞いてない。空気に出しただけ」
美緒は画面を見ていた。
聞きたい。聞きたくない。
その二つが、同じくらいの強さで胸の中にあった。
知りたかった。琴葉がどこへ行ったのか。天城蓮がどんな顔で待っていたのか。何を話したのか。琴葉の名前を呼んだのか。優しかったのか。
でも、知ったらきっと、頭の中で映像になってしまう。
琴葉の前にいる天城蓮。琴葉を見る天城蓮。琴葉だけが持って帰ってきた何か。
白石琴葉:
「そんな、大したことじゃないよ」
その文字を見た瞬間、美緒の胸がまた沈んだ。
大したことじゃない。本当にそうなのかもしれない。短く話しただけ。天城蓮は忙しくて、長くはいられなかったのかもしれない。
それなら、安心していいはずだった。
でも、大したことじゃないと言われると、逆に何かがあったように聞こえた。
麻衣:
「大したことないって言う人ほど、なんかあった顔してるんだよね」
千紗:
「それ私が言うやつ」
麻衣:
「先に言ったもん勝ち」
千紗:
「詳しく言えないくらいのことがあるってことじゃん」
乃亜:
「千紗さん、圧が強い」
琴葉:
「本当に、少し話しただけだから」
美緒は、その一文を何度も読んだ。
少し話しただけ。少し。
天城蓮と、少し話した。
それだけで十分だと思った。
美緒にはまだ、その少しもない。
琴葉にはある。それは、大きい。
白石琴葉:
「でも、ちょっとだけ嬉しかった」
画面の中の文字は、控えめだった。自慢ではない。見せびらかしてもいない。むしろ、できるだけ小さくしている。
でも、その小ささが美緒には刺さった。
ちょっとだけ嬉しかった。
その「ちょっとだけ」の中に、どれだけのものが入っているのだろう。天城蓮の声。目線。名前。言えないこと。言わないこと。
美緒は、スマホを持つ手に力を入れた。
琴葉さんは悪くない。すぐにそう思った。本当にそう思った。
琴葉は悪くない。琴葉は優しい。呼ばれたことを大げさにしない。詳しく話して、呼ばれなかった人たちを傷つけないようにしている。
だからこそ、苦しかった。
悪い人なら、嫌えばいい。自慢する人なら、傷つけられたと思えばいい。でも琴葉は、そうではない。
琴葉は、気を遣っている。その気遣いの中で、少しだけ幸せそうだった。
美緒は、入力欄を開いた。
何か書かなければと思った。昨日も書いた。おめでとうございます、と書いた。今日も、ちゃんと書くべきだった。
佐倉美緒:
「お疲れさまでした」
打って、止まった。
お疲れさまでした。
変だと思った。仕事みたいだ。
消した。
佐倉美緒:
「よかったですね」
それも違う気がした。よかったですね、の後ろにあるものが、画面越しに透けてしまいそうだった。
消した。
その間にも、会話は流れていく。
麻衣:
「顔文字がもう幸せそうなんだけど」
琴葉:
「そんなことないです」
千紗:
「琴葉ちゃんは隠すの下手だよね」
琴葉:
「隠すとかじゃなくて……」
乃亜:
「千紗さん、琴葉ちゃん困ってるじゃん」
千紗:
「ごめん。半分冗談」
麻衣:
「半分なんだ」
千紗:
「半分は本気」
麻衣:
「そこは隠して」
美緒は、少しだけ笑った。笑えた。でも、その笑いはすぐに消えた。
千紗の言葉は嫌だった。琴葉を追い詰めるように見える。詳しく言わないことを責めているように見える。
嫌だと思った。
でも、自分は千紗と違うと言えるだろうか。
詳しく言えないくらいのことがあるってことじゃん。
その言葉を見た時、美緒の胸の奥は確かに反応した。
そう思った。
自分も、そう思ってしまった。
千紗の言葉が嫌なのは、千紗がひどいからだけではない。自分の中にも、同じものがあったからだ。
美緒は、ようやく文字を打った。
佐倉美緒:
「琴葉さんが無事でよかったです」
送信する。すぐに既読が増えた。
琴葉から、ありがとう、のスタンプが返ってきた。花を持った、やわらかい色のキャラクター。昨日と似たスタンプだった。
美緒は、そのスタンプを見て、また胸が苦しくなった。
琴葉らしい。そう思った。
琴葉らしいから、嫌えない。嫌えないから、逃げ場がない。
琴葉:
「美緒ちゃんも、ありがとう」
画面にその文字が出た。
美緒ちゃん。琴葉の呼び方は、いつもやわらかい。
グループに入った時も、無理に話さなくて大丈夫だと言ってくれた。千紗の言葉が強くなった時も、やんわり止めてくれた。昨日も、呼ばれたのに、最初に謝っていた。
琴葉さんが悪いわけじゃない。
美緒は、もう一度そう思った。それは本心だった。
でも、その本心だけでは、胸の奥の黒いものは消えなかった。
グループチャットに戻ると、麻衣がまた別の話題にしようとしていた。
麻衣:
「まあ、とりあえず琴葉ちゃん無事でよかった」
麻衣:
「次は誰だろうね」
その一文で、美緒の指が止まった。
次は誰。
その言葉は、軽い。麻衣はいつもの調子で言ったのだと思う。場を戻すために。重くしすぎないために。
でも、美緒の中では、その言葉だけが大きくなった。
次。琴葉の次。呼ばれる順番があるのなら。
次は誰。
美緒は、自分のスマホを見た。配偶者用アプリからの通知はない。何も来ていない。
それなのに、画面の奥で、何かを待っている自分がいる。
琴葉を祝えないまま。琴葉が悪くないと分かっているまま。自分が嫌な人間だと思いながら。
それでも。
次は、自分が呼ばれたい。
そう思ってしまった。




