第79話【確認するだけ】
あれ、と思った日から、美緒は日付を数えないようにしていた。
数えなければ、まだただの違和感で済む。
予定日を少し過ぎている。それだけ。
寝不足だった。食事もまともに取れていなかった。流出があった。配偶登録解除申請を出した。宮原の部屋で、生活の形も崩れていた。
遅れる理由なら、いくらでもあった。
だから、違う。たぶん違う。
美緒は、何度もそう思った。
それでも、次の日の夜、美緒はドラッグストアにいた。
宮原には何も言わなかった。
「ちょっとコンビニ行ってきます」
そう言うと、宮原はスマホを見たまま顔を上げた。
「俺行くけど」
「大丈夫です」
「なんか買う?」
「いらないです」
「じゃあ、気をつけて」
それだけだった。
宮原は深く聞かなかった。聞かれたら困るのに、聞かれないことにも少しだけ傷ついた。
美緒は、マスクをして、髪を低く結び、パーカーのフードを軽くかぶった。
誰も自分のことなんて見ない。分かっている。もう第13妻として顔と名前が大きく出ているわけではない。公式に紹介された妻でもない。ここは妻コミュニティでも、ホテルの会議室でもない。
ただのドラッグストア。
夜の白い照明が、店内を均一に照らしていた。
消毒液の匂い。シャンプーの匂い。洗剤の匂い。冷蔵ケースの低い音。どこかで流れている店内放送。
普通の店だった。普通の人たちが、普通に買い物をしている。
仕事帰りらしい男が目薬を選んでいる。制服姿の女の子がリップクリームの棚を見ている。
誰も美緒を見ていない。
それなのに、美緒は棚の間を歩くたび、背中に視線が刺さるような気がした。
第13妻。居酒屋勤務。非公表妻。流出。処理済み。第14妻。
そんな文字が、頭の奥で勝手に並ぶ。
見られていない。でも、見られている気がする。
妻コミュニティにいた時から、ずっとそうだった。誰かがスクショを持っているかもしれない。誰かが自分の言葉を外に出したかもしれない。
その感覚だけが、制度の外に出ても残っていた。
美緒は、棚の案内表示を見上げた。
医薬品。衛生用品。体温計。マスク。サプリメント。
その奥に、目的の棚があった。
妊娠検査薬。
白い箱が、何種類も並んでいる。
思ったより普通だった。もっと隠されているのかと思っていた。もっと手に取りにくい場所にあるのかと思っていた。
でも、そこには他の商品と同じように、まっすぐ並べられていた。
体温計の横。葉酸サプリの近く。排卵検査薬の隣。
値札がついている。箱の表には、やわらかい色の文字で商品名が書かれている。
判定。簡単。一分。朝でも夜でも。
その言葉が、妙に現実的だった。
一分で分かる。
そんなわけがないと思った。
この数週間のことが。天城蓮の妻だったことが。妻をやめようとしたことが。宮原の部屋にいることが。凛に返せないことが。第14妻の文字を見たことが。
一分で何かに変わるはずがない。
美緒は、棚の前で立ち止まった。
手を伸ばす。途中で止める。
違う。確認するだけ。そう思う。
確認して、違って、やっぱりストレスだったのだと思って、それで終わりにする。
また手を伸ばす。箱に指先が触れる。
冷たい。
美緒は、すぐに手を引っ込めた。
誰も見ていない。分かっている。
それでも、背後の通路を誰かが通るたびに、身体が固まった。
その人はただ、風邪薬を見ているだけだった。その人はただ、歯磨き粉を探しているだけだった。美緒のことなど見ていない。
でも、美緒には見られている気がした。
検査薬の箱を手に取った瞬間に、「あの人、妊娠してるのかな」と思われる気がした。
違う。まだ分からない。妊娠しているかどうかを確認するだけ。
確認するだけなのに、買う時点でもう何かが始まってしまう気がした。
美緒は、もう一度箱を手に取った。今度は離さなかった。
軽かった。驚くほど軽い。
この小さな箱の中に、何が入っているのだろう。
夢だったはずのもの。
そう思った瞬間、美緒は息を止めた。
最初に、凛に言った。
いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。
笑わないでよ、と言いながら、本当は笑ってほしくなかった。
あれは、甘い夢だった。
推しの妻になって。誰かにちゃんと愛されて。いつか、あの人の子どもを持つ。
その夢は、もっと明るい形をしているはずだった。
ドラッグストアの白い棚の前で、マスクの下の息を浅くしながら、誰にも見られていないのに見られている気がして、震える手で箱を取るようなものではなかった。
美緒は、箱をカゴに入れなかった。カゴを持っていなかった。そのまま手に持って、レジへ向かった。
数歩。たった数歩だった。
でも、妻コミュニティのどの会議室よりも長く感じた。
レジには、若い店員がいた。仕事中の顔だった。
「いらっしゃいませ」
美緒は、箱をレジ台に置いた。
バーコードを読み取る。ピッ、という音がする。それだけ。
「一点で、税込み千百八十円です」
声は淡々としていた。
美緒は財布を出した。手が少し震えていた。小銭を落としそうになり、慌てて指で押さえる。
袋に入れてもらい、受け取った。
ありがとうございました、という声が後ろで聞こえた。
妊娠ですか、とも。大丈夫ですか、とも。何も言われなかった。当然だった。
ただの商品として、会計は終わった。
美緒は小さな袋を受け取った。指先が冷たかった。袋の中で、軽い箱がかさりと音を立てる。
確認するだけ。
美緒は、もう一度そう思った。確認して、違って、それで終わりにする。
たぶんストレス。たぶん寝不足。たぶん、何でもない。
自動ドアが開く。夜の空気が入ってくる。
美緒は、白い袋を胸の前で握ったまま、ドラッグストアを出た。




