第78話【あれ】
もう見ない。
今は、見ない。
美緒は、そう決めた。
宮原が、惣菜のパックを開けた。
その瞬間、ふわっと匂いが広がった。
揚げ物の油。少し甘いタレ。
美緒は、反射的に口元を押さえた。
「……あれ」
宮原が振り返る。
「どうした?」
「いえ」
美緒は首を横に振った。
「大丈夫です」
「顔色悪」
「さっきから悪いです」
「今ちょっと変だった」
宮原は、パックを置いて近づいてきた。
「気持ち悪い?」
美緒は、少しだけ迷った。
「少し」
「え、マジで?」
「大丈夫です」
「水?」
「あります」
「飲めって」
宮原は、テーブルの上のペットボトルを取って、キャップを開けた。差し出される。美緒は受け取った。
水を飲む。喉を通る感覚はあった。でも、胃の奥の重さは消えなかった。
「寝不足でしょ」
宮原が言った。
「たぶん」
「あと、食ってないし」
「たぶん」
「ストレスもあるし」
「たぶん」
「たぶんばっか」
「本当に、たぶんなんです」
そうだった。
全部、あり得る。
流出のせい。妻コミュニティから切り離されたせい。凛に返せなかったせい。天城蓮を検索したせい。第14妻の文字を見たせい。宮原の部屋で眠れていないせい。ちゃんと食べていないせい。
身体がおかしくなっても、不思議ではなかった。むしろ、これで平気な方がおかしい。
美緒は、自分にそう言い聞かせた。
宮原は、揚げ物のパックを少し遠ざけた。
「これ、やめとく?」
「すみません」
「謝るとこじゃない」
「俺が食うし」
宮原は、何でもないように言った。そして本当に、パックを自分の方へ引き寄せた。
「美緒は、ゼリーとかにしとく?」
「いらないです」
「じゃあ、水だけ飲め」
またそれだった。
水。飯。寝ろ。目閉じとけ。
宮原の言葉は、いつも雑で、具体的だった。
美緒が何を考えているか、なぜ苦しいのか、どうして戻れないのか。そこまでは分からない。
でも、水を飲ませることはできる。食べられないなら、匂いを遠ざけることはできる。
その程度の近さが、今の美緒には届いてしまう。
「ほんと、病院行く?」
「大げさです」
「そう?」
「寝不足とストレスです」
「まあ、そりゃそうか」
宮原は納得したように言った。本当に、それ以上は深く考えていないようだった。
妊娠。
その言葉は、まだ誰の口にも出なかった。
美緒の頭にも、はっきりとは浮かんでいなかった。
浮かばないようにしていたのかもしれない。
美緒は、膝の上で手を握った。手のひらが少し冷たい。身体の奥が、まだ少し気持ち悪い。
吐き気というほどではない。でも、普段とは違う。
変な感じ。そう思った。
でも、変な感じなら、ずっとある。
この数日、ずっと身体は変だった。眠れない。食べられない。頭が重い。胃が沈む。スマホを見るたびに心臓が跳ねる。
その全部が、身体に出ているのだと思った。
思いたかった。
宮原がテレビのない画面に動画を流し始めた。知らない人が笑っている。
美緒は、その音を聞きながら、スマホを見た。伏せたままのスマホ。
触らないと決めていたのに、視線だけがそこへ行く。
凛から何か来ているかもしれない。天城蓮のニュースが増えているかもしれない。配偶者用アプリから、申請に関する通知が来ているかもしれない。
そう思う。
でも、手は伸ばさなかった。
代わりに、壁にかかったカレンダーが目に入った。
宮原の部屋にある、コンビニでもらったような薄いカレンダー。数字だけが並んでいる。今月の日付。
美緒は、何気なくそれを見た。
今日。
そこから、頭の中で別の日付が浮かんだ。
予定日。
美緒は、瞬きをした。
予定日。
何の。
考えた瞬間、身体の奥が静かに冷えた。
いや。
違う。
美緒は、すぐに否定した。
ストレスだ。流出があった。妻卒があった。宮原の部屋で生活が崩れた。食事も睡眠も乱れている。
遅れることくらい、ある。そういうことは、ある。
美緒は、もう一度カレンダーを見た。今日の日付。頭の中で数える。
一日。二日。三日。もう一つ。
美緒は、指を動かさずに、目だけで日付を追った。
予定日を過ぎている。
少し。ほんの少し。でも、過ぎている。
「美緒?」
宮原の声がした。美緒は、はっとして振り向いた。
「何」
「また顔やばい」
「……やばくないです」
「いや、やばいって」
「ほんとに吐きそう?」
「違います」
「じゃあ何」
美緒は、答えられなかった。
言葉にしたら、それになる。それを認めることになる。
宮原に言えるはずがなかった。
宮原の部屋で。宮原に触れられたあとに。宮原の買ってきた惣菜の匂いで気持ち悪くなって。
その場で、そんな可能性を言えるはずがなかった。
美緒は、首を横に振った。
「たぶん、疲れてるだけです」
「たぶん?」
「たぶん」
宮原は、少し不安そうに見た。でも、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、今日は寝ろ」
「眠れないです」
「寝れなくても横になれ」
「はい」
美緒は、素直にうなずいた。それ以上、立っていられない気がした。
宮原がブランケットを取ってくる。
美緒はソファに座ったまま、もう一度カレンダーを見た。
日付。予定日。過ぎている。
指で数えたい。でも、宮原の前ではできなかった。
スマホのアプリを開けば、もっと正確に分かる。でも、スマホを開くのも怖かった。
カレンダーアプリ。記録。予定日。
そこに現実が出てしまう。
美緒は、膝の上の手を握った。
違う。
ストレスだ。寝不足だ。食べていないから。妻をやめたから。流出したから。第14妻の文字を見たから。
身体がおかしくなっているだけ。
そう思った。思おうとした。
宮原がブランケットをかけてくれる。
「ほら」
「ありがとうございます」
「ほんと、無理すんなよ」
その言葉で、美緒は一瞬だけ息を止めた。
無理すんなよ。
蓮の声ではない。宮原の声。近くにいる男の声。
でも、胸の奥で、別の声が重なりそうになった。
最近、無理してない?
離婚画面を開いたあの夜、あの一文で美緒は戻った。妻をやめる画面を閉じた。
今は、もう申請を出している。
それなのに、身体の中に、何かが残っているかもしれない。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
美緒は、すぐにそれを押し込めた。
まだ分からない。分からない。
分からないまま、ソファに背を預ける。宮原が隣に座る。動画の音が遠くに聞こえる。
美緒は、カレンダーを見ないように目を閉じた。
でも、日付は消えなかった。
一日。二日。三日。
遅れている。ほんの少し。
それだけのこと。
それだけのことなのに。
美緒は、目を閉じたまま思った。
あれ。




