表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
77/80

第77話【私はまだ友達だと思ってる】

救いではない。


正しいものでもない。


でも、近かった。


宮原は、美緒をゆっくり引き寄せた。美緒は、その胸に額を寄せた。


心臓の音がした。宮原のものなのか、自分のものなのか、分からなかった。


スマホが震えた。


美緒の身体が、小さく反応する。


宮原も、それに気づいた。二人の間の空気が少し止まる。


美緒は、ゆっくりスマホを見た。


凛だった。


高瀬凛:

「本当に会えない?」


少し間を置いて、もう一通。


高瀬凛:

「私はまだ友達だと思ってる」


美緒は、その文字を見つめた。


凛。


普通の世界にいる親友。


最初に、やっと結婚できたよ、と言った相手。夢みたいだと笑った美緒を、笑わずに見てくれた相手。


あの夜からずっと、言葉を選びながら手を伸ばしてくれていた相手。


私はまだ友達だと思ってる。


その一文が、胸の奥に刺さった。


まだ。


その言葉がついている。


凛は、もう何かに気づいているのかもしれない。美緒が遠ざかっていること。「もう大丈夫」が大丈夫ではなかったこと。「落ち着いたら連絡する」が、戻らないための言葉になっていること。


それでも、凛は言ってくれている。


私はまだ友達だと思ってる。


美緒は、返信欄を開いた。


「凛」


そこまで打って、止まる。


何を書けばいいのだろう。


ごめん。違う。


会いたい。それも違う。


会いたくないわけではない。


でも会えない。


今、宮原の部屋にいる。宮原に抱き寄せられていた。天城蓮の第14妻の噂を見て壊れそうになっていた。それを宮原で埋めようとしていた。


そんなこと、凛に言えない。


「私も友達だと思ってる」


打った。


でも、送れなかった。


その言葉は、嘘ではない。凛は友達だ。大事な友達だ。


でも、今の美緒は凛のところへ戻れていない。友達だと思っているのに、友達に見せられない場所にいる。


その矛盾が、言葉を重くした。


美緒は、打った文字を消した。


「誰?」


宮原が低く聞いた。


「友達」


「凛さん?」


「はい」


宮原は、少しだけ黙った。


「返せば」


美緒は首を横に振った。


「返せないです」


「なんで」


美緒は、スマホを伏せた。


「戻らなきゃいけなくなるから」


宮原は、何も言わなかった。


美緒は、伏せたスマホの上に手を置いた。


凛に返したら、きっと凛は来る。


どこにいるのか聞く。本当に大丈夫なのか聞く。宮原のことを知る。


正しい場所へ戻るための道を、凛は差し出してくれる。


でも、今の美緒はそこへ戻れない。


正しい場所には、説明がいる。


宮原の部屋には、説明がいらない。


だから、美緒はスマホを伏せた。


宮原が、そっと美緒の背中に手を置いた。


それが慰めなのか、引き止めなのか、分からなかった。


たぶん、両方だった。


美緒は、その手を拒まなかった。


「もう見ないんでしょ」


宮原が言った。


美緒は、小さくうなずいた。


「はい」


見ない。


天城蓮を。古妻ノートを。第14妻の文字を。凛の正しい心配を。


今だけは。


宮原の胸に、もう一度額を寄せる。


宮原の腕が、美緒を包む。


その腕の中にいる間だけ、美緒は自分がまだ誰かに欲しがられているような気がした。


第13妻ではなく。


第14妻の前の空席でもなく。


処理済みの人でもなく。


元妻でもなく。


ただ、美緒として。


そう思いたかった。


本当にそうなのかは、分からない。宮原が欲しがっているのが、美緒なのか、天城蓮から落ちてきた女なのかも分からない。美緒が宮原に寄っているのが、宮原だからなのか、天城蓮を見たくないからなのかも分からない。


でも、今はその分からなさの中にいたかった。


スマホは、ローテーブルの上で伏せられている。凛からの文字は、もう見えない。


宮原の手が、美緒の髪に触れる。


美緒は目を閉じた。


もう見ない。


そう思った。


でもそれは、忘れるという意味ではなかった。


ただ、今は見ない。


今だけ、宮原の方を向いていたかった。


もう見ない。


美緒は、宮原の胸に額を寄せたまま、そう思った。


天城蓮の名前も。


古妻ノートも。


第14妻の文字も。


璃子の言葉を軽く扱う書き込みも。


凛からの「私はまだ友達だと思ってる」も。


今は、見ない。


忘れるという意味ではない。


忘れられるはずがない。


ただ、今は見ない。


見たら、また壊れる。


第13妻だった自分が、第14妻という次の数字に押し流されるところを、これ以上見ていたくなかった。


宮原の手が、美緒の髪に触れていた。


ゆっくり、ためらいながら。


その手つきには、優しさもあった。下心もあった。確かめるような不安もあった。


美緒は、それを全部分かっていた。


分かっていて、離れなかった。


宮原の胸の奥で、心臓の音がした。


近い。


天城蓮は、どれだけ近くにいても、どこか画面の向こうの人だった。配偶者用アプリの中の対象者。妻コミュニティの中心。検索候補に出る名前。


でも、宮原はここにいる。


呼吸がある。体温がある。部屋の匂いがある。コンビニ袋の音がある。


美緒は、そこに寄りかかった。


救われたとは思わなかった。


ただ、立っていられない時に、倒れ込む先があった。


それだけだった。


しばらくして、宮原が小さく言った。


「なんか食う?」


美緒は、ゆっくり顔を上げた。


「今ですか」


「今」


「雰囲気、壊すの上手ですね」


「壊した方がよくない?」


宮原は、少しだけ笑った。軽い声だった。でも、その軽さが今はありがたかった。


美緒が返事をしないでいると、宮原は立ち上がった。


「適当に温めるわ」


「いらないです」


「またそれ」


「本当に、食べたくないです」


「食べたくなくても、ちょっとは食った方がいいでしょ」


宮原はキッチンの方へ行き、コンビニ袋を開いた。


おにぎり。惣菜。カップスープ。


テーブルに並べていく音が、部屋の中に小さく響いた。


美緒は、ソファの端に座り直した。


スマホは、ローテーブルの上で伏せたままにした。


触らない。今は触らない。そう決めて、両手を膝の上で握った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ