第77話【私はまだ友達だと思ってる】
救いではない。
正しいものでもない。
でも、近かった。
宮原は、美緒をゆっくり引き寄せた。美緒は、その胸に額を寄せた。
心臓の音がした。宮原のものなのか、自分のものなのか、分からなかった。
スマホが震えた。
美緒の身体が、小さく反応する。
宮原も、それに気づいた。二人の間の空気が少し止まる。
美緒は、ゆっくりスマホを見た。
凛だった。
高瀬凛:
「本当に会えない?」
少し間を置いて、もう一通。
高瀬凛:
「私はまだ友達だと思ってる」
美緒は、その文字を見つめた。
凛。
普通の世界にいる親友。
最初に、やっと結婚できたよ、と言った相手。夢みたいだと笑った美緒を、笑わずに見てくれた相手。
あの夜からずっと、言葉を選びながら手を伸ばしてくれていた相手。
私はまだ友達だと思ってる。
その一文が、胸の奥に刺さった。
まだ。
その言葉がついている。
凛は、もう何かに気づいているのかもしれない。美緒が遠ざかっていること。「もう大丈夫」が大丈夫ではなかったこと。「落ち着いたら連絡する」が、戻らないための言葉になっていること。
それでも、凛は言ってくれている。
私はまだ友達だと思ってる。
美緒は、返信欄を開いた。
「凛」
そこまで打って、止まる。
何を書けばいいのだろう。
ごめん。違う。
会いたい。それも違う。
会いたくないわけではない。
でも会えない。
今、宮原の部屋にいる。宮原に抱き寄せられていた。天城蓮の第14妻の噂を見て壊れそうになっていた。それを宮原で埋めようとしていた。
そんなこと、凛に言えない。
「私も友達だと思ってる」
打った。
でも、送れなかった。
その言葉は、嘘ではない。凛は友達だ。大事な友達だ。
でも、今の美緒は凛のところへ戻れていない。友達だと思っているのに、友達に見せられない場所にいる。
その矛盾が、言葉を重くした。
美緒は、打った文字を消した。
「誰?」
宮原が低く聞いた。
「友達」
「凛さん?」
「はい」
宮原は、少しだけ黙った。
「返せば」
美緒は首を横に振った。
「返せないです」
「なんで」
美緒は、スマホを伏せた。
「戻らなきゃいけなくなるから」
宮原は、何も言わなかった。
美緒は、伏せたスマホの上に手を置いた。
凛に返したら、きっと凛は来る。
どこにいるのか聞く。本当に大丈夫なのか聞く。宮原のことを知る。
正しい場所へ戻るための道を、凛は差し出してくれる。
でも、今の美緒はそこへ戻れない。
正しい場所には、説明がいる。
宮原の部屋には、説明がいらない。
だから、美緒はスマホを伏せた。
宮原が、そっと美緒の背中に手を置いた。
それが慰めなのか、引き止めなのか、分からなかった。
たぶん、両方だった。
美緒は、その手を拒まなかった。
「もう見ないんでしょ」
宮原が言った。
美緒は、小さくうなずいた。
「はい」
見ない。
天城蓮を。古妻ノートを。第14妻の文字を。凛の正しい心配を。
今だけは。
宮原の胸に、もう一度額を寄せる。
宮原の腕が、美緒を包む。
その腕の中にいる間だけ、美緒は自分がまだ誰かに欲しがられているような気がした。
第13妻ではなく。
第14妻の前の空席でもなく。
処理済みの人でもなく。
元妻でもなく。
ただ、美緒として。
そう思いたかった。
本当にそうなのかは、分からない。宮原が欲しがっているのが、美緒なのか、天城蓮から落ちてきた女なのかも分からない。美緒が宮原に寄っているのが、宮原だからなのか、天城蓮を見たくないからなのかも分からない。
でも、今はその分からなさの中にいたかった。
スマホは、ローテーブルの上で伏せられている。凛からの文字は、もう見えない。
宮原の手が、美緒の髪に触れる。
美緒は目を閉じた。
もう見ない。
そう思った。
でもそれは、忘れるという意味ではなかった。
ただ、今は見ない。
今だけ、宮原の方を向いていたかった。
もう見ない。
美緒は、宮原の胸に額を寄せたまま、そう思った。
天城蓮の名前も。
古妻ノートも。
第14妻の文字も。
璃子の言葉を軽く扱う書き込みも。
凛からの「私はまだ友達だと思ってる」も。
今は、見ない。
忘れるという意味ではない。
忘れられるはずがない。
ただ、今は見ない。
見たら、また壊れる。
第13妻だった自分が、第14妻という次の数字に押し流されるところを、これ以上見ていたくなかった。
宮原の手が、美緒の髪に触れていた。
ゆっくり、ためらいながら。
その手つきには、優しさもあった。下心もあった。確かめるような不安もあった。
美緒は、それを全部分かっていた。
分かっていて、離れなかった。
宮原の胸の奥で、心臓の音がした。
近い。
天城蓮は、どれだけ近くにいても、どこか画面の向こうの人だった。配偶者用アプリの中の対象者。妻コミュニティの中心。検索候補に出る名前。
でも、宮原はここにいる。
呼吸がある。体温がある。部屋の匂いがある。コンビニ袋の音がある。
美緒は、そこに寄りかかった。
救われたとは思わなかった。
ただ、立っていられない時に、倒れ込む先があった。
それだけだった。
しばらくして、宮原が小さく言った。
「なんか食う?」
美緒は、ゆっくり顔を上げた。
「今ですか」
「今」
「雰囲気、壊すの上手ですね」
「壊した方がよくない?」
宮原は、少しだけ笑った。軽い声だった。でも、その軽さが今はありがたかった。
美緒が返事をしないでいると、宮原は立ち上がった。
「適当に温めるわ」
「いらないです」
「またそれ」
「本当に、食べたくないです」
「食べたくなくても、ちょっとは食った方がいいでしょ」
宮原はキッチンの方へ行き、コンビニ袋を開いた。
おにぎり。惣菜。カップスープ。
テーブルに並べていく音が、部屋の中に小さく響いた。
美緒は、ソファの端に座り直した。
スマホは、ローテーブルの上で伏せたままにした。
触らない。今は触らない。そう決めて、両手を膝の上で握った。




