第76話【俺じゃだめなわけ?】
スマホを伏せても、画面の文字は消えなかった。
第14妻。
第一さんがもう面倒見てる。
"あなたは悪くないわ"コース。
最初はみんな救われるんだよね。
その文字だけが、瞼の裏に残っている。
美緒は、ローテーブルの前で動けずにいた。
宮原の部屋は暗い。小さなライトだけがついていて、床のコンビニ袋に薄い影を作っている。飲みかけの水。空になったカップスープの容器。借りたスウェット。壁に差さった充電ケーブル。
ここは天城蓮の世界ではない。
妻コミュニティでもない。
古妻ノートでもない。
宮原の部屋。制度の外側の部屋。
そのはずだった。
それなのに、美緒はまだ天城蓮の世界を見ている。
検索して。候補を見て。古妻ノートを開いて。第14妻の噂を見て。璃子の言葉が、次の誰かにも向けられているかもしれないと知った。
もう見ないと決めたのに。
美緒は、伏せたスマホから手を離せなかった。
「また見てんの?」
声がして、美緒は肩を揺らした。
宮原が、布団の上で半身を起こしていた。寝起きの顔だった。けれど目は、完全には眠っていなかった。
いつから起きていたのだろう。
美緒は、スマホを隠すように手で覆った。
「見てないです」
「今の間で、見てたでしょ」
「何見てたの」
美緒は答えなかった。
宮原は、短く息を吐く。
「天城蓮?」
その名前が、部屋の中に落ちた。
美緒は顔を上げられなかった。答えなくても、答えになっていた。
宮原は、しばらく黙った。その沈黙が、昨日までより少し重い。
「もう関係ないじゃん」
その言葉は、思っていたより低かった。
美緒は、ゆっくり顔を上げた。
宮原は、こちらを見ていた。怒っている、というほどではない。でも、いつもの軽さだけでもない。
「やめたんでしょ」
宮原は言った。
「離婚の申請、出したんでしょ」
「まだ、正式には」
「でも出したじゃん」
宮原の声が少しだけ硬くなる。
「元旦那のこと、いつまで見てんの」
元旦那。
その言葉に、美緒の胸が刺された。
宮原にとっては、そうなのだろう。
天城蓮は、美緒の元旦那。やめた相手。終わった相手。もう関係ない人。
でも、美緒の中では、そんなに簡単ではなかった。
天城蓮は、推しだった。夫だった。対象者だった。お前といると楽だ、と言った人だった。最後まで何も来なかった人だった。
元旦那。
その言葉で片づけられるほど、まだ遠くなっていない。
「関係なくはないです」
美緒は、小さく言った。
「元妻だから?」
美緒は、返事ができなかった。
その言葉を前に、自分で使った。
一応、元妻だから。
そう言って、しがみついた。
でも、宮原の声でそれを言われると、少し違って聞こえた。言い訳みたいだった。まだ天城蓮を見ている自分を、正当化するための言葉みたいだった。
「それ、ずっと言うの?」
宮原が言った。
「第13妻だったから」
「元妻だから」
「関係あるから」
「だから、まだ見るの?」
美緒は、唇を噛んだ。
責められている。そう感じた。
でも、宮原の声には、責めるだけではないものが混ざっていた。
苛立ち。嫉妬。傷ついたような音。
「宮原くんには分からないです」
美緒は言った。
言った瞬間、またその言葉だと思った。
ずっと、宮原にそう言っている。そして宮原も、分からないと言ってきた。
「うん」
宮原は、少しだけ笑った。笑いきれない顔だった。
「分かんないよ」
「分かんないけどさ」
そこで言葉を切る。
宮原は、布団の上で膝を立てた。
「俺の部屋にいるじゃん」
美緒は、何も言えなかった。
「俺の隣にいるじゃん」
「俺の服着て」
「俺の買った充電器使って」
「俺が買った飯食って」
「それで、まだ天城蓮見てんの」
一つ一つの言葉が、雑に置かれていく。
でも、その雑さの中に、宮原の痛みがあった。
美緒は、視線を落とした。
宮原の言う通りだった。
宮原の部屋にいる。宮原のスウェットを借りている。宮原に触れられた。
それでも、美緒の指は天城蓮へ向かった。
「俺じゃだめなわけ?」
宮原の声は、思ったより小さかった。
美緒は、顔を上げた。
宮原はすぐに視線を逸らした。
「冗談」
早かった。あまりにも早く、そう言った。
「今のなし」
冗談。
その言葉が、部屋の中で薄く浮いた。
でも、冗談ではなかった。美緒にも分かった。宮原にも、たぶん分かっている。
俺じゃだめなわけ?
その問いは、宮原の本音だった。
あの夜、車の中で宮原はそう言った。
天城蓮じゃなくて悪いけど。
あの時、美緒は、天城蓮じゃなくていいです、と返した。
でも、それは天城蓮を忘れたという意味ではなかった。宮原で埋まったという意味でもなかった。
ただ、あの夜、来たのが宮原だった。
それだけだった。
宮原は、きっとそれを分かっている。
自分が一番ではないこと。美緒の中に、まだ天城蓮がいること。
それを分かっていて、それでも近づいた。
宮原は傷ついている。でも、傷ついているだけではない。
美緒はそれも分かっていた。
宮原の中には、少しの優越感もある。天城蓮の第13妻だった女が、自分の部屋にいる。天城蓮から連絡が来なかった夜に、自分だけが迎えに行った。
そのことに、宮原が何も感じていないはずがない。
美緒は、それを汚いと思った。
でも、自分も同じくらい汚かった。
自分は宮原を使っている。
一人でいたくないから。誰かに欲しがられていたいから。第14妻という文字で空いた穴を、宮原の近さで塞ぎたいから。
宮原の下心を分かっていて、そこに寄りかかっている。
「だめじゃないです」
美緒は、やっと言った。
宮原がこちらを見る。
「でも」
言葉が続かなかった。
だめではない。
でも、天城蓮ではない。
代わりでもない。
救いでもない。
それを言えば、宮原を傷つける。言わなくても、たぶん傷つけている。
「でも、なんだ」
宮原が言った。
美緒は答えられなかった。
「まあ、そうだよな」
その言い方が、妙に寂しかった。
宮原は分かっている。天城蓮に勝てないことを。
天城蓮は、元アイドルで、国民的俳優で、政府広報にも出る制度利用著名人で、十二人の妻がいて、美緒を第13妻にした男だ。
宮原は、居酒屋の同僚だ。雑で、軽くて、部屋は散らかっていて、コンビニ飯ばかり買ってくる男。
勝てるはずがない。
それなのに、今ここにいるのは宮原だった。
宮原も、その事実に少しだけしがみついている。
美緒は、それに気づいた。
気づいたまま、手を伸ばした。
宮原の袖を掴む。
宮原が、少しだけ固まった。
「美緒」
低い声だった。
美緒は、宮原の方へ少し寄った。
「もう見ない」
自分でも、頼りない声だった。
「見ないです」
それは、天城蓮を忘れるという意味ではなかった。
忘れられない。
第14妻の文字も。璃子の言葉も。第13妻だった自分も。蓮に呼ばれた名前も。
全部、残っている。
でも今は、見たくない。今は、もう耐えられない。
宮原の顔が近くなる。宮原は、少しだけ迷っているようだった。
「ほんとに?」
「はい」
「俺の方、見る?」
その言い方は、少しだけふざけていた。でも、声は笑っていなかった。
美緒はうなずいた。
宮原の手が、美緒の肩に触れる。美緒は避けなかった。
宮原の手は温かかった。天城蓮の名前を見て冷えた指先とは違って、今ここにある温度だった。




