第75話【あなたは悪くないわコース】
検索結果の上に並んだ候補から、美緒は目を離せなかった。
天城蓮 第14妻。
その一行を見ただけで、息が浅くなる。
ただの候補かもしれない。誰かが検索しただけかもしれない。自動で出ているだけかもしれない。
分かっている。
それでも、美緒の指は動かなかった。
第14妻。自分の次。
第13の次は第14。そんなこと、最初から分かっていたはずだった。
美緒が第13妻として登録された時、天城蓮にはすでに十二人の妻がいた。十二人の次に、美緒が入った。
なら、美緒の次に誰かが来ることもある。
制度はそういうものだ。天城蓮は、そういう人だ。
それなのに。
その数字が画面の中に出ただけで、美緒のいた場所が、もう誰かのものになったように見えた。
美緒は、検索結果を少し下へ送った。
公式サイトではない。ニュースサイトでもない。検索結果の途中に、古妻ノートのまとめが出ていた。
【天城蓮・下位妻周辺メモ更新】
その見出しを見た瞬間、指先が冷たくなる。
見ない方がいい。絶対に見ない方がいい。
古妻ノートは、いつもそうだった。半分は噂。半分は観察。どこかの誰かが集めた、妻たちの断片。
でも、その断片が時々、妙に当たっている。
美緒自身も、そこに切り刻まれた。第13妻。居酒屋勤務。非公表妻。匂わせ。流出。名前はないのに、自分のことだと分かる言葉で書かれた。
もう見なくていい。美緒は元妻になるのだから。
いや、まだ正式には元妻ではないのかもしれない。でも、申請は出した。
【配偶登録解除申請を受け付けました】
あの文字を見た。
だから、もう見なくていい。
そう思ったのに、美緒は古妻ノートのリンクを開いた。
画面が切り替わる。
白地に、細かい文字。匿名掲示板のまとめ。妻界隈の噂。ファンアカウントの観測。
その中に、見たくない言葉があった。
「天城、また新しい子入ったっぽい」
美緒は、画面を持つ手に力を入れた。
「第14?」
「この前の第13の件、もう処理済みってこと?」
「早くない?」
「いや、下位妻なんて入れ替わりあるでしょ」
「第13の子、居酒屋勤務の子だったんだっけ」
「下位は呼ばれ待ち枠だからね」
「新しい子、若いらしいよ」
文字が並んでいるだけだった。誰の声でもない。画面の中の、ただの書き込み。
でも、美緒には、それが自分の部屋まで入ってくる声に思えた。
この前の第13の件。
処理済み。
下位妻なんて入れ替わり。
呼ばれ待ち枠。
美緒は、画面を閉じようとした。
でも、閉じられなかった。
自分のことが書かれている。自分のあとに来る誰かのことが書かれている。自分がいなくなった場所が、どう扱われているのか。
知りたくなかった。でも、知りたかった。
美緒は、さらに下へ送った。
「第一さんがもう面倒見てるって噂」
その一文で、胸の奥が止まった。
第一さん。璃子。久我璃子。
美緒は、画面を見つめたまま動けなくなった。
もう面倒見てる。それは、たぶん新しい後妻のことだった。まだ名前も出ていない。本当に存在するかも分からない。非公表の誰か。
その誰かを、もう璃子が面倒見ている。
美緒は、あのラウンジで璃子と話した夜を思い出した。
璃子の落ち着いた声。
あなたは悪くないわ。
彼はちゃんと見てるわ。
あなたは大事にされているのよ。
一人で抱えなくていいから。
美緒は、あの言葉に救われた。本当に救われた。
下位妻グループで少しずつ浮き始めていた。匿名の悪意に傷ついていた。妻でいることが怖くなっていた。
その時、璃子は美緒を見た。
やさしく。丁寧に。責めずに。
美緒は思った。この人は、分かってくれる。
そして、璃子は言った。
誰にも言わないでね。私も、怖かったの。若い子が現れるたびに、もう終わりかもしれないって思った。
その言葉を聞いた時、美緒は、自分だけが璃子の奥へ入れたような気がした。
第一妻が、自分にだけ弱さを見せてくれた。
だから、信じた。
璃子さんがそう言うなら、大丈夫。私は大事にされている。私は悪くない。
あの時、美緒は確かに救われた。
でも、画面の中には別の言葉が並んでいた。
「第一さん、また新しい子に個別で声かけてるらしい」
「いつものやつね」
「"あなたは悪くないわ"コース?」
「最初はみんな救われるんだよね」
美緒は、息を吸うのを忘れた。
あなたは悪くないわ。
その言葉が、引用符の中に入っていた。
コース。いつものやつ。最初はみんな救われる。
美緒の中で大事だった言葉が、画面の中で軽く扱われている。
違う。そう思った。
璃子さんは、そんな人じゃない。
あの優しさは、嘘じゃなかった。
少なくとも、美緒に向けられた時の璃子の声は、嘘には聞こえなかった。璃子の目も。静かな笑い方も。「私も怖かったの」と言った時の間も。
全部、嘘だったとは思いたくない。思いたくなかった。
でも、特別だったのかは分からない。
そのことが、美緒を深く刺した。
嘘ではない。
でも、自分だけのものでもない。
璃子は、新しい若い妻に同じように声をかけるのかもしれない。
あなたは悪くないわ。
一人で抱えなくていいから。
あなたは大事にされているのよ。
そう言うのかもしれない。そして、その子も救われるのかもしれない。
美緒と同じように。
この人は分かってくれる、と思うのかもしれない。
美緒は、スマホを握りしめた。
画面の文字が少し滲む。泣いているわけではなかった。たぶん。でも、目の奥が熱かった。
璃子を恨みたいわけではない。
璃子は、たぶん本当に優しい。若い妻を壊さないようにする。妻コミュニティの中で、ひどく崩れる前に受け止める。外へ暴発しないように、言葉を渡す。
それは、優しさなのだと思う。
でも、それは同時に、運用だった。
制度を続けるための優しさ。妻たちを壊しすぎないための技術。
美緒が「自分だけ」と思ったものが、実はずっと前から繰り返されてきたものかもしれない。
その可能性が、苦しかった。
画面には、さらに書き込みが続いていた。
「第13の時も第一さん動いてたよね」
「結局あの子どうなったの?」
「解除申請出したって噂」
「まあ、流出したら居づらいでしょ」
「乃亜の件も結局うやむや?」
「第14入るなら、下位グループまた空気変わりそう」
乃亜。
その名前を見た瞬間、美緒の指が止まった。
乃亜。第12妻。最初に近づいてくれた人。
うちら下の方同士、気楽にやろ。そう言ってくれた人。
分かるって言わないでよ。そう言って、美緒から離れていった人。
流出のことは、まだ何も分からない。乃亜が何を知っていたのか。何も知らなかったのか。関わっていたのか。関わっていなかったのか。
美緒は、まだ分からない。
分からないまま、乃亜の名前が画面の中で消費されている。
美緒のことも。乃亜のことも。璃子のことも。新しい第14妻のことも。
全部、誰かの書き込みの材料になっている。
妻だった本人たちの息遣いは、そこにはない。ただ、番号と噂だけが進んでいく。
第12。第13。第14。
美緒は、第13妻だった。
第13配偶者。
その番号は、美緒にとって、世界で一番特別な番号だった。その他大勢ではない証。天城蓮の人生のどこかに、自分の名前が登録された証。凛に、やっと結婚できたよ、と言えた証。
でも、制度にとっては違う。
第13は、第12の次。そして、第14の前。
それだけだった。
美緒が泣いても。流出しても。妻コミュニティから切り離されても。配偶登録解除申請を出しても。
数字は進む。
妻コミュニティは止まらない。
璃子は次の子に声をかける。
下位妻グループには、新しい空気が入る。
天城蓮は、たぶんまた誰かに優しくする。
美緒は、画面を閉じた。
ようやく、閉じた。
部屋は暗かった。宮原の寝息が聞こえる。
ローテーブルの上には、飲みかけの水。床にはコンビニ袋。洗面台には、美緒のヘアゴム。壁には、宮原が買った充電ケーブル。
現実の部屋。制度の外側の部屋。
そのはずだった。
でも、美緒の手の中には、まだ天城蓮の世界が残っていた。
画面を閉じても、文字は消えない。
第14妻。
第一さんがもう面倒見てる。
"あなたは悪くないわ"コース。
最初はみんな救われるんだよね。
美緒は、スマホを伏せた。
自分が救われたと思っていた場所は、もう次の誰かを救おうとしている。
そのことが、どうしようもなく痛かった。




