第80話【確認するだけ】
宮原の部屋には戻らなかった。
ドラッグストアを出たあと、美緒は一度だけ宮原にメッセージを送った。
佐倉美緒:
「少し自分の部屋に戻ります」
送ってから、すぐに既読がついた。
宮原悠斗:
「送る?」
美緒は、立ち止まった。
街灯の下で、小さな白い袋を握ったまま、画面を見つめる。
送る。宮原はたぶん、本当に来る。車を出して、美緒を迎えに来て、何も聞かずに部屋まで送る。
それがありがたいようで、今は怖かった。
佐倉美緒:
「大丈夫です」
打って、少し迷う。大丈夫ではない。でも、もうその言葉は何度も使ってしまった。凛にも。宮原にも。自分にも。
美緒は、そのまま送信した。
宮原悠斗:
「なんかあったら言って」
短い返事。その短さが、今はありがたかった。
今だけは、一人でいなければならない気がした。
自分の部屋に戻ると、空気が少し冷たかった。
何日か留守にしただけなのに、知らない場所みたいだった。
玄関には、出ていった時のままの靴。テーブルの上には、空のマグカップ。畳まれていない部屋着。充電器。配偶者用アプリを何度も開いたソファ。
誰も来なかった部屋。
あの夜、自分はここで待っていた。天城蓮からの連絡を。璃子からの言葉を。誰かが来ることを。
結局、来たのは宮原だった。
美緒は靴を脱ぎ、部屋の奥へ入った。
白い袋を、テーブルの上に置く。
袋の中で、箱がかさりと音を立てた。
妊娠検査薬。
まだ、箱を開けていない。
開けなければ、まだ可能性のままだった。
たぶんストレス。たぶん寝不足。たぶん生活リズムの乱れ。たぶん、何でもない。
そう思える。でも、開けなければ、ずっとそのままでもある。
美緒は、しばらく袋を見つめていた。
部屋の中は静かだった。
宮原の部屋の冷蔵庫の音もない。コンビニ袋の音もない。宮原の寝息もない。
自分の部屋は、こんなに静かだったのだと思う。
静かすぎたあの夜と、似ている。
でも、今はスマホの通知を待っているわけではなかった。白い袋の中身を見ないでいるだけだった。
美緒は、ようやく袋を開けた。
箱を取り出す。
パッケージには、柔らかい色の文字で商品名が書かれている。判定。一分。簡単。その言葉が、軽すぎる。
美緒は、箱の側面を開けた。説明書が入っている。
取り出して広げると、細かい文字が並んでいた。
使用方法。判定時間。陽性。陰性。使用上の注意。
美緒は、文字を追った。でも、頭に入らなかった。同じ行を何度も読む。何度読んでも、意味が滑っていく。
美緒は説明書を一度置いた。手が少し震えている。
水を飲もうと思って立ち上がる。台所へ行き、コップに水を入れる。蛇口から出る水の音が、部屋に大きく響いた。
一口飲む。喉が渇いていた。
戻って、もう一度説明書を見る。
手順は難しくない。難しくないはずだった。それなのに、美緒にはひどく大きなことのように思えた。
検査するだけ。確認するだけ。違って、それで終わりにするだけ。
美緒は、検査薬を袋から出した。
白い細長い形。思ったより軽い。
こんな小さなもので、分かるのだろうか。でも、分かってしまうのだろう。
美緒は洗面所へ行った。
鏡に、自分の顔が映る。
マスクを外した顔。少しやつれた頬。寝不足の目。宮原の部屋で借りたスウェットではなく、自分の部屋にあった部屋着に着替えた身体。
佐倉美緒。
天城蓮の第13妻だった人。配偶登録解除申請を出した人。宮原の部屋から戻ってきた人。
その自分が、洗面所で検査薬を持っている。
美緒は、目を伏せた。
手順通りに検査をした。
それだけのことなのに、終わった瞬間、膝の力が少し抜けた。
検査薬を洗面台の端に置く。スマホを取り出し、タイマーをかけた。
一分。画面に数字が出る。開始ボタンを押す。
一分。たった一分。
天城蓮からの通知を待っていた時間に比べれば、短すぎる。呼ばれるかもしれない夜。既読がつくまでの時間。璃子からの返信を待った時間。凛に返せず、画面を見つめていた時間。
あれに比べれば、一分なんて何でもない。そう思った。
でも、その一分が長かった。
美緒は検査薬を見ないように、洗面所の壁を見た。白い壁。小さな傷。鏡の端に残った水滴。
見ない。まだ見ない。
そう思った次の瞬間、もう検査薬を見ていた。
まだ何も分からない。美緒はすぐに目を逸らした。
スマホを見る。残り四十七秒。ほとんど進んでいない。
美緒は洗面所を出て、部屋の中を歩いた。二歩。三歩。すぐに戻る。また検査薬を見る。まだ分からない。
分からないはずなのに、何かが始まっている気がした。
美緒は、洗面台のふちを掴んだ。
子ども。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
何度も形を変えて、美緒の前に現れた言葉。
最初は、夢だった。
最初に、凛に言った。
いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。
笑わないでよ。ファンの妄想だって分かってるけど。でも、今、その夢が叶うかもしれないんだよ。
あの時の自分は、少し恥ずかしそうに笑っていた。
それは甘い夢だった。推しと結婚して。ちゃんと愛されて。その先に、いつか子どもがいる。そういう明るい形をしていた。
次に、子どもは立場になった。
下位妻グループで、誰かが言った。子どもいる妻は強いよ。笑い混じりだった。でも、誰も否定しなかった。
子どもがいれば、切れにくい。子どもがいれば、家族として残る。
その時、美緒は少し遠い話として聞いていた。
そのあと、子どもは誰かの痛みになった。
璃子。第一妻。子どもがいない人。
子どもは、誰のお腹から生まれたかだけじゃないと思うの。そう言っていた。そう思うようにしているの。
あの時、美緒は璃子の強さに触れた気がした。
でも今は、その言葉が少し違って聞こえる。
それは優しい言葉だった。でも、誰のお腹から生まれるかが、何も意味を持たないということではない。制度の中で、子どもは強い。誰のお腹から生まれたかは、確かに意味を持つ。
美緒は、その意味を知ってしまっている。第14妻の文字を見たあとだから、なおさら。
第13妻の場所は、すぐに埋まる。でも、子どもがいたら。
その考えが浮かんだ瞬間、美緒は自分が怖くなった。
違う。まだ違う。まだ何も分からない。
美緒は、そう思った。
でも、違ってほしいのか、違ってほしくないのか、もう分からなかった。
検査薬の白い細長い形が、洗面台の上にある。
そこに出る線。それだけで、何かが変わるかもしれない。
天城蓮の妻ではなくなりかけている自分。第13妻の場所を失った自分。宮原の部屋に流れた自分。凛に返せない自分。
その身体の中に、まだ天城蓮との接続が残っているかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に、怖さとは別のものが灯った。
美緒は、それをすぐに押し込めた。
だめ。そう思った。そんなふうに思ってはいけない。
宮原の顔が、一瞬だけ浮かんだ。
俺じゃだめなわけ? あの声。美緒、と呼ぶ低い声。水を渡す手。カップスープ。ブランケット。雑な優しさ。近い体温。
宮原に、何と言えばいいのだろう。
まだ何も決まっていないのに、もう罪悪感が来る。
美緒は、洗面台に両手をついた。
タイマーが鳴った。
小さな電子音。美緒の身体が、びくっと跳ねた。
一分。
終わった。
美緒は、すぐには検査薬を見られなかった。
手が冷たい。喉が乾く。膝に力が入らない。
違う。たぶん違う。確認するだけ。
そう思って買った。そう思って使った。
でも、今はもう、その言葉が頼りなかった。
美緒は、ゆっくり顔を上げた。




