第72話【まだ、見ない】
夜がさらに深くなっても、美緒は眠れなかった。
宮原は、今度こそ眠っていた。布団の上で横を向き、片腕を枕の下に入れている。寝息は静かだった。ときどき、少しだけ眉が動く。
美緒はソファの端に座ったまま、スマホを持っていた。
画面は暗い。通知は来ていない。
さっきから何度も確認している。来ていないことは分かっている。
天城蓮からも。璃子からも。凛からも。乃亜からも。配偶者用アプリからも。
何も来ていない。それなのに、手放せなかった。
スマホを伏せる。また持ち上げる。画面をつける。通知欄を見る。何もない。
その繰り返しだった。
静かだった。本当に静かだった。
流出の朝のように、通知が止まらないわけではない。誰も来なかった夜のように、誰かの言葉を待って壊れそうになるわけでもない。申請ボタンの前で息が止まった夜のようでもない。
ただ、何もない。
妻コミュニティの通知はない。下位妻グループの新着もない。呼び出し通知もない。古妻ノートを開く必要もない。
見なくていい。待たなくていい。比べなくていい。
それは楽だった。たしかに、楽だった。
でも、その楽さの中には、何もなかった。
美緒は、スマホのホーム画面を見つめた。
配偶者用アプリのアイコンがある。開かない。そう決めていた。
開けば、申請の状態を見てしまう。受付中。確認中。管理担当からの連絡をお待ちください。そんな言葉を見ることになる。
古妻ノートのアイコンもある。開かない。開けば、また第13妻の話題があるかもしれない。乃亜に似た声を探してしまうかもしれない。
妻向け掲示板も見ない。匿名SNSも見ない。下位妻グループも見ない。
もう、見ない。そう決めた。
美緒は、スマホを伏せようとした。
その時、検索アプリのアイコンが目に入った。
何度も使ってきたアイコン。妻になる前から、ずっと。
天城蓮の出演情報を調べる時。舞台挨拶の予定を探す時。そして、妻になってからも。他の妻の噂。制度利用著名人としてのニュース。流出後のまとめ。
何度も、何度も検索した。
天城蓮。
指が、そのアイコンに近づいた。
美緒は、そこで止めた。
見ない。そう決めたはずだった。
もう見ない。妻チャットも。古妻ノートも。匿名SNSも。天城蓮の名前も。
見れば傷つく。見れば戻される。見れば、また自分が第13妻だったことを確認してしまう。
美緒は、スマホを伏せた。
数秒。
また、持ち上げた。
静かすぎた。
誰も呼ばない。誰も比べない。誰も、美緒を第13妻として扱わない。
その静けさが怖かった。
傷つきたくない。でも、何にも触れられないのも怖い。
美緒は、検索アプリを開いた。
白い画面。検索窓が表示される。
指が、そこに触れた。キーボードが出る。
美緒は、しばらく何も打たなかった。
ただ、空白の検索窓を見つめた。
ここに名前を入れるだけ。それだけだった。検索するだけ。見るだけ。
何かを送るわけではない。誰かに連絡するわけではない。ただ、見るだけ。
美緒は、ゆっくり打った。
天城蓮。
三文字。何度も打った名前。
妻になる前も。妻になった後も。流出した後も。申請を出した後も。
名前を打つ動作だけは変わらなかった。
あ、を打つ。ま、を打つ。ぎ、を打つ。れ、を打つ。ん、を打つ。変換する。天城蓮。
検索窓に、その名前が入る。
美緒は、すぐに消した。全部消した。空白に戻る。息を吐く。
何をしているのだろう。
もう見ないと決めた。もう妻ではない。いや、まだ正式には妻なのかもしれない。でも申請は出した。
【配偶登録解除申請を受け付けました】
あの画面を見た。それなのに。
美緒は、もう一度検索窓を見た。空白だった。
空白が、また怖くなる。
天城蓮という名前がないと、何を入れればいいのか分からない。
自分の名前。佐倉美緒。それを入れるのは怖かった。流出の残りが出てくるかもしれない。居酒屋勤務。第13妻。非公表妻。そんな断片がまた出てくるかもしれない。
検索窓は、天城蓮のために開いたのだ。
美緒は、もう一度打った。
天城蓮。
今度は消さなかった。




