第71話【一応、元妻だから】
宮原が先に寝たあとも、美緒はしばらく起きていた。
部屋の明かりは落としてある。ローテーブルの上に置かれた小さなライトだけが、部屋の端をぼんやり照らしている。
宮原は布団の上で横になっていた。寝息が聞こえる。ときどき寝返りを打つ。床に置かれたコンビニ袋が、そのたびにかすかに音を立てる。
美緒は、ソファの端に座っていた。肩には、宮原がかけたブランケットがある。膝の上にはスマホ。画面は暗いまま。
通知は来ていない。
それを何度も確認したあと、さすがに自分でも少しおかしくなった。
来ていないことを確認するために、何度も画面をつけている。
天城蓮からも。璃子からも。凛からも。乃亜からも。下位妻グループからも。配偶者用アプリからも。
何も来ていない。
何も来ていないことを見て、少し安心する。でも、すぐに怖くなる。
美緒は、スマホを伏せた。
その時、宮原が寝ぼけた声で言った。
「……まだ起きてんの」
美緒は肩を揺らした。
「起こしました?」
「いや」
宮原は、目を半分だけ開けた。
「スマホ、光ってた」
「すみません」
「謝ることじゃないけど」
宮原は、少し体を起こした。眠そうな顔だった。髪が乱れている。普段の軽い顔より、少し幼く見えた。
「また見てたの?」
「見てないです」
「見てたでしょ」
「通知を確認してただけです」
「それ、もう見てるってことでいいじゃん」
宮原はそう言って、壁に背中を預けた。部屋がまた少し静かになる。
美緒は、スマホを伏せたまま指先でなぞった。
「もう来ないかもしれないから」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
「何が」
「通知」
「誰から」
美緒は、すぐには答えなかった。
「天城蓮?」
宮原が、先に言った。
美緒は、顔を上げた。宮原は、少しだけ気まずそうな顔をした。
「違ったらごめん」
美緒は首を横に振った。
「違わないです」
認めると、胸の奥が少し痛くなった。
申請を出した。配偶登録解除申請を送った。それでも、まだ天城蓮からの通知を待っている。
自分でも、どうしようもないと思う。
宮原は、小さく息を吐いた。
「結局、なんか来たの?」
「来てないです」
「そっか」
それだけだった。責めない。笑わない。俺がいるのに、とも言わない。
その短さが、少しだけありがたかった。
でも、少しだけ寂しかった。
宮原にもっと嫉妬されたいわけではない。ただ、自分の中でまだ天城蓮が大きいことを、誰かに分かってほしかった。
でも、宮原は分からない。分からないまま、隣にいる。
「天城蓮ってさ」
宮原が言った。美緒は、指を止めた。
「今どうしてんの」
「……知りません」
「ニュースとか、コメント出したのかなって」
「見てないです」
「見ない方がいいって言ってたもんな」
宮原はそう言って、少しだけ天井を見た。
「まあ、芸能人って大変だよな」
その言い方は、本当に軽かった。テレビの向こう側の人の話をしている声だった。
美緒は、少しだけ胸がざわついた。
宮原にとって、天城蓮はそういう人なのだ。
芸能人。ニュースの人。美緒が好きだった人。
それだけ。
美緒にとっての天城蓮とは違う。
夫だった人。
そう思った瞬間、美緒は固まった。
夫。その言葉は、もう正しいのだろうか。
まだ手続きは完了していない。配偶登録解除申請を受け付けただけ。対象者側確認と事務所確認がある。
だから、制度上はまだ妻なのかもしれない。
でも、美緒の指はもう、送信ボタンを押した。
では、今の自分は何なのだろう。妻。元妻。手続き中の妻。解除申請中の第13配偶者。どれも変だった。
「もう関係ないじゃん」
宮原が、何気なく言った。
美緒は、顔を上げた。
「え」
「いや」
宮原は、すぐに少し慌てた。
「言い方悪かった」
「でも、離婚の申請したんでしょ」
「離婚っていうか、配偶登録解除です」
「同じじゃないの?」
「同じじゃないです」
反射的に言っていた。
「違うんだ」
「違う……と思います」
言いながら、自分でも曖昧だった。
違う。そう言いたかっただけかもしれない。
ただの離婚ではない。ただの別れではない。美緒は、天城蓮の第13妻だった。非公表でも。旧姓のままでも。下位妻でも。妻コミュニティから切り離されても。それでも、制度上は妻だった。
「関係なくはないよ」
美緒は、ぽつりと言った。
宮原は、少し黙った。
「まだ好きってこと?」
その質問に、美緒は答えられなかった。
好き。その言葉では、もう足りない気がした。
好きだった。推しだった。夫だった。夢だった。地獄だった。自分をその他大勢から抜け出させてくれた人だった。名前を呼んでくれた人だった。何も来なかった人だった。
好きかどうかだけでは、もう言えない。
「分かりません」
美緒は言った。
「また分かんない」
「本当に分からないんです」
「じゃあ、関係あるって何」
美緒は、スマホを見た。暗い画面に、自分の顔がうっすら映っている。
「一応」
美緒は、言った。そこで止まる。
口の中に、言葉が残っている。言いたくない。でも、言いたい。
「一応、元妻だから」
部屋が静かになった。
言ってから、美緒自身が一番驚いた。
元妻。
自分で言った。その言葉が、部屋の中に落ちる。
まだ正式には元妻ではないかもしれない。でも、美緒はそう言った。
妻ではない。ただの佐倉美緒にも戻れない。だから、元妻。その言葉の中に、自分を置こうとした。
宮原は、少し変な顔をした。笑ったわけではない。馬鹿にしたわけでもない。ただ、どう受け取ればいいか分からない顔だった。
「元妻、ね」
その声に、美緒の胸が少し痛んだ。
「なんか、すごい肩書きだな」
宮原は、言葉を選んでいるようで、選びきれていなかった。
「元カノとかとは違うんだ」
「違うよ」
美緒はすぐに言った。思ったより強い声だった。
宮原は、少しだけ目を伏せた。
「ごめん。分かんないわ」
その言葉は、まっすぐだった。
分からない。宮原は、本当に分からないのだ。
第13妻という番号が、美緒にとって何だったのか。蓮に名前を呼ばれた夜が、どれだけ身体に残っているのか。
宮原には分からない。
「分からないんですね」
「うん」
「全然?」
「全然ではないと思いたいけど、たぶん全然」
宮原は、少しだけ自嘲するように笑った。
「俺、天城蓮の妻だったことないし」
その言い方に、美緒は少しだけ息を吐いた。笑うほどではない。でも、胸の奥が少しだけ緩む。
宮原は分からない。分かったふりをしない。
それは少し傷つく。でも、変に理解されるよりはましだった。
璃子は分かってくれた。ように見えた。あなたは悪くないわ。あなたは大事にされているのよ。その言葉に、美緒は救われた。でも、璃子は制度の中の人だった。分かることが、管理することにつながっていた。
凛は分かろうとしてくれた。一人で抱えないで。少しだけでも会えない? 普通の世界から手を伸ばしてくれた。でも、美緒はそこへ戻るための説明ができなかった。
宮原は分からない。その代わり、説明しなくても隣にいる。
「元妻って」
宮原が言った。
「そんなに大事?」
美緒は、すぐには答えられなかった。
大事だったのは、妻だったこと。天城蓮に選ばれたこと。第13配偶者として登録されたこと。
元妻は、その残りかすみたいなものかもしれない。
でも、それでも。
「大事、というか」
美緒は、言葉を探した。
「なかったことには、できないから」
宮原は黙って聞いていた。
「あの場所にいたことを」
「天城蓮の妻だったことを」
「璃子さんに、あなたは大事にされているのよって言われたことを」
「蓮さんに、名前を呼ばれたことを」
声が、少し震えた。
「全部、なかったことにはできない」
「だから、ただの佐倉美緒には戻れない」
「でも、もう妻でもない」
「だから」
美緒は、もう一度言った。
「元妻」
その言葉は、さっきより少し静かだった。
元妻。
それは、未練だった。同時に、自己防衛でもあった。
あの時間を、ただの失敗にしたくない。あの幸福を、ただの勘違いにしたくない。
美緒は本当に妻だった。非公表でも。短い時間でも。流出して、切り離されて、申請を出すところまで行ってしまっても。
それでも、妻だった。
元妻という言葉は、その証拠だった。
宮原は、しばらくして言った。
「俺からするとさ」
「はい」
「美緒は美緒だけど」
その言葉で、美緒は顔を上げた。
宮原は、照れたように視線を逸らした。
「いや、別にいいこと言った感じにしたいわけじゃなくて」
「その、第13妻とか、元妻とか、俺には正直よく分かんないし」
「でも、今ここにいるのは美緒でしょ」
美緒は、何も言えなかった。
美緒。また、その呼び方。
第13妻でもない。元妻でもない。佐倉さんでもない。
美緒。
その呼び方は、温かいのかもしれない。でも、同時に怖かった。
宮原にとって、美緒は美緒。それは救いのように聞こえる。でも、その言葉の中では、第13妻だった美緒も、天城蓮に名前を呼ばれて泣きそうになった美緒も、少し薄くなる。
美緒は、それをすぐには喜べなかった。
「それは」
美緒は、小さく言った。
「ちょっと、ずるいです」
「ずるい?」
「宮原くんには、分からないから、そう言える」
「まあ、そうかも」
宮原は否定しなかった。
「でも、分かんないから、そう言えるのもあるでしょ」
美緒は、口を閉じた。
それは、たぶん本当だった。
宮原は分からない。だから、元妻という言葉の重さを軽くしてしまう。
でも、分からないから、美緒を第13妻として見ないでいられる。流出した非公表妻としてだけ見ないでいられる。
そこに救いがあるのかもしれない。同時に、危うさもある。
宮原は、美緒を美緒として見る。でも、その美緒を欲しがってもいる。
それも、美緒には分かっていた。
「ごめん」
宮原が言った。
「元妻とか、そういうの、軽く言った」
美緒は首を横に振った。
「宮原くんは、分からないだけだから」
「それ、フォロー?」
「分かりません」
宮原は少し笑った。
「またそれ」
美緒も、ほんの少しだけ息を吐いた。笑うほどではない。でも、空気が少しだけ動いた。
宮原はまた布団に横になった。
「寝れば」
「眠れないです」
「目閉じとけば」
「そればっかり」
「それしか言えない」
宮原は、天井を見たまま言った。
「分かんないから」
その声が、少しだけ優しかった。
美緒は、スマホを手に取った。画面をつける。通知はない。
配偶者用アプリは開かなかった。でも、検索アプリのアイコンが目に入った。
天城蓮。その名前を、今はまだ打たない。
そう思った。思っただけで、指が少し動いた。
美緒はスマホを伏せた。
元妻。その言葉が、胸の奥に残っている。
自分で言った。言ってしまった。
妻ではない。ただの佐倉美緒にも戻れない。
その間に、美緒は立っている。
宮原の部屋の、薄い明かりの中で。
隣には、分からないと言う男がいる。分からないまま、自分を美緒と呼ぶ男がいる。
その近さに少し救われながら、美緒はまだ、元妻という言葉を手放せずにいた。




