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第70話【何の前でもない夜】

夜になっても、スマホは静かだった。


昼間、宮原は何度か外へ出た。コンビニに行く。ゴミを出す。近くのドラッグストアで何かを買う。


そのたびに、美緒は部屋に一人になった。


でも、自分の部屋にいる時の一人とは少し違った。


ここには宮原のものがある。脱ぎっぱなしの上着。床に置かれた雑誌。使いかけのインスタントコーヒー。洗面台のヘアゴム。壁に差したままの充電ケーブル。


どれも美緒のものではない。でも、その中に少しだけ美緒の痕跡が混ざっている。借りたスウェット。飲みかけの水。テーブルの端に置いたスマホ。


だから、完全な一人ではない。そのはずだった。


それなのに、夜になるにつれて、部屋は少しずつ広くなっていくように感じた。


宮原が戻ってきてから、コンビニの袋をテーブルに置いた。


「適当に買ってきた」


袋の中には、カップ麺とおにぎりと、ペットボトルのお茶が入っていた。


「またコンビニですか」


「文句言うなら自炊する?」


「できるんですか」


「できない」


宮原は即答した。美緒は少しだけ息を吐いた。笑ったわけではない。でも、空気が少しだけ緩んだ。


宮原はカップ麺にお湯を入れ、スマホで動画を探し始めた。


「なんか見る?」


「なんでもいいです」


「なんでもいいが一番困るやつ」


「じゃあ、宮原くんが見たいので」


「俺が見たいの、たぶん美緒つまんないよ」


「じゃあ、つまんないやつでいいです」


「投げやりすぎ」


そう言いながら、宮原は動画を再生した。


画面の中で、知らない芸人が大きな声で笑っている。テロップが流れる。効果音が鳴る。


宮原は、たまに笑った。


美緒は、その横でスマホを見ていた。


通知は来ていない。


天城蓮からも。璃子からも。凛からも。乃亜からも。下位妻グループからの通知もない。配偶者用アプリも静かだった。


申請がどうなったのか、見ようと思えば見られる。でも、開かなかった。


開いても、そこには手続きの言葉しかない気がした。確認中。管理担当からの連絡をお待ちください。そんな文字を見ても、何が変わるわけではない。


古妻ノートも開かなかった。匿名SNSも開かなかった。


見る必要はない。もう、第13妻として傷つく必要はない。そう思いたかった。


美緒は、スマホを伏せた。数分後、また持ち上げた。何も来ていなかった。伏せる。また持ち上げる。何も来ていない。


それを何度か繰り返していると、宮原が画面から目を離さずに言った。


「スマホ見んなって」


美緒は、手を止めた。


「見てないです」


「見てる」


「通知を確認してるだけです」


「それを見てるって言うんじゃないの」


宮原はカップ麺のふたを外しながら言った。


「来てないんでしょ」


美緒は、返事に詰まった。


来ていない。本当に、来ていない。


「ならいいじゃん」


「変なの来るよりいいでしょ」


それは正しかった。


変な通知が来るよりはいい。流出の見出し。古妻ノートの更新。下位妻グループの既読だけの沈黙。そういうものが来ない方がいい。


でも、来ないことにも、別の怖さがあった。


スマホが静かすぎる。


今までずっと、何かに追われていた。誰が呼ばれたか。誰が何を言ったか。璃子が何を送ってくるか。蓮から連絡が来るか。


つらかった。本当につらかった。でも、それが生活の中心だった。


呼ばれない夜は、呼ばれるかもしれない夜でもあった。下位妻グループの通知は、嫉妬や比較の入口だった。でも、居場所の入口でもあった。


天城蓮の名前は、美緒を何度も傷つけた。でも、その名前を待つことで、夜の形ができていた。


今は、何もない。


「暇なら寝れば」


宮原が言った。カップ麺をすすりながら。


「眠れないです」


「じゃあ起きてればいいし」


「起きてても、やることがないです」


「なんか映画でも見る?」


美緒は、動画の画面を見た。知らない人が笑っている。コメント欄が流れている。


「なんでもいいです」


「またそれ」


宮原は苦笑した。


「じゃあ、適当に流す」


動画が変わる。昔のドラマの切り抜きみたいなものが再生された。


画面の中で、俳優が泣いている。


美緒は、少しだけ目をそらした。


俳優。その言葉だけで、天城蓮を思い出す。


元アイドル出身の人気俳優。テレビで笑う人。舞台挨拶で手を振る人。第13妻だった美緒の対象者。


対象者。


【対象者:天城 蓮】


その言葉が、今さら胸に残る。


宮原は、美緒の表情に気づいたのか、動画を止めた。


「これ、やめる?」


「別に」


「顔が別にじゃない」


「なんでもいいです」


「じゃあ、やめる」


宮原は動画を閉じた。部屋が急に静かになる。


静かすぎた。


冷蔵庫の低い音。エアコンの送風音。外を走る車の音。カップ麺の容器を置く音。それだけ。


美緒は、スマホを見た。何も来ていない。


「美緒」


宮原が言った。その呼び方にも、もう少し慣れてしまった。


最初に呼ばれた時は、身体が揺れた。天城蓮に呼ばれる「美緒」とは違う。胸が跳ねるような甘さではない。もっと生活の中にあって、雑で、近くて、少し逃げ場がない音。


今は、その呼び方が部屋に馴染んでいる。それも少し怖かった。


「何かしたいことないの」


美緒は考えた。


したいこと。何か。


前なら、たくさんあった気がする。


配偶者用アプリを見る。下位妻グループを開く。乃亜に返信する。天城蓮からの通知を待つ。妻として、まだどこかにつながっていることを確認する。


それらは全部、したいことではなかった。でも、やっていたことだった。夜を埋めるものだった。


今、それがない。


「分かりません」


美緒は言った。


「また分かんない」


「本当に分からないんです」


「じゃあ、散歩でも行く?」


「外、出たくないです」


「風呂は?」


「入りました」


「飯」


「少し食べました」


「じゃあ寝る」


「眠れないです」


「詰んでんじゃん」


宮原は、軽く言った。


美緒は、少しだけ宮原を見た。


詰んでいる。その言葉は雑だった。でも、少し近かった。


何もできない。どこにも戻れない。寝られない。見たくないのに、見ないと空っぽになる。誰かに連絡したくないのに、誰からも来ないと不安になる。


詰んでいる。確かに、そうだった。


「宮原くんは」


美緒は、ぽつりと言った。


「こういう夜、何するんですか」


「こういう夜って?」


「やることがない夜」


宮原は少し考えた。


「動画見て、飯食って、寝る」


「それだけ?」


「それだけ」


「寂しくないんですか」


宮原は、少しだけ美緒を見た。


「寂しい時もあるけど」


その声は、いつもより少し低かった。


「まあ、だいたいそんなもんじゃない?」


美緒は、その言葉を聞いた。


だいたいそんなもん。普通の夜。動画を見て。飯を食べて。眠くなったら寝る。


そんな夜を、みんな生きているのだろうか。


美緒は、いつからそれができなくなったのだろう。


妻になってから、夜は待つものになった。


呼ばれるかもしれない。誰かが呼ばれたかもしれない。妻コミュニティで何かが起きるかもしれない。蓮から連絡が来るかもしれない。


夜は、ずっと何かの前だった。


今は、何の前でもない。


それが怖い。


宮原は、カップ麺の空容器を片づけた。


「美緒、こっち来る?」


そう言って、自分の横を少し空けた。軽い言い方だった。でも、その声の奥に、別のものが混ざっているのが分かった。


美緒は、それに気づいた。


宮原の近さ。下心。優しさ。寂しさ。それらが一緒になっている。


美緒は少し迷って、宮原の隣に座った。肩が触れそうな距離。


宮原は、それ以上何もしなかった。ただ、暗い画面を見ていた。


美緒も、スマホを手に持ったまま、隣に座っていた。


人が近くにいる。それでも、空っぽだった。


宮原の体温では、埋まらない場所がある。


それは、天城蓮でなければ埋まらないのか。それとも、天城蓮でも本当は埋まらなかったのか。


分からなかった。


スマホは鳴らない。誰も呼ばない。誰も比べない。誰も、美緒を第13妻として扱わない。


本当なら、それでよかったはずだった。ずっと逃げたかった。見たくなかった。傷つきたくなかった。


でも、なくなってみると、そこには何もなかった。


宮原が隣で、小さくあくびをした。


「寝れそう?」


「分かりません」


「じゃあ、目だけ閉じとけば」


また、それだった。雑で、近くて、何も解決しない言葉。


美緒は、目を閉じなかった。


暗いスマホの画面に、自分の顔が薄く映っている。


妻だった顔。元妻になりかけている顔。宮原の部屋にいる顔。


どれなのか分からない。


夜は静かだった。静かすぎた。


美緒は、スマホが震えないことを、ずっと待っていた。

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