第69話【静かすぎる朝】
目が覚めた時、美緒は最初、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井が違う。
白いけれど、自分の部屋の白さではない。角の方に小さな傷があり、火災報知器の丸い影が見えた。カーテンの隙間から入る朝の光が、床に落ちた充電ケーブルを細く照らしている。
宮原の部屋だった。
そう気づくまでに、少し時間がかかった。
身体が重い。頭の奥がぼんやりしている。眠ったというより、気を失っていたような感覚だった。
隣に、宮原がいた。
ベッドではなく、床に敷いた薄い布団の上で横になっている。片腕を投げ出し、少し苦しそうな姿勢で眠っていた。
美緒は、しばらくその寝顔を見ていた。
昨日の夜のことを思い出す。
宮原の手。近い声。「美緒」と呼ぶ声。自分が離れなかったこと。嫌なら言って、と言われて、言います、と返したこと。
そのあとに、スマホを開いた。
配偶者用アプリ。白い画面。何度も見た文字。
【対象者:天城 蓮】
【登録番号:第13配偶者】
【氏名:佐倉 美緒】
そして。
【配偶登録解除申請を受け付けました】
あの表示を見た瞬間の感覚は、まだ身体に残っている。
終わった、とは出なかった。解除しました、でもなかった。ただ、受け付けました。
事務的で、冷たい言葉だった。
それでも美緒の中では、何かがひとつ、切れたように感じた。
完全に終わったわけではない。対象者側確認も、事務所確認も、これからなのかもしれない。でも、自分の指で送信した。
天城蓮の第13妻でいることを、やめるための手続きを、自分で進めた。
その事実だけは、もう戻らない。
美緒は、ゆっくり身体を起こした。肩からブランケットが落ちる。
宮原の部屋の朝は、少し雑だった。
ローテーブルの上に、飲みかけの水。空になったカップスープの容器。開封されたままのおにぎりの袋。コンビニ袋が、床でくしゃっと丸まっている。
壁際には、宮原の上着。洗面台の方には、美緒のヘアゴム。コンセントには、昨日買ってもらった充電ケーブル。
管理された場所ではない。
璃子と会ったラウンジのように整っていない。天城蓮と会った個室のように、誰かが用意した清潔さもない。
人が住んでいる部屋。少し汚くて、少し狭くて、どこに何があるのか宮原本人にしか分からなそうな部屋。
その中に、美緒のものが少し混ざっている。ヘアゴム。充電ケーブル。借りたスウェット。
それだけで、この場所に自分がいた時間が形になっていた。
美緒は、スマホを手に取った。充電はできていた。
画面をつける。通知欄を見る。
天城蓮からの通知はなかった。
いつものように、それを最初に探してしまった。探した瞬間、自分で少し嫌になった。
もう申請したのに。
でも、なかった。璃子からも、まだ来ていない。凛からの新しい通知もない。乃亜からもない。
下位妻グループの通知も、なかった。
美緒は、少し息を吐いた。
通知が来ていない。それだけで、身体のどこかが緩んだ。
誰が何を言ったのか。麻衣が明るく流しているのか。千紗が刺すようなことを言っているのか。乃亜がまた既読だけを増やしているのか。
確認しなくていい。下位妻グループを開かなくていい。
妻コミュニティ全体の通知も、静かだった。
誰が呼ばれたか。誰が子どもの話をしたか。誰が自分の名前を出したか。
見なくていい。
古妻ノートも、開かなくていい。
第13妻。流出。居酒屋勤務。非公表妻。そんな言葉が増えているかどうか、今は見なくていい。
美緒は、スマホを握ったまま、もう一度小さく息を吐いた。
楽だった。たしかに、楽だった。
通知がないだけで、こんなに楽なのかと思った。
下位妻グループに入った日からずっと、スマホは居場所だった。
うちら下の方同士、気楽にやろ、と乃亜が言ってくれた日。麻衣が笑って、千紗が毒を混ぜて、琴葉がやわらかく止めた。
通知が来るたびに、自分は妻なのだと思えた。
琴葉が先に呼ばれた時も。自分が初めて呼ばれた夜も。匿名の悪意が増えた時も。
スマホはずっと、美緒を妻の場所につないでいた。
つらかった。でも、つながっていた。
今は、静かだった。
下位妻グループの通知もない。呼び出し通知もない。妻コミュニティの新着もない。古妻ノートの更新も、見なければ存在しない。
見なくていい。待たなくていい。比べなくていい。
それは本当に、楽だった。
美緒は、配偶者用アプリを開きかけて、やめた。
開けば、きっと手続きの状態が表示される。申請受付中。確認中。管理担当からの連絡をお待ちください。そんな言葉があるのかもしれない。
でも、今は見たくなかった。見なくていい。
そう思えること自体が、少しだけ自由だった。
「起きた?」
低い声がした。
美緒は肩を揺らして振り向いた。宮原が、布団の中で目を半分だけ開けていた。寝起きの顔だった。髪が少し乱れている。
「……起きてました」
「スマホ見てんの?」
「はい」
宮原は、ゆっくり身体を起こした。
「また変なの見てんじゃないだろうな」
「見てないです」
「ならいい」
宮原はそう言って、あくびをした。本当に、それで終わりだった。
見てないならいい。
宮原にとっては、それだけだった。
下位妻グループも。古妻ノートも。配偶者用アプリも。妻だった証も。妻でなくなる手続きも。
宮原には、全部が同じスマホの中の「変なの」なのだと思う。
美緒は、それに少し傷ついた。でも同時に、少し楽でもあった。
宮原は分からない。分からないまま、ここにいる。それが今は、美緒を完全には追い詰めない。
「腹減った?」
宮原が聞いた。
美緒は答えを探した。お腹が空いているのか、空いていないのか、自分でも分からない。
「……分かりません」
「分かんないって何」
「分かんないです」
「じゃあ、水飲め」
また、それだった。
食べるかどうか。寝るかどうか。大丈夫かどうか。
美緒が答えられないことを、宮原はいつも雑に別の行動へ変える。
水飲め。
美緒は、テーブルの上のペットボトルを手に取った。少しぬるくなっていた。それでも飲んだ。喉を通る感覚があった。
宮原は、布団から半身を起こしながら、腰を押さえた。
「床、痛い」
「ベッドで寝ればよかったのに」
「美緒が使わないからでしょ」
「私も使ってないです」
「じゃあ誰のためのベッドなんだよ」
美緒は少しだけ息を吐いた。笑ったとは言えなかった。でも、昨日より少しだけ、声が出た。
宮原は、そんな美緒を見て、少しだけ表情を緩めた。
「今日どうする?」
今日。
その言葉で、美緒は止まった。
今日。何をするのだろう。
もう、下位妻グループを見る必要はない。天城蓮から呼ばれるかもしれない予定を、空けておく必要もない。
居酒屋のシフトは、どうなっているのだろう。凛には、落ち着いたら連絡すると送った。落ち着いていない。璃子には、まだ返していない。配偶登録解除の手続きは、たぶん進んでいる。
今日。何をすればいいのか分からなかった。
「分かりません」
美緒は言った。
「またそれ」
「本当に分からないんです」
「じゃあ、とりあえず飯」
「またですか」
「また」
宮原は立ち上がった。洗面台の方へ歩いていく。
美緒のヘアゴムの横を通る。それを見ても、宮原は何も言わなかった。
美緒は、その黒いヘアゴムを見つめた。
持って帰らなければ。そう思った。
でも、どこへ。
自分の部屋に戻れば、またあの静けさがある。申請ボタンを押した後の、何もない部屋。誰も来なかった部屋。
宮原の部屋には、少なくとも宮原がいる。それは救いではない。でも、一人ではない。
美緒は、スマホをもう一度見た。
通知欄は、まだ静かだった。
その静けさに、少し安心した。同時に、少しだけ怖くなった。
今までずっと、自分の朝は通知で始まっていた。
妻としての連絡。誰かの発言。誰かの嫉妬。誰かの優しさ。誰かの悪意。天城蓮の名前。
それらがない朝を、美緒はどう過ごせばいいのか分からなかった。
見なくていい。待たなくていい。それは楽だった。
でも、何を見ればいいのか分からない。何を待てばいいのか分からない。
宮原の部屋の薄いカーテンが、朝の光で少し揺れている。その向こうで、普通の一日が始まっている。
美緒は、ぬるい水をもう一口飲んだ。
スマホは静かだった。
静かすぎるくらいに。




