第68話【申請を受け付けました】
しばらくして、部屋は静かになった。
ローテーブルの上のスマホは、伏せられたままだった。
美緒は、宮原の部屋の天井を見ていた。
見慣れない天井だった。薄い照明の跡。小さな傷。天井の端にある火災報知器。
身体の奥に、ぼんやりとした疲れがあった。
泣いた後のような疲れ。長く歩いた後のような疲れ。何かを決めたわけでもないのに、戻れなくなったような疲れ。
宮原は隣にいた。何か言いたそうにして、結局言わなかった。その沈黙が、今はありがたかった。
美緒は、ローテーブルに手を伸ばした。
スマホを取る。宮原が少し動いた。
「見るの?」
美緒は答えなかった。画面をつける。
通知がいくつか来ていた。凛ではない。天城蓮でもない。配偶者用アプリからだった。
【管理担当よりお知らせがあります】
美緒は、それを開かなかった。代わりに、アプリのメニューを開いた。
指は、もう迷わなかった。
【配偶登録解除】
何度も見た項目。押す。白い画面に切り替わる。
【配偶登録解除申請ページへ進みます】
スクロールする。
【対象者:天城 蓮】
【登録番号:第13配偶者】
【氏名:佐倉 美緒】
美緒は、その三行を見た。
天城蓮。第13配偶者。佐倉美緒。
全部、知っている文字だった。でも、今は少し遠い。
宮原の部屋にいる。宮原に触れられた。凛には、落ち着いたら連絡すると送った。天城蓮からは、最後まで何も来なかった。
もう、妻の場所へ戻れる気がしなかった。
これは、前向きな決断ではない。自由になるための一歩でもない。自分を取り戻す行為でもない。
ただ、疲れていた。
押せないまま待つことに。誰かからの言葉を待つことに。自分がまだ第13妻なのか、もう外側の人間なのか分からないままいることに。
疲れていた。
画面の下にボタンがある。
【申請する】
最初は押せなかった。流出の日にも押せなかった。誰も来なかった夜にも押せなかった。宮原の部屋では、「今はやめとけば」で閉じた。
今、美緒はそのボタンを見つめた。
宮原が隣にいる。でも、宮原を見なかった。
これは宮原のためではない。天城蓮への当てつけでもない。凛から逃げるためだけでもない。
ただ、もう待てなかった。
美緒は、【申請する】を押した。
画面が切り替わる。
【配偶登録解除申請を送信します】
【送信後、対象者側確認および事務所確認が開始されます】
【この操作は取り消せません】
その下に、もう一つボタンがあった。
【送信する】
指が止まる。
取り消せません。その文字が、少しだけ大きく見えた。
妻になる時も、こんなふうに取り消せなかったのだろうか。
登録完了通知を見た時、美緒はそれを祝福だと思った。
【配偶者登録が完了しました】
夢が叶ったと思った。やっと結婚できたよ。凛にそう言った。
今は、その逆の画面を見ている。
夢を閉じるための画面。
でも、終わった夢の中に、自分の身体だけがまだ残っているような気がした。
美緒は、息を吸った。宮原が隣で黙っている。
美緒は、【送信する】を押した。
ほんの短い読み込み表示。くるくると回る小さな輪。
それから、画面に文字が出た。
【配偶登録解除申請を受け付けました】
美緒は、その文字を見つめた。
受け付けました。終わりました、ではなかった。解除しました、でもなかった。
ただ、受け付けました。手続きが進んだ。それだけだった。
美緒は、しばらく息をしていなかったことに気づいた。ゆっくり息を吐く。
何かが軽くなると思っていた。泣くかもしれないと思っていた。後悔するかもしれないと思っていた。
でも、何も来なかった。
ただ、画面が白かった。
白い背景に、黒い文字。
【配偶登録解除申請を受け付けました】
宮原が、低い声で言った。
「押したの」
美緒は、うなずいた。
「はい」
自分の声は、思ったより静かだった。
宮原は、何も言わなかった。おめでとう、とも言わなかった。よかった、とも言わなかった。これで自由だね、とも言わなかった。
それでよかった。これは祝福ではなかった。自由でもなかった。ただ、申請が受け付けられただけだった。
スマホの画面が、少し暗くなる。
美緒はそれを見つめた。
天城蓮の妻である自分は、まだ完全には消えていない。対象者側確認。事務所確認。正式な処理。手続きはこれからだった。
でも、もう戻る道に足を置いてはいない。
美緒はスマホを伏せた。
部屋は静かだった。
宮原の近さ。凛の未返信。乃亜の沈黙。璃子の距離。蓮から来なかった通知。
その全部が、静かにそこにあった。
美緒は、宮原の部屋の天井を見上げた。
何かが終わった。でも、何も終わっていないような夜だった。




