第67話【ほんとに嫌なら言って】
凛に送った「落ち着いたら連絡する」は、その日の夜になっても消えなかった。
スマホを伏せても、頭の中に残っている。
落ち着いたら。何が落ち着いたらなのか、美緒にも分からなかった。
流出の騒ぎが落ち着いたら。妻コミュニティの投稿制限が解けたら。天城蓮から連絡が来たら。宮原の部屋を出られたら。自分が、自分のしたことを凛に説明できるようになったら。
どれも、来る気がしなかった。
宮原の部屋は、夜になると少し狭く感じた。
昼間より音が少ない。窓の外の車の音も遠い。エアコンの音と、冷蔵庫の低い音だけが残る。
ローテーブルには、空になったカップスープの容器と、半分だけ残ったカフェオレがある。コンビニ袋は床に落ちている。美緒の充電ケーブルは、壁のコンセントに差したまま。借りたスウェットは、美緒の膝の上にかかっている。
洗面台には、まだヘアゴムが置かれている。
持って帰ろうと思えば、今すぐ持って帰れる。でも、持って帰らなかった。
持って帰るということは、宮原の部屋を一時的な避難先に戻すことだった。自分の部屋へ戻る準備をすることだった。それが、できなかった。
宮原は、ベッドの端に座ってスマホを見ていた。何か動画を見ているのか、時々画面が明るくなる。音は出していない。
美緒はローテーブルの前に座っていた。スマホは伏せている。
凛からの追加メッセージは、もう来ていなかった。
分かった。でも、本当に無理しないで。いつでも連絡して。
その三つで、凛は止まった。止まってくれた。美緒を追い詰めないように。
その優しさのせいで、美緒は余計に戻れなくなった。
「美緒」
宮原の声がした。美緒は顔を上げる。
「なに考えてんの」
「分かりません」
「分かんないのに考えてんの?」
「たぶん」
宮原は少し笑った。
「器用だね」
「馬鹿にしてます?」
「してない」
そう言いながら、宮原はスマホをベッドの上に置いた。部屋が少し静かになる。
美緒は、伏せたスマホを見た。
配偶者用アプリを開けば、まだそこにある。
第13配偶者。対象者、天城蓮。佐倉美緒。投稿権限、一時停止。個別連絡、管理担当を経由してください。
そして、配偶登録解除。
もう何度も開いた画面。何度も押せなかったボタン。
美緒は、スマホに手を伸ばしかけて、やめた。
宮原がそれを見ていた。
「また見るの?」
「見ません」
「今、見ようとしてたじゃん」
「してないです」
「してた」
いつもの軽いやり取りのはずだった。でも、美緒の声は続かなかった。宮原も、少しだけ黙った。
「まだ押してないんだ」
美緒は、顔を上げた。宮原は、責めるような顔をしていなかった。ただ、確認するように言った。
「離婚のやつ」
美緒は、小さくうなずいた。
「押せないです」
「そっか」
「でも、戻れないです」
言ってから、自分でもそれが一番近いと思った。
押せない。でも、戻れない。
妻でいることもできない。妻をやめることもできない。
下位妻グループには書けない。乃亜には送れない。璃子には距離を置かれている。凛には戻れない。天城蓮からは、何も来ない。
自分の部屋にも戻りたくない。宮原の部屋にいても、ここが救いだとは思えない。
どこにも戻れない。
宮原は、ゆっくり息を吐いた。
「俺には、押せとも押すなとも言えないけど」
美緒は、宮原を見る。
「珍しくまともですね」
「うるさいな」
宮原は軽く笑った。でも、その笑いはすぐに薄くなった。
「でも、今のままずっと画面だけ見てるのは、しんどいでしょ」
美緒は何も言えなかった。その通りだった。
画面だけ見ている。押さない。閉じない。待つ。
蓮からの連絡を。璃子からの別の言葉を。凛へ戻れる自分を。
待っている。でも、何も来ない。
宮原が少しだけ身を乗り出した。
「ほんとに嫌なら言って」
美緒は、意味が分からずに顔を上げた。
「何をですか」
宮原は、少しだけ視線を逸らした。
「いや」
それから、言い直す。
「俺が近いのとか」
美緒は、息を止めた。
部屋の空気が少し変わった。
それまでも、近かった。宮原はずっと近かった。車に乗った時から。部屋に来た時から。水を渡された時から。美緒、と呼ばれた時から。
でも、それはまだ曖昧だった。今、宮原はその曖昧さに手をかけた。
「ほんとに嫌なら言って」
宮原は、もう一度言った。
「俺、そんなつもりじゃ……」
そこで止まる。自分で言いながら、嘘だと思ったのだろう。宮原は、顔をしかめた。
「いや、そんなつもりはあるけど」
美緒は、宮原を見た。宮原はすぐに目を伏せる。
「ごめん、今の最低だな」
たぶん、最低だった。でも、嘘ではなかった。
宮原は美緒を心配している。それは本当。でも、それだけではない。
美緒を欲しがっている。弱った美緒が自分の部屋にいることに、何かを感じている。
そして美緒も、それを分かっている。
分かっていて、ここにいる。
宮原だけが汚いわけではない。美緒だって、宮原を使っている。
一人でいたくないから。誰かに触れられる距離にいたいから。天城蓮から来ない通知の空白を、別の男の体温で埋めたいから。
宮原が自分を欲しがっていることを、分かっている。その欲しさに寄りかかっている。
拒むなら、もっと早く拒めた。住所を送らないこともできた。車に乗らないこともできた。部屋に来ないこともできた。
でも、美緒は全部している。
宮原だけが悪いわけではない。それが、余計に苦しかった。
「嫌なら言って」
その言葉に、美緒は答えなかった。
嫌ではなかった。そう言い切ることはできない。好きなのかも分からない。このまま先へ進みたいのかも分からない。
でも、嫌だと言って離れる力はなかった。
宮原は、美緒の沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ近づいた。
手が伸びてくる。美緒の手首に触れる。
熱い、と思った。宮原の手は、思っていたより温かかった。
美緒は動かなかった。
離れようと思えば、離れられた。やめてと言うこともできた。帰りますと言うこともできた。凛に電話することもできた。
でも、美緒は動かなかった。
宮原が、もう少し近づく。
「美緒」
低い声だった。
第13妻ではなく。佐倉さんでもなく。美緒ちゃんでもなく。
ただの、美緒。
天城蓮の「美緒」は、夢の中から来る声だった。その他大勢ではない証。推しに名前を呼ばれる快感。妻であることの甘さ。
宮原の「美緒」は違った。雑で、近くて、逃げ場がない。それでも、今ここにある声だった。
美緒は、目を伏せた。
スマホは、ローテーブルの上で伏せられている。凛からの通知は見えない。配偶者用アプリも見えない。離婚申請画面も見えない。
宮原の指が、美緒の手首から手の甲へ移る。
「ほんとに、嫌なら」
「言います」
美緒は小さく言った。声は、自分でも驚くほど弱かった。
宮原が息を止めたのが分かった。
「……分かった」
部屋の明かりは、ついたままだった。でも、どこか暗く感じた。
宮原が美緒に触れる。
美緒は離れない。
それ以上のことを、言葉にする必要はなかった。
好きだからではない。宮原を選んだからでもない。
ただ、誰かに欲しがられていることを、身体で分かりたかった。
自分はまだ、誰かの視線の中にいる。誰かが手を伸ばす場所にいる。誰かに触れられる女である。
それを確かめたかった。
天城蓮からは、何も来なかった。璃子の優しさは、距離だった。凛の正しさには、戻れなかった。乃亜とは壊れたままだった。
宮原だけが、近かった。
その近さが正しいかどうかは、分からなかった。
分からないまま、美緒は目を閉じた。




