第66話【落ち着いたら連絡する】
凛からの通知は、しばらく画面の上に残っていた。
高瀬凛:
「少しだけでも会えない?」
その一文を、美緒は何度も読んだ。
少しだけでも。会えない?
凛らしい言葉だった。強く命令しない。責めない。決めつけない。でも、前より一歩だけ踏み込んでいる。
最初に凛は「落ち着いたら話そう」と言った。その後には、「返事できなくてもいいから、無事ならそれだけ教えて」と送ってくれた。そして美緒は、「もう大丈夫」と返した。
大丈夫ではなかった。でも、それ以上の言葉を返したら、凛のいる場所へ戻らなければいけない気がした。
その凛が、今度は会えないかと聞いている。
美緒は、返信欄を開いた。
「ごめん」
打つ。すぐに消す。
ごめん。何に対してのごめんなのか、分からなかった。
心配をかけてごめん。返事をしなくてごめん。嘘をついてごめん。宮原の部屋にいてごめん。あなたのところへ戻れなくてごめん。
どれも本当だった。だから、どれも送れなかった。
「今は会えない」
止まる。あまりにも冷たい。
凛は会いたいと言っている。少しだけでも、と言っている。それに対して、今は会えない。それは拒絶だった。
消した。
「何を話せばいいか分からない」
これは、本当だった。でも、これを送れば、凛はもっと近づいてくる。
話さなくてもいいよ。顔だけ見たい。どこにいるの。迎えに行こうか。
そう言うかもしれない。
凛は悪くない。むしろ、たぶん正しい。今の美緒には、正しい友達が必要なのかもしれない。でも、正しい友達の前に出るには、説明が必要だった。
流出のこと。妻コミュニティのこと。乃亜のこと。璃子のこと。蓮から何も来なかったこと。離婚申請画面を開いたこと。宮原が来たこと。宮原の部屋に泊まったこと。借りたスウェットを着ていること。
どこから話せばいいのか分からない。
話せば、凛の顔が変わる。美緒はそれが怖かった。凛は責めないかもしれない。でも、責めないからこそ苦しい。
美緒は、打った文を消した。
宮原がキッチンから戻ってきた。
マグカップを二つ持っている。ひとつは自分用のコーヒー。もうひとつは、美緒の前に置かれた。中身は、薄いカフェオレだった。
「砂糖いらないって言ったけど、ちょっと入れた」
「勝手に」
「苦いよりマシでしょ」
「子ども扱いですか」
「顔が子どもみたいだから」
「最低」
「知ってる」
宮原は、いつもの調子で返した。そのやり取りのあと、美緒のスマホに目を向ける。
「誰?」
美緒は、反射的にスマホを伏せそうになった。でも、伏せなかった。
「友達」
「凛さん?」
名前を覚えていたことに、少しだけ驚いた。
「……はい」
「会えば?」
宮原は、軽く言った。本当に軽かった。
会えば。それだけ。
凛がどれだけ心配しているかも。美緒がどれだけ返せなかったかも。「もう大丈夫」がどんな嘘だったかも。その全部を、宮原は知らない。だから、そんなふうに言える。
「会えないです」
美緒は言った。
「なんで」
「説明しなきゃいけないから」
「説明すれば?」
「できないから困ってるんです」
少しだけ強い声になった。宮原は、怒らなかった。
「ああ」
それだけ言って、マグカップをテーブルに置いた。
少しの沈黙。そのあと、宮原は言った。
「会いたくないなら、会わなくてよくない?」
美緒は顔を上げた。宮原は、何でもないことのように続けた。
「今は、って話でしょ」
「ずっと会わないって言ってるわけじゃないし」
「無理な時に会っても、余計しんどくない?」
その言葉は、たぶん正しくない。少なくとも、凛の側から見れば残酷だった。
でも、その軽さが楽だった。
凛に会うためには、正しい手順を踏まなければいけない気がした。ちゃんと説明して。ちゃんと謝って。ちゃんと心配を受け取って。ちゃんと自分が大丈夫ではないと認めて。ちゃんと、これからどうするのかを考える。
宮原の部屋には、手順がなかった。
来る、と言われて。住所を送って。車に乗って。水を飲んで。スウェットを借りて。コーヒーを出されて。寝られないなら起きてればいい、と言われる。
正しくない。でも、説明しなくていい。
「凛は」
美緒は、小さく言った。
「悪くないんです」
「うん」
宮原はうなずいた。
「悪くないから、しんどい」
宮原は、少しだけ黙った。たぶん、完全には分かっていない。でも、分かったふりもしなかった。
「じゃあ、そう言えば?」
「何を」
「悪くないけど、今は会えないって」
「そんなの」
美緒は言いかけて、止まった。
でも、宮原に言われると、少しだけ文章が形になった。
凛は悪くない。でも、今は会えない。
それは本当だった。
美緒は、スマホを表に戻した。
凛から、さらにメッセージが来ていた。
高瀬凛:
「話さなくてもいいから」
高瀬凛:
「顔だけ見たい」
美緒は、胸が痛くなった。
顔だけ見たい。
凛は、もうかなり踏み込んでいる。
それでも、美緒は返せない。
顔を見せることが怖い。凛に会ったら、今の自分がそのまま見えてしまう。
宮原の部屋の匂い。借りたスウェット。寝不足の顔。手に残るカップスープの熱。凛に「もう大丈夫」と送った嘘。
それらを全部、見られる気がした。
美緒は、返信欄に指を置いた。
「ごめん」
今度は消さなかった。その下に続ける。
「今はちょっと」
そこで止まった。
今はちょっと。曖昧な言葉だった。会えない、とも言っていない。会いたくない、とも言っていない。ただ、避けている。
さらに続ける。
「落ち着いたら連絡する」
打った瞬間、指が止まった。
落ち着いたら。
その言葉は、凛が最初に送ってきた言葉に似ていた。落ち着いたら話そう。
凛は、美緒を追い詰めないためにそう言った。その言葉が、今は美緒の側で、会わないための言葉になっている。
落ち着いたら。いつ。何が落ち着いたら。
流出が消えたら。配偶登録解除を押したら。宮原の部屋から出られたら。自分が、自分のしていることを説明できるようになったら。
そんな日は来るのだろうか。
美緒には分からなかった。でも、送るしかなかった。
佐倉美緒:
「ごめん。今はちょっと」
佐倉美緒:
「落ち着いたら連絡する」
送信する。すぐに既読がついた。
美緒は息を止めた。
凛が、画面の向こうにいる。読んでいる。そのことが、急に生々しかった。
少しして、返事が来た。
高瀬凛:
「分かった」
短い。そのあと、続けてもう一通。
高瀬凛:
「でも、本当に無理しないで」
さらにもう一通。
高瀬凛:
「いつでも連絡して」
凛は、これ以上踏み込まなかった。
美緒は、その三つの文を見つめた。
分かった。でも、本当に無理しないで。いつでも連絡して。
全部、正しかった。
凛は、美緒の拒絶を責めない。今はちょっと、という曖昧な逃げを受け取ってくれる。落ち着いたら、という先送りにも、分かったと返してくれる。
その正しさが、また苦しかった。
凛が怒ってくれた方が、楽だったかもしれない。
何それ。ちゃんと話して。
そう言ってくれたら、反発できたかもしれない。でも、凛は引いた。美緒を追い詰めないように。
その優しさで、二人の間に距離ができた。
美緒は、スマホを伏せた。
「送った?」
宮原が聞いた。
「はい」
「なんて」
「今はちょっと、って」
宮原は少しだけ眉を上げた。
「便利な言葉」
「最低ですね」
「いや、便利でしょ」
「そうですけど」
美緒は、マグカップを両手で持った。少し甘いカフェオレの匂いがした。
「落ち着いたら連絡するって、送っちゃいました」
言ってから、胸が少し痛くなった。
宮原は、コーヒーを飲みながら言った。
「落ち着いてからでいいんじゃないの」
「落ち着くと思いますか」
「知らない」
その返事が、宮原らしかった。知らない。無責任だった。でも、分かったふりをされるより、少しだけましだった。
「でも、今会えないなら、今会わなくていいんじゃない」
宮原は続けた。
「正しいかどうかは知らないけど」
美緒は、その言葉を聞いた。
正しいかどうかは知らない。
宮原の部屋にあるものは、だいたいそうだった。
床に置きっぱなしの服。使いかけの充電ケーブル。洗面台のヘアゴム。借りっぱなしのスウェット。薄いカフェオレ。宮原の「美緒」という呼び方。
どれも正しくない。でも、今の美緒には近かった。
凛の言葉は正しい。凛の場所へ戻れば、きっと少しは安全なのだと思う。
でも、そこへ戻るには、美緒は自分のことを説明しなければならない。自分がどれだけ壊れたのかを、ちゃんと見せなければならない。
それができない。
宮原の部屋では、説明しなくてもいい。きれいにしなくていい。大丈夫じゃないことを、大丈夫じゃないまま置いておける。
その代わり、別のものが近づいてくる。
宮原の視線。宮原の下心。宮原に頼っている自分。
それも怖い。でも、その怖さは今すぐ言葉にしなくてよかった。
美緒は、スマホを伏せたまま、カフェオレを一口飲んだ。甘かった。少し甘すぎた。
宮原は、何も聞かなかった。
凛が何を返したのか。美緒が本当は何を思ったのか。これからどうするのか。何も聞かなかった。
その沈黙が、今はありがたかった。
美緒は、伏せたスマホを見つめた。
凛には、落ち着いたら連絡すると送った。
落ち着いたら。
その言葉は、いつの間にか、会わないための言葉になっていた。
そして美緒は、そのことに気づきながら、もう訂正しなかった。




