第65話【置きっぱなしのもの】
宮原の部屋に、美緒のものが少しずつ増えていった。
最初は、スマホの充電ケーブルだった。
美緒の部屋から持ってきたわけではない。宮原が、近くのコンビニで買ってきたものだった。
「これ、合う?」
そう言って、袋から出した。
美緒がうなずくと、宮原は何でもない顔でローテーブルの横に差した。それだけだった。
でも、その日から、その充電ケーブルは宮原の部屋に置かれたままになった。
次に増えたのは、ヘアゴムだった。
洗面台の端に、黒いゴムが一つ置かれている。
美緒は最初、それを見て、すぐに持って帰らなければと思った。でも、持って帰る場所を考えると、手が止まった。
自分の部屋。
配偶登録解除画面を何度も開いた部屋。誰も来なかった部屋。凛のメッセージに返せなかった部屋。天城蓮からの通知を待っていた部屋。
あの部屋へ戻れば、きっとまた配偶者用アプリを開く。
【第13配偶者】
【投稿権限:一時停止】
【配偶登録解除】
その文字を見る。
だから、美緒はヘアゴムをそのままにした。宮原は何も言わなかった。気づいていないのかもしれない。気づいていて、言わないだけかもしれない。どちらでもよかった。
三日目には、借りたスウェットが増えた。宮原のものだった。少し大きい。袖が余る。洗剤の匂いと、宮原の部屋の匂いがした。
「それ、持って帰っていいよ」
宮原は軽く言った。
「いらないです」
「いや、着てるじゃん」
「借りてるだけです」
「じゃあ借りっぱなしでいいし」
その言い方が、雑だった。返さなければいけないとか。洗って返すとか。いつまで借りるのかとか。そういう細かいことを、宮原は言わなかった。美緒も言わなかった。
そのスウェットは、次の日も宮原の部屋にあった。畳まれずに、ベッドの端に置かれていた。
居場所ができた、とは思わなかった。そんなきれいなものではなかった。ただ、置きっぱなしのものが増えた。それだけだった。
でも、その「それだけ」が、美緒を少しずつ動かなくさせていった。
宮原は、相変わらず雑だった。
「飯食った?」
「まだです」
「食え」
「命令ですか」
「命令」
そう言って、コンビニ袋からおにぎりを出す。
「どれ」
「いらないです」
「じゃあツナマヨ」
「勝手に決めないでください」
「じゃあどれ」
美緒は、少しだけ迷って、鮭を取った。宮原は満足そうにうなずく。
「食えるじゃん」
「うるさいです」
そのやり取りが、少しずつ当たり前になっていく。
おかしいと思う。おかしいはずだった。
美緒は天城蓮の第13妻だった。まだ正式には配偶登録解除をしていない。配偶者用アプリには、今も自分の名前が残っている。
対象者:天城蓮。登録番号:第13配偶者。氏名:佐倉美緒。
その美緒が、宮原の部屋で、宮原の買ってきたおにぎりを食べている。宮原のスウェットを着ている。宮原の部屋の充電ケーブルで、スマホを充電している。
それは、普通ではない。でも、普通ではないことに慣れていく。
その方が怖かった。
宮原は、美緒をよく見るようになった。
前から距離が近い人だった。居酒屋でも、美緒ちゃん、と軽く呼んだ。冗談を言った。手が空けば、すぐ隣に来た。天城蓮には勝てないわ、と笑った。その軽さは、ずっとあった。
でも今は、少し違う。
美緒が水を飲んでいる時。スマホを伏せた時。窓の外を見ている時。宮原の視線が、少し長くなる。
美緒は気づいている。気づいていないふりをしているだけだ。
「美緒」
宮原が呼ぶ。それにも、少しずつ慣れてしまった。
佐倉さんではない。美緒ちゃんでもない。美緒。
初めてそう呼ばれた時、胸の奥が揺れた。
天城蓮に呼ばれた「美緒」とは違った。
蓮の声は、特別だった。テレビの中の人。画面の向こうで何年も推してきた人。その人が、自分の名前を呼んだ。その他大勢ではない証だった。
宮原の「美緒」は違う。もっと近い。もっと低い。もっと生活の中にある。
レジ袋の音。カップスープの湯気。床に落ちた充電ケーブル。少し散らかった部屋。
その中で呼ばれる名前だった。特別というより、逃げ場がない。でも、その逃げ場のなさに、美緒は少し寄りかかっていた。
「美緒、寝た?」
「寝てないです」
「寝ろ」
「寝られないんです」
「じゃあ目閉じとけ」
「雑ですね」
「丁寧に言っても寝ないでしょ」
宮原は、そういう言い方をする。正しくない。優しくも、ない時がある。
でも、言葉を選ばれすぎるよりは楽だった。
璃子の言葉は、いつも整っていた。今は、あなた自身を守って。無理に結論を急がなくていいわ。しばらくは距離を置いた方がいいと思う。
凛の言葉も、優しかった。返事できなくてもいいから。一人で抱えないで。会える時でいいから。
どちらも、美緒を傷つけようとしていない。でも、どちらも受け取るには力が要った。
宮原の言葉は、受け取らなくてもそこにある。おにぎりみたいに。水みたいに。充電ケーブルみたいに。必要かどうかを聞かれる前に、置かれている。
その雑さが、今は近かった。
宮原には、下心がある。
美緒は、それを分かっていた。分からないほど子どもではない。
前から宮原は、美緒を少し特別に見ていた。店で他の子にも軽口を叩く。誰にでも距離が近い。そういう人だと思っていた。
でも、全部が同じではなかった。
美緒が天城蓮を好きだと知っていて、わざと天城蓮の話を振った。俺じゃ勝てないわ、と笑った。その笑いには、少しだけ本音が混ざっていた。
今、その宮原の部屋に美緒がいる。
天城蓮の第13妻だった女が、宮原の部屋にいる。
そのことに、宮原が何も感じていないはずがない。
自分が天城蓮から何かを奪ったような気持ち。弱っている美緒を受け止めている自分への酔い。美緒に頼られているという少しの優越感。
そういうものが、たぶんある。
美緒は、それに気づいている。
宮原が美緒の顔を見すぎる時。「ほんとに嫌なら言って」と、軽く逃げ道を作る時。天城蓮の名前が出ると、一瞬だけ表情が変わる時。
そのたびに、美緒は思う。
この人は、きれいな人ではない。
でも、自分もきれいではない。
美緒だって、宮原を使っている。
一人でいたくないから。誰かに触れられる距離にいたいから。天城蓮から連絡が来ない空白を、別の男の存在で埋めたいから。
宮原が自分を欲しがっていることを、分かっている。その欲しさに寄りかかっている。
拒むなら、もっと早く拒めた。住所を送らないこともできた。車に乗らないこともできた。部屋に来ないこともできた。スウェットを借りたままにしないこともできた。
でも、美緒は全部している。
宮原だけが悪いわけではない。それが、余計に苦しかった。
「また考えてる」
宮原が言った。美緒は、テーブルの上のスマホから目を上げた。
「何をですか」
「知らないけど。顔がそう」
「顔で決めないでください」
「顔に出す方が悪い」
「最低ですね」
「今さら?」
宮原は笑った。その笑い方は、軽かった。でも、前ほど軽くはなかった。
美緒は、少しだけ目を伏せた。
「宮原くんは」
「ん?」
「なんで、そんな普通にしてるんですか」
宮原は、少し黙った。
「普通に見える?」
「見えます」
「じゃあ、見せてるだけじゃない?」
その返しは、いつもの宮原にしては静かだった。
美緒は顔を上げる。宮原は、テーブルの上のペットボトルを指で回していた。
「俺も、別に普通ではないよ」
「……そうなんですか」
「そりゃそうでしょ」
宮原は少し笑う。
「好きだった子が、急に俺んちにいるんだから」
美緒は、息を止めた。
好きだった子。言葉は軽かった。でも、冗談ではなかった。
宮原はすぐに視線を逸らした。
「いや、今のは忘れて」
「忘れられないです」
「じゃあ、薄めて」
「何ですか、それ」
「半分くらい冗談ってことにして」
美緒は、答えなかった。
半分くらい冗談。たぶん、本当にそうなのだ。
宮原の言葉はいつも、半分冗談で、半分本気だ。だから逃げられる。だから近づける。
美緒は、その曖昧さに今、助けられている。
全部本気で来られたら、怖い。全部冗談なら、傷つく。半分だから、そこにいられる。
宮原は、少し気まずそうに立ち上がった。
「コーヒー飲む?」
「さっき水飲みました」
「じゃあ俺が飲む」
勝手にキッチンへ行く。電気ケトルの音がする。マグカップを出す音。インスタントコーヒーの瓶を開ける音。
美緒は、その背中を見ていた。
宮原の部屋にいる時間が、少しずつ長くなっている。
ここは救いではない。
凛のところへ戻るより楽なだけ。璃子の正しさから遠いだけ。天城蓮を待つ部屋より、一人ではないだけ。
それだけだ。
でも、その「だけ」に、美緒はすでに慣れ始めている。
スマホが震えた。美緒は反射的に見る。
天城蓮ではなかった。凛だった。
高瀬凛:
「少しだけでも会えない?」
美緒は、画面を見つめた。
凛はまだ、待っている。普通の世界から、手を伸ばしてくれている。
その手を取れば、戻れるのかもしれない。
でも、そのためには宮原の部屋を出なければならない。
ヘアゴムを回収して。借りたスウェットを脱いで。充電ケーブルを抜いて。水とおにぎりとカップスープのある場所から離れて。
そして、凛に説明しなければならない。今、自分がどこにいるのか。なぜ、ここにいるのか。
美緒は、返信欄を開けなかった。
キッチンから宮原の声がする。
「美緒、砂糖いる?」
その呼び方に、また少しだけ身体が揺れる。
美緒は、凛の通知を閉じた。
「いらないです」
そう答えた。
宮原の部屋の中で、自分の声が普通に響いた。
その普通さが、怖かった。




