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第64話【もう大丈夫、の向こう側】

凛のスマホが震えたのは、夜が明ける少し前だった。


部屋の電気はつけたままだった。


テーブルの上には、冷めたお茶と、半分だけ残ったコンビニのサラダがある。テレビは消していた。音があると、余計に落ち着かなかった。


凛はベッドに腰かけたまま、ずっとスマホを見ていた。


美緒からの返信を待っていた。


待っていると認めるのも怖かった。


何度も画面を伏せて、すぐにまた表に返した。通知が鳴っていないか確認する。既読がついていないか確認する。どれだけ見ても、画面は変わらなかった。


高瀬凛:

「大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで」


高瀬凛:

「美緒?」


高瀬凛:

「返事できなくてもいいから、無事ならそれだけ教えて」


高瀬凛:

「一人で抱えないで」


高瀬凛:

「会える時でいいから、連絡して」


送った言葉が、縦に並んでいる。


どれも、間違ってはいないと思う。


追い詰めないように。決めつけないように。ニュースを見たとは言わないように。それでも、心配していることだけは伝わるように。


考えて、選んで、送った。


でも、送った後で思った。


遅かったのかもしれない。


今どこ、と聞けばよかった。一人、と聞けばよかった。行く、と言えばよかった。


宮原という名前を、凛はまだ知らない。美緒が今どこにいるのかも知らない。だから、凛の心配は、ずっと部屋の中で空回りしていた。


スマホが震えた。


凛は、反射的に画面を見た。


美緒からだった。


佐倉美緒:

「もう大丈夫」


それだけだった。


凛は、しばらく動けなかった。


返信が来た。生きている。スマホを見られる状態にいる。そのことには、確かに安心した。胸の奥の固まっていた部分が少し緩んだ。


でも、すぐに別のものが来た。


怖い。そう思った。


もう大丈夫。


その五文字が、あまりにも短かった。


句点もない。説明もない。ごめんもない。今どこにいるとも、何があったとも書いていない。


ただ、もう大丈夫。


きれいに閉じた言葉だった。


凛は、画面を見つめた。


本当に大丈夫な人は、こんなふうに言うだろうか。


分からなかった。


でも、少なくとも凛が知っている美緒なら、もう少し何かを足した気がした。


「心配かけてごめん」「あとで話すね」「大丈夫じゃないかも」


そんなふうに、少しだけ隙間を残す気がした。


今の「もう大丈夫」には、その隙間がなかった。


凛に心配をかけないための言葉というより、凛のいる場所に説明するのをやめた言葉に見えた。


凛は、返信欄を開いた。


「本当に?」


そこまで打って、止まった。


本当に? その二文字は、あまりにも疑っているように見えた。美緒がせっかく大丈夫と言ったのに、それを信じない言葉になる。


消した。


「会いに行こうか?」


指が止まる。


会いに行く。それは、たぶん正しい。


でも、どこへ。美緒の部屋へ行けばいいのだろうか。美緒がそこにいるとは限らない。もし、今は誰にも来てほしくないと思っていたら。


会いに行こうか、は優しいようで、返事を求める言葉だった。美緒にまた決めさせる言葉だった。


消した。


「今どこにいるの?」


消す。


「一人?」


消す。


「美緒、これ本当に大丈夫じゃないよね」


そこまで打って、胸が痛くなった。これは、踏み込みすぎだ。でも、踏み込まなければいけないのかもしれない。


凛は、送信ボタンの上に指を置いた。押せなかった。


美緒が閉じた扉を、外側から叩く音に聞こえた。


もう大丈夫。そう言われたのに。


凛は、文字を全部消した。入力欄が白くなる。


何度も見た白さだった。


あの夜も、何度も打って、消した。大丈夫? 何かできることある? 今、会える?


全部、消した。言葉を選んでいるうちに、時間だけが過ぎた。


その間に、美緒はどこかへ行ってしまったのかもしれない。


凛は、スマホを握ったまま、目を閉じた。


思い出したのは、あの夜だった。


ファミレスのテーブル。少し安っぽい照明。ドリンクバーのグラス。美緒が頼んだパフェ。溶けかけたアイス。


美緒は、あの時、少し息を弾ませていた。


「やっと結婚できたよ」


最初、凛は何を言われたのか分からなかった。


美緒は小さく笑って、でも目は真剣だった。


「天城蓮」


その名前を聞いて、凛は冗談だと思った。


でも、美緒は本気だった。配偶者用アプリの画面を見せてきた。第13配偶者、と表示されていた。


「推しと結婚できるなんて、夢みたい」


「誰かにちゃんと愛されたかった」


「笑わないでよ」


「いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた」


美緒はそう言った。


凛は、笑わなかった。


少し怖いと思った。でも、それ以上に、美緒が本当に幸せそうだった。こんな顔をする美緒を、久しぶりに見た気がした。


だから凛は言った。


「おめでとう」


その言葉が、今は喉に引っかかっている。


おめでとう。あの時の自分は、何を祝ったのだろう。


凛は、あの時もっと聞くべきだったのだろうか。


第13妻って、どういう扱いなの。天城姓は名乗れるの。ちゃんと会えるの。他の妻の人たちとは、どうなるの。


聞けばよかった。


でも、聞けなかった。美緒があまりに幸せそうだったから。その幸福に、水を差す人になりたくなかった。


凛は、スマホの画面をもう一度見た。


佐倉美緒:

「もう大丈夫」


あの時の「やっと結婚できたよ」と、今の「もう大丈夫」は、同じ人から来た言葉なのに、まるで違った。


やっと結婚できたよ。


あの言葉には、凛に見せたいものがあった。見て。聞いて。驚いて。でも、祝って。そういう開いた熱があった。


もう大丈夫。


この言葉には、何も見せる気がない。閉じている。


凛は、そのことが怖かった。


美緒は、自分のところへ戻ってこないのかもしれない。


友達をやめる、ということではない。嫌いになられた、ということでもない。


ただ、美緒はもう、凛に説明する世界から少し外れてしまったのかもしれない。


凛は返信欄を開いた。


「分かった」


打って、止まる。


何が分かったのだろう。何も分かっていない。消した。


「でも、無理しないで」


また止まる。それはもう言った。何度も似たようなことを言った。消した。


「いつでも連絡して」


これも打って、消した。


それは、待つ側の言葉だった。美緒が戻ってくることを、ただ待つ言葉。


でも凛は、もう待っているだけではいけない気もしていた。


なのに、踏み込む言葉は送れない。


本当に? 今どこ? 一人? 会いに行く。


どれも、美緒の「もう大丈夫」を壊す言葉に見える。


凛は、スマホを膝の上に置いた。


部屋は静かだった。外では、朝の車の音が少しずつ増えている。誰かが出勤する時間になっている。普通の朝が来ている。


凛は、会社に行かなければいけない。顔を洗って、着替えて、電車に乗って、いつもの席に座って、仕事をする。


その間にも、美緒はどこにいるのか分からない。


普通の世界は、こういう時でも止まらない。凛は、それが少し憎かった。


もう一度、スマホを手に取る。


もう大丈夫。


その五文字を、何度も読んだ。


返信が来たことには、ほっとした。でも、その短さが怖かった。


本当に大丈夫な人は、こんなにきれいに閉じた言葉を送るだろうか。


凛には分からなかった。


返信欄を開く。


「本当に?」


そこまで打って、また消す。


代わりの言葉を探した。


けれど、どの言葉も、美緒が閉じた扉を無理に叩く音に聞こえた。


凛はスマホを握ったまま、何も送れなかった。

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