第63話【もう大丈夫】
夜が明けても、美緒は宮原の部屋にいた。
カーテンの隙間から入る光が、床の上の充電ケーブルを白く照らしている。ローテーブルには、飲みかけの水と、空になったカップスープの容器が置かれていた。コンビニ袋はくしゃっと丸められ、テーブルの端に寄せられている。
宮原は、床に座ったまま壁にもたれて眠っていた。
ベッドは使っていいと言われた。美緒は断った。断ったのに、途中で座ったまま少し眠ってしまったらしい。
目が覚めた時、身体が痛かった。
でも、自分の部屋で目覚めるよりはましだった。
自分の部屋には、配偶者用アプリの白い画面があった。離婚申請のボタンがあった。誰も来ない夜があった。
ここにもスマホはある。でも、宮原の部屋には、床に転がったペットボトルがある。洗面所から聞こえる換気扇の音がある。宮原の寝息がある。
何も解決していない。
それでも、一人ではない。
その事実だけで、少しだけ呼吸ができた。
美緒はスマホを開いた。
天城蓮からの連絡はなかった。
もう、その確認にも少し慣れていた。慣れたことが、また痛かった。
璃子からは、一通だけ届いていた。
久我璃子:
「体調はどう?」
短い文だった。美緒は、それを見つめた。
体調。その言葉は、やさしい。でも、何を返せばいいのか分からない。
大丈夫です。嘘になる。
大丈夫じゃないです。そう送れば、また管理担当から連絡が来るのだろうか。また、距離を置きましょうと言われるのだろうか。
美緒は返信欄を開かなかった。
下位妻グループには、まだ投稿できなかった。
【このグループへの投稿は一時的に制限されています】
表示は変わっていない。麻衣が何かを書いている。千紗が短く返している。琴葉が心配している。乃亜は、既読だけ。
妻なのに、妻たちの場所に入れない。
それは、昨日よりも静かに刺さった。
美緒は、凛とのチャットを開いた。
凛からのメッセージは、いくつも残っていた。
高瀬凛:
「大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで」
高瀬凛:
「美緒?」
高瀬凛:
「返事できなくてもいいから、無事ならそれだけ教えて」
高瀬凛:
「一人で抱えないで」
高瀬凛:
「会える時でいいから、連絡して」
最後のメッセージは、夜中だった。凛は起きていたのだろうか。ニュースを見たのだろうか。美緒のことだと分かったのだろうか。
美緒は、画面の文字を読んだ。
凛は優しい。本当に優しい。悪くない。何も悪くない。
それなのに、返せない。
凛に返すには、説明しなければいけない。
天城蓮の第13妻だったこと。下位妻グループで救われたこと。その下位妻グループで壊れたこと。乃亜を疑って、傷つけたこと。璃子に救われて、でも距離を置かれたこと。蓮に、お前といると楽だと言われて、それを信じたこと。流出したこと。妻コミュニティから切り離されたこと。配偶登録解除画面を何度も開いていること。
そして今、宮原の部屋にいること。
どこから話せばいいのか分からない。
美緒は返信欄に指を置いた。
「ごめん」
打つ。消す。
「心配かけてごめん」
消す。
「何から話せばいいか分からない」
その文を、しばらく見つめた。本当だった。
でも、それを送ったら、凛はもっと心配する。どこにいるの、と聞かれるかもしれない。
宮原の部屋。その答えを、凛に返せる気がしなかった。
凛は、きっと正しいことを言う。正しいことを言われたら、美緒はここにいられなくなる。今、ここにしかいられないのに。
美緒は消した。
佐倉美緒:
「大丈夫じゃない」
それも、本当だった。一番本当に近かった。
でも送れなかった。
大丈夫じゃないと言ったら、凛のいる普通の世界へ戻らなければならない気がした。
美緒は、打った文字を消した。
入力欄が白くなる。何度も、白くなる。
美緒はスマホを握ったまま、宮原の方を見た。
宮原はまだ寝ていた。壁にもたれたまま、少し首が傾いている。寝づらそうだった。
美緒がベッドを使わなかったから、宮原もベッドを使わなかった。それは気遣いなのかもしれない。でも、完全な気遣いではない気もする。
宮原は、少しだけ美緒の近くにいたがっている。美緒はそれに気づいていた。気づいているのに、離れなかった。自分も、その近さに少し寄りかかっている。
それが怖い。でも、その怖さよりも、今は一人になる方が怖かった。
「起きてんの」
宮原の声がした。美緒は少し肩を揺らした。いつの間にか、宮原が目を開けていた。
「すみません、起こしました?」
「いや、腰痛くて起きた」
宮原は、顔をしかめながら体を起こした。
「床で寝るもんじゃないわ」
「ベッドで寝ればよかったのに」
「美緒が寝ないからでしょ」
その言葉に、美緒は少しだけ固まった。
美緒。
宮原は、普通にそう呼んだ。
昨夜までは、美緒ちゃんだった。店では佐倉さん。でも今は、美緒。
第13妻ではない。佐倉さんでもない。非公表配偶者でもない。流出した人でもない。
ただの、美緒。
天城蓮にも、美緒と呼ばれたことはある。初めて呼ばれた夜。あの個室。
蓮の声で呼ばれる名前は、胸が跳ねる音だった。推しに名前を呼ばれる。その他大勢ではないと証明される。あの甘さは、今も身体の奥に残っている。
宮原の「美緒」は違った。もっと低い。もっと近い。もっと雑で、逃げ場がない。
番号ではない。序列でもない。登録名でもない。ただ目の前の人を呼ぶ音だった。
それが救いなのか、所有なのか、美緒にはまだ分からなかった。でも、その呼び方に少しだけ揺れた。
「送った?」
宮原が聞いた。
「え?」
「友達」
美緒は、スマホを見る。凛とのチャットが開いたままだった。入力欄は空白だった。
「まだ」
「そっか」
宮原は、それ以上聞かなかった。
美緒は、凛とのチャットをもう一度見た。
長い説明はできない。今はできない。たぶん、今だけではない。これからも、全部は説明できない気がした。
美緒は打った。
佐倉美緒:
「もう大丈夫」
五文字。短い。あまりにも短い。
大丈夫ではない。何も大丈夫ではない。
でも、美緒はその五文字を見つめた。
もう大丈夫。
意味は、一つではなかった。
これ以上、踏み込まないで。説明できない。凛の知っている私は、もう少し違う場所にいる。私は別の場所へ来てしまった。普通の世界には戻れない。でも、心配されたくない。
その全部が、この五文字に入っている。
美緒は、送信ボタンを押した。
既読は、すぐにはつかなかった。
送った後で、胸の奥が少し冷えた。
何かが終わった気がした。
凛との関係が終わったわけではない。そう思いたい。でも、何かが変わった。
最初に、やっと結婚できたよと言った相手。夢みたいだと笑った美緒を、笑わずに聞いてくれた相手。その凛に、美緒は今、「もう大丈夫」とだけ送った。
大丈夫ではないのに。説明しないために。戻らないために。
「送った?」
宮原がもう一度聞いた。
「うん」
「何て」
「もう大丈夫って」
宮原は少しだけ黙った。それから言った。
「大丈夫なの?」
美緒は、首を横に振った。
「じゃあ嘘じゃん」
「はい」
「いいの?」
美緒は、画面を伏せた。
「分かりません」
宮原は、短く息を吐いた。責めるためではないため息だった。
「じゃ、もう寝れば」
「寝られないです」
「寝れないなら、まあ、起きてればいいし」
さっきも聞いたような、雑な言葉だった。でも、今は少し違って聞こえた。
宮原は立ち上がり、ベッドの上に置いていたブランケットを取った。それを美緒の肩にかける。
「今日は、なんも考えなくていいよ」
そんなことはできない。美緒はそう思った。
考えないなんて無理だった。離婚申請。天城蓮。凛。乃亜。璃子。流出。宮原。全部が頭の中にある。
でも、宮原がそう言うなら、今だけは考えないふりをしてもいい気がした。
美緒は、ブランケットを指で掴んだ。
宮原が隣に座る。近い。肩が触れそうになる。
美緒は避けなかった。宮原も、気づいているはずだった。それでも、何も言わなかった。
少しだけ、肩が触れた。
美緒は、目を閉じた。
宮原は、美緒、と呼んだ。
第13妻ではなく。佐倉さんでもなく。問題の人でもなく。ただの美緒。
その呼び方は、蓮の声とは違った。胸が跳ねるような甘さではない。もっと近くて、もっと低くて、少しだけ逃げ場のない音だった。
それでも美緒は、その呼び方に少しだけ寄りかかってしまった。
スマホは、テーブルの上で伏せられている。
凛へのメッセージは、もう送られている。
もう大丈夫。
大丈夫ではなかった。でも、それ以上の言葉を送ったら、凛のいる場所へ戻らなければならない気がした。
宮原の肩が、少しだけ美緒に触れている。
離れようと思えば、離れられた。でも、美緒は動かなかった。
そのまま、朝の光が少しずつ部屋に入ってきた。




